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7~10

7

 大きな船。船長は? オレは──持ち場は?

 船が一気に傾き、甲板が壁のように──オレは滑り落ち、右手で間一髪何かにつかまる。

 そこに、二人滑り落ちてきた。

 葉波と岡野。

 どちらかしか助けられない──どっちを?

 オレの手が伸びる。


 はっ、と目が覚める。

 全身が冷や汗で濡れる──なんて夢だよ。

 ハンモック。筋肉痛が全身に走り、頭が重い。

 そうだ、嵐の海から船を指揮して南硫黄島のメガフロートに避難し、何とか入港して──

 今何時だ?

 丸一日半ぶりにケーコをつけると、もう一八四〇。といっても、寝たのは一一二〇は過ぎていたはずだ。

 腹減った。寝る前に少しだけ牛乳を飲んだが、ぜんぜん足りない。

 集まっている簡易宿舎にいくと、みんな大体起きて食べ終えていた。ケーコに没頭してるのもいるし、雑誌を読んでいるのもいるし、しゃべってるのもいる。

 みんな食われてるかなと覚悟していたが、葉波たちがちゃんと取っておいてた。

「あれだけマストで頑張って、一休みもせず船を動かし続けてくたくただろ? この餃子も食え!」

「このチャンプルーも元気出るぞ!」

「さすが“嵐の長谷川”!」

「ありがと、おかげで命拾いしたわ! 長谷川君に交代するまで死ぬ覚悟してたの」

「やっぱここのメシはうまいよ、もっと食えよ!」

 とどんどん詰めこまれた。

 南硫黄島メガフロート群には沖縄系、韓国系が多いから、食べ物も日本食から離れている。でもおいしい。そういうのを安里や李の家でご馳走になることもあるけど、うまい。どちらも雑穀や海産物、肉をうまく使ってる。

 でも岡野に言わせると、

「ここだけじゃない、海の食べ物って──うちの食事も給食や学食も、本土とはぜんぜん違う変なのよ」

「悪かったな──好き嫌いは食べ物がなくなって四日間、一度の雨だけで過ごしてから言ってくれ」

「由、バカを自慢しないの。おいしいんだけどな」

 葉波はちょっと恥ずかしそうだ。あれ以来オレも葉波も、(オレは船酔いの時以外)何も食べ残せなくなってしまった。

「ううん、おいしいよ。でも──食卓の調味料から違うの。ここも、うちや学食も塩、普通の醤油、これ──」

魚醤ニョクマム。魚を発酵させてるの。東南アジアで使うわ」

「韓国でも、実は古代ローマでもね。醤油よりずっと歴史のある調味料よ」

「それに、この唐辛子味噌コチジャン

「中国でも似たようなのがあるわ」

「と小エビの塩辛に酢でしょ? 本土では醤油とソースが主で、塩コショウ、化学調味料、七味、あとラー油と粉チーズがよくあるわね。ここの組み合わせは──ちょっと調べさせて──やっぱり中華、韓国料理店、それも日本人向きじゃない本格派よ」

「本土ってそうなってるんだ──メガフロートはアジア中、いや世界中からだし、素材がいいからね」

 メガフロートには失業対策、移民先という面もある──そうなると少子高齢化の日本より、元々人口が多いアジア各国からの移民が多くなる。日本領海では日本語中心で補助的にニュイン、だけは一応守られてるけど。

「でも、ちょっとそれぞれの故郷とも味が違ってるんじゃない?」

「まあね。オヤジは最近外食するたびに伝統の味じゃない、って文句いうよ。でも寒い韓国と、この暑い回帰線じゃあね」

「みんなで新しい味を、世界を作ってるのよ」

「おーい! 君が今朝のお子様船長かい、映像見たけどたいしたもんだ!」

 とそこのお兄さんにも嵐の話を聞かれ、

「ほら、うちのキムチと鰍魚湯チュオタンも食えよ!」

「なに? このお団子」

「ドジョウ」

「え!」

 葉波に岡野がまた聞いてる。さすがにあの脳直結ケーコも、味覚で検索するのは無理なようだな。

「健康にもいいのよ、いっぱいどうぞ」

 野菜がたっぷり入った、山椒の辛味がきいたさっぱり熱々スープにすり身のドジョウとご飯。うまい! かっと吹き出る汗が暑さをふっとばし、つかれきった体に染みこんでいく。

「メガフロートの水田ではアゾラ、アイガモ、ドジョウ、鯉を同時に育てるのが標準で、すごく豊富な食材なの」

「ほら、鯉の甘辛煮とアイガモのローストもどう?」

「飽きても世界中から来た、いろいろな味つけで目先を変えられるしね」

「鯉にドジョウ、水田の魚はアジアの味!」

「海に、アジアに乾杯!」

「海に国境はない!」

「ほら、これも飲みなよ! おねえさんがお酌してあげる」

「ノンアルコールだけどね、もちろん」

 どこからか女の子が──年上のお姉さんも──集まってきた。あ、やっぱり酒だよ。

「ねぇねぇ、この映像本当? こんな小さい子がこの台風、ほとんど帆だけで乗り切ったの?」

「うそでしょこれ、三角波がわかるの?」

「すごい迫力! 本物の船長さんみたい」

「ここの上手回し素敵! こんな可愛い顔して」

 などとちやほやされてかなり気分はよかった──でもケーコで見たらオレもミスがけっこうあったから、それを思いだすと恥ずかしい。けど気持ちいい。でも忘れちゃいけない、それはみんながついてきてくれたからだ。でも気持ちいい。頭がくらくらする。


 帰ると、稲──ネイも多いけど──刈りの準備が本格的に始まっていた。

 とっくに合鴨は繁殖用以外食肉処理された。美香が大泣きしていた。水田のドジョウや鯉も収穫か水路へ、アゾラは緑肥や飼料にされている。

 より南ではもっと早く稲刈りを終わらせ、遺伝子改良麻やトウモロコシ、キャッサバなどの植えつけが始まっている。

 期末テストが終わると休む暇もなく稲刈り、そして夏休み。

 そろそろあちこちから、出稼ぎの臨時労働者が集まる頃だ。

 大人がどんどん忙しくなる。例の講座のこと、親に言わないと──

「あのさ」

「お兄ちゃん、何さぼってるの? 宿舎整備しなきゃいけないんだから、手伝えって!」

「勘弁してくれよ、もうすぐテストなのに」

 着がえて出かけると、年寄りと子供が忙しく働いていた。大人は農業メガフロートで機械のメンテナンスなどをしているのだろう。

 空き屋やホールなどを片づけ、出稼ぎに来た人たちが数日暮らせるよう寝床やトイレを整備する。

「ここは中国、あっちは?」

「フィリピンからは今季三十人ぐらい来るよ。去年の苦情一覧は──」

「ほらこっち手伝ってくれ。死人を引き起こせ、ほー」

「お嬢さんはこっち、炊き出しの準備を手伝ってくれ。もしジェンダーがなんだでやりたいならあっちでもいいがね」

 と、李ばあちゃんが岡野に、足場の遺伝子操作強化竹を担いでいるおれたちを指さす。

「い、いいです」

 ふん。結構運動神経いいくせに。こっちのほうが気持ちいいんだぞ?

