第10話 「憎悪に燃える琥珀石(アンバー)」
青年を肩に担ぎ、先程の男が言っていた細い通りを足早に抜ける。この狭い路地は、風の通りが悪いのだろう。滞留した腐臭が、容赦なく嗅覚に襲いかかる。視線を上げると、霞んだ灰色の空の彼方に、小高い丘が目に入る。小高い丘の上は白い壁に覆われ、その内部を視認することは出来ない。ただ、穢れを知らぬ白壁が、腐り、淀んだ雲を静かに見下ろしている。
「まさに、高みの見物……ってか」
頭の上から足の先まで穢れきり、地を這い生に縋りつく自分達に、手が差し伸べられることはない。地獄から天国を見上げるのは、きっとこういう感覚なんだろうなと、男は1人ごちて視線を逸らした。
先程の狭い路地よりもさらに狭い、風の無い路地には人影ひとつ無い。背合わせの建物の隙間に出来たこの狭い路地は、下水の通り道であるようだ。人一人が何とか通れるヘドロに塗れた石畳のすぐ横には深い溝がある。その溝からは、糞尿をはじめとした腐った有機物が混ざり合った形容しがたい濃い、悪臭が立ち昇っている。
「こんな、溝の真っ只中みてえな場所に本当に医者なんて居るのかよ」
まんまと偽の情報に踊らされてしまったのではないかと、舌打ちする。しかし、後戻りして呑気に尋ねまわる時間は残されていない。この青年の炎は今にも消えようとしているのだ。
「とりあえず、行くしかねえな」
薄汚れたスラムのさらに奥へ。男はヘドロが跳ね上がるのも構わず歩を速めた。
果たして扉は見つかった。家屋には窓一つなく、中の様子を伺うことは出来ないが、跳ねたヘドロやこの街を包み込む濃厚な煙霧で薄汚れた扉と壁の隙間から微かに漏れ出る光がある。それが、一筋の光明に思えてしまう程には、ベイオネットも焦りを覚えていた。武器に手も掛けず、弱った扉が突き抜けてしまうほど、殴り付けるようにノックして、叫ぶ。
「頼む、開けてくれ。助けてくれ……っ! 時間が無いんだ、頼む……! 開けてくれ!」
人に事を頼む態度ではないとか、政府を敵に回す組織の構成員として、軽率すぎるとか、考える余裕も無かった。一縷の望みを託しすがる他今は無い。
男の望みが通じたのか、否、あまりの騒々しさに我慢ならなくなったのか、扉の向こうから苛立たしそうに木製の床を踏みつける音が近付いてくる。
そして、荒っぽく開かれた扉の影から、こちらを冷ややかに睨む琥珀が覗く。室内は思いの外暗く、その男の容貌をはっきりと視認することは出来ないが、頭には黒い鳥の巣が乗っている。男から、漂う消毒液の臭いから、彼こそが己が探し求めていた存在だと少しばかり安堵はするが、その髪は複雑に絡み合い縺れ合い、湿り気を帯びているかのように妙に艶やかで――単刀直入に言えば汚ならしい。
(こんな場所だから、仕方ねえが)
降り注ぐ雨は致死量には程遠いとはいえ、ありとあらゆる有害物質を含み、その雨水を清める施設など、このような見捨てられた貧民街にある筈もない。
(下手に浴びて汚染するよりは、という考えも分からなくもない、が)
それにしても、酷い身なりだ。臭いこそ、濃い消毒液の臭いによって掻き消されているが、ちらりと覗く白衣の襟元はうっすらと黄ばんでいる。
暫し、男の琥珀を見詰め、相手の出方を窺っていると、男は鼻を摘み、明らかに不愉快そうにこう言い放った。
「随分とまあ、酷い身形の溝鼠が迷い込んだものだ」
お前に言われたくないという言葉をぐっと飲み込み、努めて冷静にベイオネットは、男に頭を下げる。
「こいつを助けてくれ。頼む」
恐らく、相手はさぞ困惑していることだろう。自分でもどうかしていると頭を下げながらベイオネットは自嘲する。つい数時間前に“拾ったばかりの”瀕死の青年――しかも、ナイフ片手に暴れ回っていた――を助けてもらうために、武器も手にせず、素性の知れない相手にこのように頭を下げるなど、愚行にも程がある。
「……冗談?」
頭上から降ってきた呟きは、侮蔑が籠って無い、ただただ純粋な驚嘆のそれであった。相手の出方を窺おうと視線を上げれば、驚きで大きく見開かれた琥珀とかちあう。その瞳を見据えたまま、真剣な面持ちで刻みつけるように、本気だと返せば、男は渋い顔をして溜め息混じりにこう告げた。
「手遅れだよ。帰って、そこらへんの土にでも埋めな」
関わりたくないと言わんばかりに、扉を引いて、薄闇へ融け入ろうとする男をベイオネットは、捕らえる。閉まりかけた扉に片足を捻じ込み、黄ばんだ襟元を左手で掴んでしまえば、男は容易く動きを止めた。
「悪いな、人間を生き埋めにする趣味はねえんだ」
ベイオネットは、不敵な笑みを浮かべ、襟元を掴む手に力を込める。しかし、その孔雀石は冷やかに細められ、静かなる怒りを秘めている。
