第2話 「迷える弾丸」
「Bless you(加護あれ)」
引き金は引かれた。
弾丸は風を切り、炎に怯むことなく、揺らめく人影を見事に貫く。
しかし、崩れ落ちたのは青年ではなかった。
「死“神”に好かれたか。可哀想に」
男は、銃を投げ捨てた。そして、腰に下げていたダガーナイフを利き手――左手――で引き抜く。
「さあ、食餌の時間だ」
食餌――それは美しき存在の返り血を浴びることである。遥か北方の地、今は汚され荒みきってしまったその地で信仰された、さる異教の儀式の一つであった。
彼はその儀式だけを信仰し、近接戦を病的なまでに好んでいた。さながら、酒に酔うかの如く、血に酔っていた。
彼にとって、儀式の後に約束される転生などに、価値はなかった。この火の絶えぬ、汚れきった世界こそが、彼の楽園であった。
「歪んだ美しき顔を見せたまえ、Flam」
まだ見ぬ、美しく歪む顔を思い浮かべて、彼は唇に弧を描いた。そして、彼は恍惚とした表情はそのままに、鋭く光るナイフを片手に、火中へ身を投じていった。
一人、残った男は、静かに祈りを捧げていた。その手が血に濡れることもいとわずに、ただ黙々と、見開かれた目蓋を閉ざし続けていた。
仮染めの安息を屍に与えたところで、人を殺めて生きる己が赦されることなど無いことくらい、彼にも痛いほど分かっていた。だから、彼は赦されようなどとは微塵も思ってはいなかった。
ただ、彼は信じたかったのだ。彼ら――罪なき者――は、死の先に安息が約束されることを。殺戮者を消し去れば、この世から解放され、安息へと導かれることを。でなければ、彼は銃を手にすることが出来なかった。
――彼はまだ、戦う意味を見出だせずにいた。
「戦わねぇと死ぬ。けど、戦っても死ぬ。だったらどうしろってんだよな」
傍らで瞑目する屍に問いかける。当然、答えは無い。
ベイオネットは、溜め息を一つ溢して、立ち上がった。街路には、未だに無数の屍が目を見開いたまま倒れている。立ち止まって感慨に耽っている暇など無い。与えられた時間は、僅かなのだから。
再び、彼は歩き出した。次なる犠牲者を探して、静かに歩き出した。
それから、2、3人程祈りが済んだ頃だっただろうか、一際目を引く、白磁の肌の乙女が視界にふと入り込んできた。彼女も他の屍と同様に、街路に打ち捨てられており、内部は腐りつつあるのか、異臭を放ち始めていた。また、頸動脈を切断されたのか、首から夥しい血液が漏出しており、その青白い肌を汚していた。しかし、そんな血の海でも、その白い顔だけは血に染まっていなかった。
「これが、神の祝福か?」
屍を見下ろし、淡々と彼は言った。だが、その顔は、苦渋に歪んでいた。
彼女は命が燃え尽きるその時まで、祈りを捧げ続けたのだろう。細い指は、死してもなお、固く組まれたままである。彼女は、最期まで神を信じていた。そして、裏切られた。裏切られたと知ったときにはもう、身体は動かなかったのだろう。怯えた碧眼が語っていた。
ベイオネットは、乙女の傍らに跪いた。
「もう、見なくていい。こんな世界は……」
そう譫言のように言って、乙女の瞼に手を翳し、祈りを捧げた。
「At least,bless you.(せめて、貴女に神の加護があらんことを)」
しかし、彼女の瞼は閉じなかった。もう、遅すぎたのだ、何もかも。
(俺は、また……)
ベイオネットは、頭を振った。ふと顔を覗かせた過去の残像に、囚われることを彼は恐れていた。――全てを失ったあの瞬間に。
彼は、何も言わずに立ち上がった。いや、何も言えなかったのだ。全ての言葉が、行動が、あの日に繋がってしまうような気がしてならなかった。
もうじき、銃声が鳴り響くだろう。もう、彼には祈る気力は残っていなかった。
彼は心を殺し、愛用の長銃を肩に担ぎ直した。そして、身を隠せる瓦礫を探してゆらり歩き出した。
程無くして熱風を凌げそうな場所は見付かった。それは、寄りかかれば崩れ落ちてしまいそうな頼りの無いものであったが、どうせ長居はしない。ベイオネットは迷うことなく、その焼け焦げ、煤けた漆喰の陰にさっと身を隠した。
そして、すぐに彼は銃の点検を始めた。黒光りする相棒は何時なんどきそっぽを向くか分からない。この相棒は商売道具であり、心臓でもある。その管理を怠れば死に繋がる。
(惜しい命なんて、無ぇがな)
これも、青い欲望を胸に秘め、銃を手に取った過去の自分の残滓に過ぎない。
男は点検もそこそこに相棒を抱きかかえて空を仰いだ。紅の空に星は無い。星も、この地獄から逃げ出してしまったようだ。
男は薄く笑って、目を閉じた。
視界が闇に染まると、全てを飲み込まんとする業火の吼え声が容赦なく鼓膜を震わせる。それはあまりにも激しく、炎に巻かれて苦しむ者の断末魔まで聞こえてきそうな程だ。
(逃げ道は無い、か)
男は、重い瞼を持ち上げた。相変わらず星は無い。ただ、赤々とした炎が紺碧の帳を焼き付くしているだけだ。
(どこにいようと地獄だな)
何故、この生に執着するのか、その答えを彼は持ち合わせていなかった。それ故に、相棒を胸に抱く度に彼は問い続けた。
「何故、自分は生きているのか」
と。
この果ての無い地獄から逃れること自体は容易い。男には銃があり、極めて正確に目標を撃ち抜く技術もあった。
だが、彼は生きている。自分の生に疑問を持ちながらも、今の今まで生き永らえている。
(もう、お前は居ないんだろ?)
目を閉ざせば、儚げに微笑むカナリーイエローの髪の女が手を振っている。
(Icea)
手は自然と引き金に向かっていた。もう苦しまなくて良いのだと、彼女が言っているような気がした。
――だが、引き金は引かれなかった。否、引けなかったのだ。
力を込めた瞬間、乾いた銃声が紅き戦場の空に響き渡った。
(無様に生きてろってか)
いつも邪魔が入る。
「全くお前は最高だよ、ツヴァイ」
死への逃避はいつも、あの血にまみれた男によって阻まれる。老若男女問わず、戦いを強いるあの男に。
男に対する恨み言はない。ただ、前進するしか道は無いと知りつつも、己を絶望の淵に引き摺り込むだけの過去に囚われ続け、苦しみもがく己が酷く滑稽だった。
「また、お前の勝ちだ」
男は、噛み締めるように言った。そうして、敗戦を胸に刻み込んで、口角を引き上げた。
「いくぞ」
最後に、彼はそう言って己を叱咤し、鉛のように重い腰をぐっと持ち上げた。