 ちなみに見た目ほど重くはない、一度昔使っていた、同じぐらいの強度の鉄パイプを持ったことがあるけどその半分もない。

 遺伝子改良竹は実に便利だ。こういう高強度、大収量の製紙用、植林用、飼料用など何種類もある。滅多に実をつけないから制御もしやすい。

 だいぶいい汗を流し、

「さて、そろそろ今日は一段落するか。ガキどもは勉強だろ、ちゃんとメリハリつけろよ」

「はいはい」

「はい、は一度!」

 ああもう──大人だらけの世界ってこれだから。でもクズな先輩よりはずっとましなんだが──

 クズな大人もたまにいるけど、それは告発すればちゃんと調べて処理してくれる。情報公開があらゆるところで徹底しており、ネットワークの騎士団が人間とはまったく別な視点で監査してくれている。

 でも本土よりはましか、

「本土って老人ばかりなんだって?」

「どこからそんな話が出てくるの? もうすぐテストよ、早く帰るわ」

 ふ、と少し赤くなった岡野の表情が和む。日焼けがひどいんだな、気の毒に。


「これ、夏休みに行きたいんだ」

 と、オレは画面向こうのオヤジと目の前のオフクロに、例のパンフレットを見せた。

「いいじゃないか? 集中的に勉強できるならいい機会だ」

「でもいいの、お父さんのところに行かなくて」

「毎年毎年、砂漠で穴掘りするのもなんだろう? 会うだけなら今から戻って稲刈りを手伝うよ、美香たちを迎えに行くついでに」

 相変わらず鷹揚というかおおざっぱというか、これで関東地方に匹敵する面積の砂漠を、森と農地に戻してきた人物とは到底思えない。

「美香もそっちへ行く予定だったの?」

「ああ、それに」

「で、その授業って」

 突然オフクロが話を切り替えた。なんだ?

「パンフを見ると、理系の研究や高等技師に通じる講座みたいだな。でも内容は基礎的だって。勉強時間はすごく長いけど」

 一日十時間以上時間割が組まれている。休みがほとんどない。

「基礎的? 簡単? 本土で遊びたいんじゃないの?」

 オフクロがちょっと嫌そうな表情。

「いや、数学とかの基礎は意味が違う。この講座、宇宙関係や上級の技師には必須だな」

「え、じゃあ絶対やる!」

 宇宙と聞いたら。

「それに、成績が良ければ国費上級学校にも」

 オヤジのひとことでオフクロの目の色が変わり、

「じゃあ行きなさい! とにかく真面目にやるのよ? 向こうでの受け入れ先は──あ、寮があるのね」

 向こう? あ、本土でやるのか。それも見てなかった。

「それに、この講座を受ける条件は?」

 オヤジが急に真面目になってきた。

「英語をもう少し──」

 実はかなりきつい。ニュイン──ネット生まれの国際共通語でコンピュータ言語であり、簡略化した英語とラテン語が中心──と船乗り言葉は大丈夫なんだが、古典英語の単位が少々足りないのだ。何で英語なんてやるんだ、自動翻訳もあるのに。

 急いで短篇二つとソネットをいくつか、暗記暗唱しなければならない。期末テスト一発の選択講座で助かった、もしできればだが。

「ならそれがんばるんだな。稲刈りには帰るよ、あとは」

「わかった」

 と大人同士の話から離れ、繭に戻ってテスト勉強を始めた。

 宇宙に行きたい、だからあの講座を受けたい。今までにないほど勉強した。

 でも──無性に悲しい。親は行かせてはくれるけど、でも──なんていっていいかわからないけど、もっと別のことを言って欲しかった気がする。無性に腹が立つ──勉強にぶつけるのがいいんだろうけど。

 常駐ソクラテスがまた『なぜ』『なにがほしい』と聞いてくるだろう。

 オヤジと仕事をしたいのも確かなのに──


 テスト勉強はいつのまにか岡野、葉波、美香の四人でするのが普通になった。美香は小さいので暗唱を確かめたり絵を描いたりケーコで遊んだり、だが。小さい頃は暗記暗誦が多くて退屈だったな、そういえば。読書や計算が好きだったからまだ救われるけど。

 岡野も美香はかわいがってくれているようで、ほっとする。オレの悪口で仲がいいんだろうが──麻美は女の子たちに人気があるから、そっちで遊んでいる。前は美香といつもいっしょだったけど、最近は……

 葉波は得意な社会とコンピュータ、オレはいつもならお返しに数学と理科だが、今回は岡野が葉波に教えている。

 岡野の英語と理数は大したもので、もう国際義務教育水準──相対性理論と量子力学も理解しているらしい。オレは航海術に時間をとられて、まだ微分積分と古典力学で四苦八苦している。航路をちゃんと数学的に出すのと、勘と、コンピュータで出すのがどう違うか、分かりそうで分からないんだ。何か肝心なことがわかってない気もするんだけど。

 で、オレは岡野に英語を聞くしかないのだが──

「なあ」

「え?」

「すまない、ここ教えてくれ」

「あ、ここはね──」と、葉波が割りこんできた。そのほうが岡野にはいいからか。優しいな。

「で、この関係代名詞に──そういえば明日の午後、おじさんが帰ってくるのよね」

「ああ」

「半年ぶりでしょ? 楽しみ?」

「うるさい」

「バカ」

 と、岡野が突然機嫌を損ねた。何かしたのか?

「あ──メール。悪い、ちょっとテスト勉強休んで、うちの収穫手伝ってくれない?」

 葉波が軽く片手拝みした。

 相原家は週のうち二日は大農企業で大規模な食糧生産、残り二日は自分たちの林畑でメガフロート住民用や加工用の野菜や果物を作っている。オレの家に庭として割り当てられている土地も半分以上は葉波の家に任せ、代わりに野菜など現物を市場に行く必要がないほどもらっている。