「それに、今、こいつの命を委ねられるのはお前しかいねえ」
それは懇願と言うよりは、脅迫に近い。地を這うような低い声で、威圧した。しかし、それに怯むような男ではなかった。男は、俄かに噴き出して、今や不器用な呼吸を繰り返すことしか叶わぬ哀れな青年に指をさす。
「はっ、人間? 君の目は節穴かな。それは、Cerussaだろう? プライドだけは一人前の劣等種の」
その笑顔は、軽蔑や憎悪といった感情で酷く歪む。まるで汚物でも見るかの目付きで、青年を見る。そんな男の態度に気付かない振りをして、ベイオネットは交渉を続ける。
「だとしたら、何だ? Cerussaを助ける腕は持ち合わせていねえ、と?」
とぼけた様に、肩を竦めて相手を挑発する。この挑発は効果覿面だったようだ。プライドの高い、男は馬鹿言わないでくれと、怒りを露わにして、襟元を掴むベイオネットの手を振り払う。
「大体ね、何で僕がCerussaなんかを助けなきゃならないんだ」
そして、吐き捨てるようにそういって、立ち去れとばかりに睨み付ける。
「Cerussaなんか、ねえ。なんであんた、そんなにCerussaを嫌う?」
それは純粋な疑問であった。Cerussaを社会的弱者として蔑んだり、奴隷同様に慰み物にされても抵抗しない(出来ない)彼らを淫奔で穢れた存在として差別することはあっても、この男のように憎悪を抱くことまではない。彼らは、こういった貧民街では常に被虐の犠牲者であり、抵抗する術など持ってはいない。
――この青年は、例外であるが。
だからこそ、気になった。そして、この憎悪を解消するか、あるいはその憎悪を一時的に鎮める程の対価を払わなくては、青年を救うことが出来ない。そんなベイオネットの思惑を知ってか知らずか、男は、矢継ぎ早に言葉を紡ぎ始めた。
「進化した人間かなんだか知らないけど、こんな貧民街じゃ慰み物か、適当に売っ払って今日の飯の糧にするかの価値しかない。大方それだって、そんなものだろう? 自分の足じゃ立てない、寄生虫のような存在。何が、Advanced(進化した者)だ。君だって同類だろう? そんな、ぐったりするまで玩具にしたんだから」
息もつかずに、そこまで言い切ると、次は軽蔑の眼差しをベイオネットに向ける。怒ったり軽蔑したり忙しい奴だと、ベイオネットは内心苦笑を浮かべて、男の問い掛けに肯定も否定もせず、ただ肩を竦めてみせる。それを不服に思ったのだろう。男は小さく舌打ちをする。しかし、ここで折れるような男でも無い。何事も無かった様に、無表情を繕ってさらに言葉を重ねる。
「ま、そんなことはどうでもいいんだけどね。死体でもそれなりの金になるし、良いところ教えてあげようか?」
これでは、埒が明かない。この男のCerussaに対する負の感情はあまりにも深く、とうてい払拭出来そうにはない。だが、時間は無い。
「はっ、Cerussaを売り物にしてる奴ぐらい、把握してるぜ。余計なお世話だ。大体、その気があるなら、そうしていると思わないか?」
迫る時間制限に焦燥感を覚えながらも、ベイオネットは何食わぬ顔で男の刃物のように鋭い言葉を受け流す。
「売る前に味見をしたがるのが、人間ってものだろう?」
――少々強引な手を使ってでも、ケリを付けなくては。
ベイオネットは孔雀石から光を消して、男の肩を掴んで、溜め息混じりに。
「味見、ねえ……ああそうだな。もう、何だって良い。とにかく、こいつを助けてほしい。タダでとは言っちゃいねえ、対価は払う。もちろんな」
言葉の最後には笑みを添えてみせる。この方法が男に通用するとは、ベイオネットも思っていない。一か八かの賭けだ。暫し、冷めた琥珀を見詰め、男の出方を窺う。すると、男は、相好を崩して、嫌味たらしい笑みを浮かべてこう言った。
「ふうん……対価? 例えば、どんな?」
そして、ベイオネットを妖艶さすら感じる目付きで、ゆっくりとねっとりと、彼を値踏みするかのように見る。ベイオネットは暫し瞑目し、沈黙する。
(気乗りはしないが)
やむを得ない。深く息を吐いて、目を開けば、こちらを試すように細められた目とかち合う。
「……お前が望むなら、人殺しでもなんでも」
苦虫を噛み潰したような顔で、そう言って目を逸らせば、男がふふっと笑みを漏らす。交渉決裂か、そう思い、失意の中で男を再度見遣ると、男がこちらに手を差し出していた。
「良いよ。引きうけてあげる。こっちだ」
底知れぬ笑みを浮かべて、男はあまりにもあっけなく、条件を呑む。その事に一抹の不安を感じつつも、ベイオネットは男に招かれるまま、消毒液の臭いがやけに鼻につく屋内に入る他なかった。