「うんハナ」

「わかったよ」

 まあ、少しは体を動かすのもいい気分転換だ。

「じゃ、ヨット借りてくる。えまちゃんはこれに着がえてて」

 ジャージとオレンジの麦藁帽子を渡す。

 オレはのびをして英語のテキストをしまい、クロゼットルームに向かおうとして──ちょっと岡野とぶつかったようになり、間が持たなくなった。

「のぞかないでよ」

「しねーよ」

 意識させるなよ、我慢してるのに。

「この間お風呂のぞいたじゃない」

「見てねぇよ、悲鳴あげるからだバカ、虫ぐらいで」

 本当はまだ目に焼きついているんだが──

「あんな大きな──見たことないわよ」

「由──」

 葉波が後ろから──

「ちょ、ちょっと待って」

「問答無用!」

 と、一発しばき倒され、こっちで着替えなさいとクローゼットに放り込まれた。

「のぞかれたらびくびくしないで見せてやればいいのよ、減るもんじゃないし。それで堂堂と見たり、襲ったりする度胸なんてないから。お姉ちゃんがね、おととし由が──」

 葉波の声。くそ、バカにしやがって。

 しかし──あれは──昔は平気でみんな一緒に風呂でも何でも入ってたのになあ──昔の自分がうらやましい。


 路上電車で埠頭に向かい、予約してあった小型のヨットに乗ると、う──また気持ち悪い、けど──やらなきゃ──

「面舵少々、よーそろ──」

「よーそろ──うぷっ」

 んん──気持ち悪い──頭が重い、また──少し波をかわして縦揺れ、うう──

「もうすぐだから我慢して!」

「わかってるって」

 船尾を見るオレの目に、全く酔わないけど少し寂しそうな岡野の目が映った。何もできないのが情けないのか? なら一から航海術を習え、一年ぐらいしたら舵は無理にしても──う、大きなうねりをよけ、それを利用して上手回し──舵を返し、首をすくめて反対舷に回る帆桁をよけ、波を頭からかぶる。岡野のケーコ、また故障しないだろうか?

「もうすぐ、そこだから」

 目の前に細長く広がる第二農場。ヤシの葉が防波堤の上から見える。

「第三埠頭にいくよ、取舵一杯」

「了解、上手回し──おっと」

 ちょっと大きな縦揺れ。葉波が素早く三角帆を操作して不安定を逆用し、埠頭に入って手早くもやって上がった。

「大丈夫?」

 と、百合姉が背中をなでてくれる。ああ──ほっとする。憧れてたのは百合姉の結婚式までのはずだけど──

「由!」

 葉波の怖い声。

 しかし百合姉、手伝って大丈夫かな? もうおなか大きいのに。

「岡野さんもごめんなさいね」

 と、葉波の母ちゃんが声をかけてきた。

「いえ、皆さんにはいつもお世話になっていますし」

 岡野は相変わらず大人相手には──いつものオレ相手の毒舌、録音して聞かせてやりたいよ。

「さて、今日はこっちのキュウリと」

 さ、やるか──

「うわ、なんか森みたい……あ、犬に、ニワトリも!」

 岡野はびっくりして見回している。

「主にここの居住者用で、各戸の庭や家庭菜園、個人経営の農場があるんだ。トロピカルフルーツの木が多いね」

 葉波の父ちゃんが籠を渡し、案内する。

「虫除けちゃんと塗った?」

 オフクロが岡野の背中を軽くなでた。

 結構広い農場に、色々な果樹や野菜が混じっている。

 ここは日光が強いから、多少日陰があったほうが野菜も葉焼けしないし、色々、木も混ざって植わっていると連作障害も土壌流出もない。土が失われる怖さは、毎年の植林でいやというほどわかっている。

 今は普通農地でも輪混作が推奨されている──二十世紀後半は単一作物が農業の主流だったそうだが、連中がいかにバカで狂っていたか、同じ人類として恥ずかしい。

 リヤカーがいっぱいになって、葉がついたままのスイカを切ってむしゃぶりつく──相変わらずうまい。砂漠のスイカもうまいけど、やっぱりこれが好き。

 それからオレは自分の家の庭に割り当てられているところを見、ちょっと雑草を抜いたりした。

 そういえば最近、あまり庭を見てなかった──まあ、ほとんどは相原家に任せているんだけど。

 葉波たちが、雑種犬のバックと夢中で遊んでいる。

 熱帯の虫とは共存できないからだけど、ちょっと自分の庭といっても遠いよな──犬ともあまり会えないし。小さい頃は毎晩遊びにきてたけど、今は正直面倒くさい。

「この犬はここで放し飼いなの? だいじょうぶ?」

「生存公役で何人かがまとめて世話をしてるよ」

「結構自然と遠いのね、ここ」

「本土のほうがもっとひどいんじゃなかったか?」

「やーね、いつの話よ。今は人口も減ったし、みんな自然と触れ合えるようにしてるわよ」

「オレたちだって、毎日海に触れてる。いつでもここの庭でも公園にでもいけるし──今度公園も見るか?」

「公園って、居住メガフロートにはないんでしょ?」

 ちょっと遠い目で、防風林と防波堤の向こうを見ようとする──海は見えない。

「独立のメガフロートだ。虫が出るからメガフロート内は街路樹程度、あとは──そうだな、防波堤周辺の防風林でも──あ、悪い」

 その防風林を見ていたときに、岡野は海に落っこちたんだ。確か去年、基礎医学生理学でやった修正PTSDメカニズムは──

「そろそろ思い出して直面していいんじゃないか?」

「なにさぼってるの、由。今度はこっちのトマト手伝ってよ、一個そのまま食べていいから」

「へいへい、ありがとな」

 葉波に引っ張られ、また暑い日差しの中を歩いている──なんだろう、この気分は。いつ葉波は春おじさんを思い切るのだろうか、そうしたら──いつか……。

 少し後ろをついてくる岡野の、ちょっと寂しげな目も妙に胸を騒がせる。


 そろそろテストが始まる。休み時間も遊びではなく、勉強している人が多い。

 古典学園漫画では期末テストが全てだったようだが、今は公文式を参考に完全習得の積み重ねが原則だ。単位は普段の小テストでちゃんと満点を取るまでやり直すことのほうが肝心だ。

 期末テストはあえて難問にチャレンジするだけだが──基礎問題は全問正解じゃないとダメだから辛い。

 古典英語でちゃんとやらなきゃいけないけど、もちろん数学や物理でミスをしたら例の講座など無理だ。

 できない部分が絶対ないよう、きちんと潰しておかなければならない。

 常駐ソクラテスが、しつこく『比の定義を本当にわかってる?』とか聞いてくる。コンピュータに言われるのもむかつくが、これは一応人間以上の知性の一部だ──

 ……みんなどこに行くんだろう。

 もうすぐオレたちも十五歳──半分の時間は働きながら二十代前半までかけて、義務教育と仕事に関係ある講座、単位として認められる仕事というお定まりコースか、それとも高等学校──より専門的なコースに挑戦するか──そして国費上級学校──

 オレも葉波も成績では一応挑戦できると思うけど。

 岡野はどうするんだろう。いつまで海で暮らすんだろうか。海になじもうとしないんだから──

 なんだか泣きたくなるけど、とにかく勉強しないと──

8

 何の夢だったのか──岡野?

 早く目が覚めてしまって飛び起き、ちょっと運動しておかなければと気がついた。

 テスト勉強で義務がたまっている。このままじゃオンラインの貯金が減る。

 着替えて運動場に行くと、岡野が中国系の人たちと太極拳をやっていた。

 目が離せなかった。

 四つ上で、大きな賞を取った江さんもいた。一度ケンカしたから、どうしようもなく強いのも知っている。でも、岡野はそれよりきれいな動きだ。

「何見てんのよ」

 葉波に背中を叩かれた。怒ったような声。

「え、あ」

「おはよう。運動がたまってるんでしょ、ほら」

 と、いきなり背中合わせにくっついて、ストレッチを始めた。

 どうしたんだろう……春おじさんがいるなら、嫉妬させたいんだろうけど、どうしたのかな……まあ気持ちいいからいいか。嬉しすぎて恥ずかしくて、なんだか居心地が悪いような気もするけど。


 今日のテストは自宅からネットで。

 昨日は学校でケーコを取り上げられ通信を遮断され、代数と航路計算と、英語と漢詩の暗記暗唱だったが、今はむしろコンピュータや教科書があっても力を試せる試験科目が多い。逆に完全に修得しないと単位が認められない──毎日のように小テストを完全にできるまでやらされるのが辛い。

 これから岡野のように脳直結が増えたら、コンピュータを取り上げることはできなくなる。そうなったらどうなるやら。いや、もし脳直結のレベルが上がり、誰もが常時円卓について聖杯に接している状態になったら──

 そしてオヤジを迎えに、みんなで──岡野も葉波一家も──家を出たら、埠頭に峰が待っていた。

「よ」

「おう」

 次の瞬間、目に映った腕、頭に散る星──呆然とした。殴られたのか。

「な、なにすんだ」

「きゃあっ」

「何を」

「峰くん」

「この野郎!」

 再び拳がめりこむ。やっと痛みを認識し、血の臭いをはっきりかぎつけた。

「約束じゃねえか!」

「てべぇ!」

 それからはオレもあまり覚えていない。ある部分は妙に冷静だったが──仲間とのケンカと、人外動物ヴァーレルセから身を守るのは区別しなければならないから、区別して──って、噛みつきは反則だぞ! しまった、肘が入っちまった。

 気がついたら、オヤジや通りがかりの船員たちに取り押さえられていた。

「約束、しただろうが──葉波が船長、おれは機関長、由は一等航海士──」

「おいおい、どうしたんだ?」

 苦笑気味のオヤジ、峰がしばらくもがいて──ふっとむき出した出っ歯をしまい、折れた歯を吐いた。

「お帰りは?」

「あ──お帰り!」

 と、美香がオヤジに飛びついた。

「大きくなったな、寂しくなかったか?」

「ううん、ネット映話でいつも話してたし、みんな誰かいないもん」

 オフクロが控えめにオヤジに寄り添う。

 オレはどうしていいかわからなかった。

「さて──どうしたんだ? 正式な決闘だった、ってことにするかい」

 オヤジが峰を放し、声をかけた。

「ずいまぜん──」見ると、彼は泣きじゃくっている。「ぐぁ、あ──」

 オヤジの目配せを受けた相原一家が、峰を連れていった。

「いきなり心配させるな」

 ぽん、と頭に手が乗る。

「大きくなったもんだ、しかもずいぶん元気にな」

「そんな──」

 嫌味のつもりか──くそっ。

「峰くんもずいぶん強くなってたよ、前見た時はこんな子供だったのに」

 と、腰ぐらいに手を、頭をなでるように出す。なんだかむかむかする。もう腕力じゃ負けない自信は──だめだ、あっさり取り押さえられた。くそ──くそっ!

「ちゃんと仲直りしろよ」

「しらねーよ、いきなりあんな──」

 はっ、と気がつく。オレが、例の講座を受けに本土に行くことは──海とメガフロートから出てしまう、ってことになるのか? 本土に出て行って、稲刈りと正月ぐらいしか帰ってこない連中のように?! 単に面白い勉強、ってだけじゃなく?

 それに、三人で船を持ち世界中を回る、って子供の頃の約束──あいつはいまだに本気だったのか──

「やれやれ」

 と、オヤジは呆れたように肩をすくめ、

「まったく──」

 ちょっと遠い目で水平線の水鳥を追った。

「どうするんだ、今からでも予定を変えるか?」

 オレはどうしていいかわからなかった。

「ありがとうございます」

 オヤジが、取り押さえるのを手伝ってくれた船員に礼を言う。一人の初老の黒人が特に気になる。

「元気ね、君が“嵐の長谷川”? わしはジョンソン。よろしく」

 重みのある声、船乗りっぽいがしっかりした日本語。握手した、皮手袋より厚い鋼のような手。筋金入りの海の男だ。

「は、はい、よろしく」

 ちょっと意味ありげに苦笑し、なぜか岡野と──多分ケーコのテキストで少し話して、ぴしっと敬礼して立ち去った。

 カッコイイ──それにオヤジ以上に、ものすごい力だった。

「知り合い?」

「何度か世話になってる」

 オヤジもちょっと意味ありげに見送った。岡野も。なんだろ?

「おっとすまんな──えまちゃん、いきなり騒がせて悪かったな」

 と、オレの頭を後ろから小突く。去年まではこういうときは、頭に手を乗せて押さえつけたんだが。

「小さい頃会ったことがあるけど、覚えてるかな?」

「はい」

「そろそろ予約の時間よ、いきましょ」

 パーティには岡野ももちろん相原一家も誘って、ちょっと盛大に外食した。

 主に船員など外から来た人のため、安くておいしい店もたくさんある。海からも農地からもふんだんに色々とれるし、海にはアジア各国から人が集まっている。今日はずっと中国奥地にいたオヤジのためだから港の寿司屋。

 オヤジの「生魚なんて半年ぶりだ」が何回でたことか。

「本土じゃ、ここまで新鮮な魚やカニなんて食えないだろ?」

 岡野をからかうと、

「バカにしないで、普通にあるわよ──これもおいしいけど」

 と怒っていた。

「仲悪いのか? 居心地いい?」

「ううん、すごく仲いいよ」

 葉波がフォローしていたけど、どう見ても仲悪いと思うな──でも全部岡野が悪いんだぞ?

「いえ、みなさんよくしてくれて、とても居心地はいいです」

「だってあたし、えまお姉ちゃんとなかよしだもん! お兄ちゃん、そのイクラちょうだい」

「いいよ」

 美香もバカだな、本土から何日かけて運ばれてきたと思ってるんだ。

「へぇ由、さび抜き卒業したんだ」

 葉波の一言に凍りつく。葉波ならともかく、岡野にまで子供扱いされたらたまらないから頼んだのに──あ、オレが我慢しているのばれてたんだ──

「あのねえまちゃん、由ってついこのあいだまで」

「もうやめてくれ」


 テストが終わる頃、稲刈りが始まった。

 大きくひたすら広いメガフロートに着くと、金色の野が広がっていた。

 重く垂れる稲穂、はちきれそうなネイ──広いあぜ道の両脇に茂る、防風を兼ねた高いサトウキビ、各種豆、灌木など。

 こんなにたくさんどこにいたのか、と思うほど多くの人が集まる。

 あちこちに行っている住民の家族や、アジア中から集まった渡り鳥たち。

「ちょ、ちょっと──」

「ん?」

「どこに行くの?」

 葉波が向こうに回り、オレと岡野は──

「ぶらぶらしてればすぐ声かかるって、」

「ほらそこの二人! これB─33に持って行って」

「はい。な?」

 重くはないが結構長い板で、一人では持てない。

「そっち持ってくれよ」

 と、ばたばたやっている。

「鎌で稲刈りなんてやらないのね」

「コンバインで全部できる、平坦なメガフロートの利点さ」

 いろいろなことで手が必要ではあるけど。赤道付近では、近くの大人口を吸収するためほとんど人手でやってるらしい。

「おい、これでもどうだ」

「サンキュ。ほら」

 と、おっさんが切ってくれたサトウキビを分けてみんなでかじる。

「甘い──」

「そりゃな。ほら、こっち手伝えって!」

「う、重い──」

「がんばれ、落とすなよ」

「もうちょっと、ファイト」

「ふう──あれ?」

 と、H鋼をみんなで運びこんだ、まだ刈り取っていない田を見て岡野が、

「これ──知ってる稲じゃない」

「ネイだよ」

「ネイ?」

「遺伝子改良水稲の一種で、ヒエとかの遺伝子が入ってる。光合成がどうとか」

「ちょっと待って」

 と、数秒目を閉じると、

「なるほどね、C4光合成できわめて耐塩性が高い──わたしがとってる生物学2で光合成は、低緯度地域での収量がきわめて多く、主に飼料用──あ、なるほど──」

 便利なもんだ。欠陥品だけど。おっと、

「ほらこっち! サトウキビばっかかじってないで塩水のんどけ、熱射病になるぞ。おーい!」

 葉波たちとまた合流した。


「お、始まったか」

 空が黄昏れてくると、刈られて肥料を混ぜて掘り返され、あちこちサトウキビが残るのみの田を背景に、たくさんの人たちが集まる。

 漁船が直接横付けされ、魚がホースで巨大な桶に注ぎこまれる。オレたちもどろどろになって魚をさばき、種類や部位によって刺身、海水で煮る、揚げるなどに流れ作業で分ける。やっぱり水産処理場のプロは違うよな──

「こら、ぼーっとしてないで手を動かせ。プロのみなさんみたいにできるわけがないんだから、丁寧に、怪我しないように」

 はいはい。

 次々におけ一杯になる内蔵などが運ばれていく。砕かれて肥料になるのだろう。

 他にもたくさんの食べ物飲み物が運ばれ、板を敷かれた祭場を埋めていく。

 櫓ができ、夜店も出る。

 葉波たち女子はもう着替え、トランペットの練習を始めている。

「みんなももういいぞ!」

 と待ちに待った声、男子は裸で海に飛びこんだり大きなホースの水を浴びたりして汚れを落とし、浴衣に着替え、好きな楽器を手に集まった。一昨年までは家族に着付けてもらったが、去年から男子どうしでやっている。

「お──」

 葉波と岡野の姿に、思わず言葉を失った。

 いつもと違う、華やかな朱とまばゆい緑に負けない葉波と、濃紺に白とかすかな金が凜とした気品をかもす岡野──

「どうしたの、そんなに見とれて!」

 葉波がいつも通りの声で、身を寄せてきた。

 何人もの男に誘われている岡野がちょっと助けを求める目でこっちを見たので、葉波と二人で蹴散らした。

 そして熱い風の中花火が上がり、音楽が始まる。

「これなに? 星みたい」

 岡野が夜店でいろいろ買い食べている。

「スターフルーツさ、熱帯フルーツならみんな食べ飽きてるよ」

「わたしには珍しいの!」

 みんな夢中で飲み食いし、演奏し、歌い、踊った。

 オレは声変わりが終わるところで大声ばかり出していてあまりいい声は出ないが、精一杯張りあげる。

「おい、声小さいぞ」

「おいじゃないんだけど。それに海のみんなって声大きすぎ」

 あ──

「どう呼びたい? どう呼んで欲しい?」

 と、葉波がおれたち二人に後ろから飛びついてきた。

「きれいだなあ、二人とも」

 オヤジ! オフクロもいい年してめかしこんじゃってまぁ──

「そうだ由、それにえまちゃんも知らせが来てたぞ、例の講座。二人とも合格」

「え──やったぁっ!」

 ぱんっ、と葉波とハイタッチし、岡野ともしようとするが岡野は葉波の陰に隠れ、

「ありがとうございます」

 とオヤジにだけ頭を下げた。

「じゃあ、ちゃんと二人とも守れよ。去年みたいなバカはするなよ」

「わかってるよ」

 くそ、思い出させるなよ──

「ねぇ、こっちいくわよ!」

 葉波が引っ張った先で、若い衆に担ぎ上げられた神輿が豪快に動き回る。

 花火が次々に空に花を咲かせる。

 時々誰かに殴られては殴り返すが、それもまた楽しい。殴ったやつと次の瞬間には肩を組んで歌い、飲み、食っている。

 とにかく風が熱くて、なんでもうまくて、気が変になりそうだ。

 夜も深まり、そろそろ帰らないと──でもまだ風も体も熱い。

 オレは埠頭に行き、ヨットを見つけた。去年は十何人か子供たちだけで酒に酔って、船を勝手に沖出しして──思い出したくもない。錨をつけて三キロの海底に沈めたい。

「どこか行こうか?」

 いきなりの葉波の声にびっくりした。

 そして、岡野もそのうしろにいる。

「また行きたいのか?」

「──」

 葉波がじっと沈黙し、いきなりオレと岡野と肩を組み、ぎゅっと、二人とも抱き寄せるようにした。

「どうした?」

「なんでもない」

 と、海の彼方を見つめる。

 オレはふと、宙を見上げた──

 岡野は何を見ているのだろうか、少し気になったが、それでも銀河から目を離せなかった。

「どこか、遠くに行きたい」

「オレも」

 あまりに遠い星空に胸が痛くなり、無性にどこかに行きたくなって寂しくなって、葉波の腰にまわした腕にぐっと力をこめる。

 岡野の手が、腕に触れて──手摺りにしがみつくように、握ってきた。

 また、花火がはじける。

「三人で、どこか、遠くの無人島──」

 葉波がつぶやく。

「ずっと──」

 岡野のすすり泣きが聞こえた。

 そろそろ台風シーズン、この田もひと時休む。今年はいつもと違う夏──

9

 夜。この港町は? クレーンも車もない──でこぼこの石畳に、ガラガラと馬車が走っている。

 ぶらっと、近くの水夫に声をかける。船乗り英語──知ってるのとかなり違う。通じるから別にいいが。

 すごい臭い、服装もなんか変だ。何もかもが臭い。

 と、いきなりばらばらっと人々が来て、殴り倒された。

「な、何」

「運がなかったな、兄弟」

「免状は? ないか、君たちはHMSフリゲート艦リディア号に強制徴募された」

「はぁ?」

「来い!」

 のしかかってくる水兵がズボンのベルトを、大ぶりのジャックナイフで切る。逃げようとしたらずり落ちる、ってわけか。

 みんなわいわい、諦めたような──まるで小さい頃は泣きながら見た、処理場に引かれる牛のように──妙に仰々しい格好の士官や乱暴な水兵に連れられ──痛いっ! いきなりこぶつきロープで背中をひっぱたかれた。

「すぐそこだ、乗れ!」

 動力のない手漕ぎボートに、荷物かなにかのように放り込まれる──いきなりの船酔い。

「船酔いか? 実は艦長もだ、って噂だよ」

「こらそこ、しゃべるな! ミジップマン、今の水兵の名前を控えよ」

 月光に、巨大な帆船がそびえていた。うわあ──まさか全部木造? こんなの特殊な実習船で何度かみただけだよ! いや、アメリカまで行ってきた村田が、米海軍でいまだ現役のコンスティチューション号の土産話をしてくれた。

「名前は? 生まれは?」

「ユウ・ハセガワ、ジャパン」

 なんなんだ?

「読み書きは? 船に乗った経験は、水兵の経験は、特技は?」

 ここ、ひょっとして──あの時代のイギリス港? なんでまたこんなところに。タイムスリップにしてもある意味最悪だな。

 こうなったら──しょうがない、提督になってやろうじゃねえか!

 と、志願を決意したところで、

「由、いつまで寝てるの!」

 オフクロの怪訝な顔が操作パネルに映っている。

 全然残念じゃないな、この夢。リディア号の乗組員は確か──思い出して苦笑する。

「助かった、ロサスはやだ」

 そこまで生き延びるにもかなり運がいるけど。

「はぁ? 寝る前変なの見るからよ」

 夏休みに入り、ちょくちょく台風が来るようになった。

 多くの田は刈られてすぐ耕されて一休み、秋からまた水田にしたり、他いろいろな作物を植えるのを待つ。サトウキビとキャッサバなどが台風に耐えて育っている。

 大人は台風の間を縫い、作物の積み出しなど結構忙しい。

 メガフロートの両端にある運動公園はいつも予約で一杯だし、部活で野球やサッカーをやってる連中は設備が充実した学校で合宿してしまう。

 何人か、早めにあちこちに出港する子もいる。オレも来週には出港の予定だ。

 公園は混むし、天気のいい日はボートやヨット、泳ぎで周りの海もにぎやかだ。反面生存公役などの安全員は忙しい。

 オヤジはひたすら寝ている。もうすぐゴビ砂漠に帰るんだし、毎年こうしてこの時期はゆっくりしている。オヤジの仕事は特に公共性が高く、生存公役単位にも認められているからこうしてごろごろしていられるんだが。

 オレももう一眠りしよう、と思ってたのに──まあ、あの夢から起こしてくれて助かった──

「あのね、由とえまちゃんの二人でこれ買ってきて」

 オフクロが古風にメモを渡す。ケーコでいいのに。

「はい、わかりました」

 岡野は嫌なのをよくもまあ色にも出さず──女優だな。

「何で二人で」

 岡野が嫌がるだろ。

「荷物持ち」

「だったら一人で行くよ」

「えまちゃんも買わなきゃいけないものがあるの」

「じゃあオフクロがついて行けば」

「仕事」

「メモに書いといてよ」

「女の子の用事よ、男の子に行かせるわけにはいかないの」

 岡野が真っ赤になったのを見て、なんとなく察してオレも真っ赤になってしまった。あ──

「だったら通販でいいじゃん──あ、エロ本みたいに学習資料って書いてもらって」

 ここでは市場で買い物をするより通販のほうが多い。本土でも大抵の物は通販で買えるそうだが。

「あ、そういう手だったの、春のあれ」しまった。ケーコに『最低』とテキストメールが浮かぶ。

「それに変な想像しないの! 女の子の用事はいろいろあるの、いいから市場に連れてってあげなさい」

「葉波は?」

「もうとっくに起きて、畑を手伝ってるわよ」

 ──負けた。

「前はちゃんと案内できなかったから、いろいろ見せてあげてね」

「わかったよ」

 と言い捨て、自転車に乗った。岡野もこっちでハイブリッドを買っている。

 狭い道を縫って走り、外壁と太陽電池幕で守られた居住区から外周部に出る。

 自動の鉄扉を開けると、この前は嵐でろくに見えなかった外周部の様子がわかる。

「暑い──」

「まあね」

「中全部冷やしてるのって、確かに涼しいけど無駄じゃない?」

「いや、深海から冷水くみ上げてるから、そんなにエネルギーは使ってない。ついでに海に栄養補給もできるし」

 目の前には海側から見ると高い防波堤、だがこちらからはそれほど高くはない。

 そして防波堤の上はかなりの広さがあり、道があって防風林が並んでいてちょっとした公園になっている。

 防波堤と居住区外壁の間も道と鉄路がある。

「そういえば、ほんとに自由な時間、なかったよな」

 岡野がこっちにきて以来、オレや葉波に連れられ、あちこち案内されてばかりだった。

「行きたいとことかある?」

「ないわよ」

 そうされるとどうしていいやら──繭に閉じこもっていれば幸せ、って人種なのか?

「どうなんだ」

 なんか変な気持ちが、そのまま出た。

「え?」

「なんでも……じゃなくて、ほら……あ、憂さ晴らししたいんだったら」

「いいよ」

「なにが?」

「余計なことしなくて」

 何て言っていいかわからず、防波堤に上がる坂に向かう。

「ついてくるなよ、危険だから。今度は浮輪投げるだけにするからな」

 でも、また──また、体がとっさに動いてしまうかもしれない。

「え」

「バカなことしたと、反省してるんだよ」

 あ、防波堤に上がってくるなって言ったのに! まあ今は台風でもないから、落ちても下の張り出しに引っかかって無事だろうけど。

 岡野をちらりと見ると、ものすごく驚いている様子だった。

「もしかして、従卒スクワイヤじゃな──っ、あれ? ここから泳げるんじゃない?」

 岡野が指差したのはメガフロートの波浪発電岸から、いくつか大きく伸びている遊泳桟橋だ。

「ああ、ほらそこ」

 その根元は、多少海に向けて半円形に張り出し、緑があってベンチなどが置かれ、小さな公園になっている。

 その中央部にはいくつか、小さな建物もある。

「公衆トイレと更衣室とシャワー室、ほら」

 数人の女が水着に着替え、出てきた──ちっ、小学生と親。

「残念?」

「うるさい」

 くそ、葉波と同じようなからかいかたしやがって。

「あの埠頭の先端から、ほら──そのいくつかのブイに囲まれた海域は安全ネットが張ってあって泳げるんだ。春から秋、寒くなるまでちょっと気軽に泳ぎたい時はあっちで泳いでる」

「春から秋って、季節があるんだ」

「そりゃあるよ」

 ここをどこだと思ってるんだ? 亜熱帯には四季があるぞ、霜や雪がないだけで。

 ふ、と海を一緒に見つめながら自転車を飛ばしている──あ、そろそろマーケットだ。

 なんだか胸が苦しくなる。

「この扉がマーケットだから、降りるぞ」

「わかってるわよ、地図ぐらいちゃんと重ねてみてる」

「運転中むやみにケーコは使うな!」

 本当に危ないったらない。

「──でもないくせに、そんなに心配……しないでよ……」

 また、いつも通り岡野は機嫌を悪くし、突然、

「ごめんなさい」

 と謝ってきた。自転車で、彼女は後ろについていたから表情は見えない。

「何が?」

「なんでもない」

 あとは無言。


「あとは……」

「ビール、これはおじさんのね」

「贅沢してるよな」

 穀物を消費するビールや日本酒には高い税がかかっている。

 特に地中海周辺の緑化プロジェクトではワイン産地が次々生まれているから、ワインのほうがずっと安い。

 ここでいちばん安いのは、こっちでできる各種のヤシ酒やラムなんだが──オヤジはビールが一番好き。

「勘違いするなよ」

「?」

 岡野がちょっと不審な目で振り返った。

「あのオヤジ、こっちじゃごろごろしてるけど、そんなの今だけだから。中国奥地に戻ったら──」

 なんだかくやしくてやるせなくて、走り出したい。荷物の重さが嬉しいぐらいだ。

「わかってるわよ、あの人の業績ぐらい」

「だから──」

 ネットでわかるような、業績って一言にできるものだけじゃない! 夏だけだけど、何回か一緒に仕事してるから──

「そういえば、岡野の親って」

 びくっ、と岡野の表情が、ますます人形のように固くなる。

 なかなかうまく焼けないんだ──赤い。

「本当に知らない──ようね、ならそのままでいてよ」

「なんだよ、別に気にしないぞ? ここには差別なんてないからな、外国出だろうと混血だろうと、家畜を……肉にする仕事だろうと、必要なんだから」

 現にその手の仕事は、年に数日授業兼生存公役で手伝わされる。自分で食べるものがどうやってできるか知らなければ、ということだ。

「小さい頃は泣いたけどな、可愛がってた動物を殺して肉にするのって」美香が、田の合鴨に情を移して泣いていた。「あ、こっちでは半分授業で──バカだよな、本土の連中って。まあ昔は何も知らないから伝染病のリスクを避けたのはわかるけど、でも近代化されたら……」

 なぜか岡野が呆れ顔で吹きだした。

「なんだよ」

「バカ、わかってないの?」

 呆れた笑顔、でも笑顔だからいいや──可愛いな。

「何が?」

「自分の足元にだけは絶対気がつかないのね」

「わかってるよ、それぐらいいつも教わってるだろ」

 人間は自分の足元にある問題には気がつかない、年中常駐ソクラテスに言われる言葉だ。

「バカ」

 と、危ないほうの本屋に行こうとする。

「おい、おい岡野! そっちは」

「岡野、だなんて呼ばないでよ!」

 なんだか、いきなり泣きそうな目をしていた。

「岡野だなんて……」

「だって、じゃあ──」

 えまちゃん、とでも? 無茶言うなよ──オレ、なんで女の子を名前で呼べないんだろう。葉波以外は、でも葉波はどっちかというと、男女区別がなかった頃の相棒、って感じの延長だし──でも……なんかいやだ……くそ……

「なんて呼べば」

 そこで突然ケーコに電話。オフクロだ。

「あ、由?」

「何?」

「魚も買ってきて、ブダイと……」

「うん、うう……ほら、行くぞ」

 と、岡野の肩を軽く叩いて魚市場に向かった。

「ここは個人の漁師も店が出せる自由市場でもあるから、便利なんだよ」

 と軽く案内を続けながら、いい魚を選ぼうと港に向かう。ちょっと人気の少ないところに入って、そこで岡野が突然カートを手放し、オレの手を引いて走り出した。

「こっち!」

 え?

 強引に少し走り、カップルが物陰に隠れるように自販機の陰に引きこむ。そして抱きつき、突然キスしてきた──

 びっくりして離れようとしたが、しっかり後頭部を押さえて離さない。ぎゅっと体が密着する。

 震える唇と──柔らかいのに引き締まった体がなんとも熱くて──頭がくらくらする。繰り返し歯がぶつかるが、かまわずますます強く押しつけてくる。

 永遠とも思える、息が続く限りの──オレは三分を超える──時間。

 離れると短い息継ぎだけでまた繰り返す。

 オレもつい、夢中になって抱きしめてしまった──

 いつまでそうしていたのか、ふっと岡野はオレから離れた。

 その目には涙が浮かんでいる。

「ごめん、勘違いしないで……今のは忘れて」

 彼女はどこかに去った。

 オレはしばらく呆然としていた。やっと我に返り、魚の血が流れる水洗いされた路面に舌打ちしながら、一人で荷物を運ぶ羽目になった。

 ちょうど家に着く頃に、岡野も戻ってきたが──どうしていたのだろう。

 お互いに何も話さなかったし、沖縄風煮魚と海藻と貝の味噌汁の夕食でも、目を合わせることもできなかった。

 正直──夜は風呂や繭などで来てくれるんじゃ、と色々妄想したがもちろんそんなこともなかった。


 あれから、岡野とますます気まずい。

 オレも家に帰ったら、岡野と顔を合わせないようすぐに繭にもぐりこんでしまう──岡野もオレと二人だとすぐに目を閉じ、直結ケーコの世界に没頭しているようだ。

 でもつい、キスのことを──柔らかく、それでいて妙に鍛えられた体の感触を思い出して、ちらちら見てしまう。それを葉波に見破られないかが怖い。

 まあ、元々もうみんなでリビングでくつろぐ習慣はないから、家族でも顔を合わせないようにしようと思えばいくらでもできる。オレが小さい頃接眼三次元ディスプレイが普及してから、リビングの大画面テレビの価値がなくなっていろいろ変わったそうだ。ましてここはリビングが狭い。

 今はリビングダイニングでは音楽が流れているぐらいで、会話が中心だ。昔のドラマにある、テレビ中心のリビングなんて今から思うと技術がなかったとはいえバカな話だ。テレビの中毒性も知らないで。

 もちろん葉波が来ているときや、みんながいるときは楽しいけど。最近、岡野もみんなにはとけこんでいるようでそれはほっとする。

 でも、なんとなくみんなが、特に葉波がオレに隠していることがあるような気がする。

「ねぇハナ、新米はいつ?」

 岡野がオフクロに聞こえないよう葉波に聞いたのに、オレは思わず吹き出した。

「なによ!」

「確かにこないだ稲刈りしたばかりだけどさ、あの米は……ちがうぞ?」

 普通に話さないと、普通に──

「え?」

「遺伝子改良とかで耐塩性と量優先だし、水も違うし、特に春稲は寒暖の差も小さいから味は……もちろんネイは人間の食べ物じゃないしね。おいしいお米は、やっぱり本土産よ。ちょっと高くなるけどね」

 葉波の目がちょっと気になる。

「ここのは主に輸出で飼料、配給用」

「そうなんだ──結構大変なのね」

「そりゃな」

 と、葉波と目くばせし、小さい頃から習っている言葉を同時に唱えだした。

「メガフロートは、かけがえのない地球をこわさず百億に肉を食べさせるため、母なる海に人が作った新しい大地である。われらは人類文明の存続、全人類の選別なき幸福なくらしのために食べ物をたくさんつくり……」

「……以下略」

 と、葉波と目を合わせて軽く笑った。

「ああ、そういうこと」

「地域無償教育から毎朝、ね」

 岡野の笑顔が妙に嬉しい。

「おーい長谷川!」

「由、やっぱ葉波も、えまちゃんも」

 何人かケーコにメールをかけ、ぞろぞろやってきた。

「たまには公園行こうか」

「えー、今更?」

 オレは夏休みの宿題──あ、『第二次世界大戦』の手写し、ぜんぜん進んでない──はともかく例の講座の、予習として渡された課題で忙しいんだが──しかしいらいらするな、二進法や八進法、十二進法で、さらにその小数や分数も含めてややこしい問題を計算するのって。いかに十進法に慣れきってたか、ってことだけど。

 でも遊びたい、どうせある程度は運動しなきゃいけないし。もうすぐ出発だし。

「じゃ、ついでに手漕ぎで行くか」

「そうね。それならえまちゃんもいいでしょ?」

「どっちが早いか競争するか?」

 峰がいつも通り力こぶを見せる仕草をした。

「身の程知らずめ、これで二百十五勝二百十二敗だな」

「バカヤロ、去年の三月のあれと一昨年の八月のクラス対抗はこっちが勝ってるんだ、単にカスがのバカのせいで」

「海に言い訳はないのだ、ミスタ・ブレイスガードル」

「相変わらずよね、男子って」

 女子が笑っている。

「ついこないだまでお前らも似たようなことしてたろ──」

「ほらほら、行こう!」

 ぱっと葉波が席を立ち、荷物を取りに飛び出した。

 クロゼットから出てきた岡野を見て、

「あのさ──えまちゃん、本気?」

 葉波が呆れている。

「え、砂浜があるんでしょ?」

 岡野はまぶしい──を通り越して痛々しい、おかもの丸出しの青いビキニにワイシャツを羽織っていた。

 みんな鼻血が出そう──という以前に呆れて頭を押さえている。

「バカ。太陽がほぼ真上から刺さるんだぞ?」

 オレの言葉、そして女子たちを見て凍りつき、真っ赤になる。

「誰か教えろよな……」

「まさかこのカッコだなんて思わないもん」

 オレが水着はどうとか、教えるわけにはいかないじゃないか。

 あ──そういえば夏休み前、オレにネット通販のカタログ見せて、どっちが似合うっていうから無視したら──すごく怒ってたな──あいつが怒ってるのはいつものことだから放っといたんだが。

「それに裸足は危ないよ。イモガイだっているんだから」

「イモガイ──ちょっと待って──毒のある貝?!」

 と、また岡野が目を閉じて体内のケーコで調べた。なんか引っかかるながめだよな。

「そう。だから最低限サンダルが必要なんだよ」

 もちろん地元のオレたちは、女子も含めて海でもTシャツに膝まである半ズボン、足元は頑丈なスニーカーで固めている。日焼けは慎重に少しずつで、ほとんどの時間は海で泳ぐ時もちゃんと服を着ている。

 慌てて岡野はクロゼットルームに戻り、オレたちはため息をついて埠頭の手漕ぎボートに向かった。


 遠くの台風からの波が、それぞれがかばい合っているメガフロート群の隙間を縫ってボートを揺らす。軽い酔いに耐えて、必死でオールを引いた。息を合わせ、全身の力で。

 といっても公園は居住区から泳いで渡れるほど近くにあり、土日は浮き橋もある。

 横の短辺の埠頭にボートをもやい、そのまま一つの長辺を丸々占める、長大な白い砂浜に駆けこんだ。スニーカー越しでも砂が熱い。

 休んでいる船員などが甲羅干しをしているのも見える。特にトップレスの女性に、オレも含めて男子たちが興奮してつつき合う。

 ついでにウミガメものてのて歩いている。おいおい、いつもながらのんきだな──つい百年前までの人類が何をやったか覚えてないのか?

 真っ青な海に飛びこみ、葉波が用意してくれたスイカを割る。まぶしい太陽の下さんざん泳ぐ。

「うわ」

 女子が集まってくる色とりどりの魚と、きゃあきゃあたわむれている。

 男子は競泳したり、高いところから飛び込んだり、中には銛を持ち出すやつもいる。峰がひときわ大きなのを仕留め、葉波が大喜びした。

「向こうのブイまで」

 葉波がオレの背中を叩き、クロールでぐんぐん飛ばす。

 オレも必死で追う。

 無数の、色とりどりの魚。やや遠くまで浅くなっている、メガフロートだけど珊瑚で生きている海底。そこの生き物たち。

 人魚のようにペースを上げる葉波。

 その足首に触れそうになった、その時、潜っていた岡野とぶつかりそうになった。

 水中で声が出ないが、確かに彼女は笑顔だった。

 なぜかびっくりし、ちょっとパニックになって浅いところに上がる。と、オレの首に、葉波が後ろから突然しがみついた。

「どう?」

 え……立って少し離れ、Tシャツと半ズボンを脱ぎ、モデルのようにポーズを取る。

「どうしたんだよ」

 なんだかまぶしくて目をそらしたくなるが、

「見てよ」

 と、オレの前髪をつかんで引っぱった。

 ごく、っと思わず喉が鳴る。黒と赤の大人っぽい水着。豊かに膨らむ胸。胸下から締まった腹に、裂けたような空きが鮮烈。すらっと伸び、膝から下が人魚のように沈んだ脚。

「由も……」

 なんだかすごく寂しそうに、オレの体をじろじろ見る。くそ……なんだか無性に悔しく、同時になんとも言えない……抱きしめたい……

「スケベ!」

 にまっと笑い、いきなりオレの頭を抱えてプロレス技気味に引き倒し、え? いきなり唇が重なってきた。そしてまた、今度はみんなのところに泳ぎ去る。

 オレはぼうっとして座っていた。なんだったんだよ……


 さて、みんな集まって、疲れたし一休みするには──

「もうちょっとおやつ調達してくる」

 いつでも森に入れるよう、荷物には厚手の長袖長ズボンにジャングルブーツ、ククリと重装備もある。

 公園は見た目より広く、森としてもなめちゃいけない規模だ。

 元が人工だからわざわざ観光に来る人はいないが、現実の島より南西諸島の生態系が忠実に再現されている。

 そして果樹が多い決められた地域の実は、その場で食べるだけなら取っていい。

 用意したさおに手鉤をくくりつけて、葉波を探したがなぜか見あたらない。なんだか行きたそうにした岡野に、

「おい、来るか?」 

「おい、って呼ぶのやめて」

 そういえば──どう呼べばいいんだろうな。岡野、と呼んでも嫌がったし。

「え? じゃあどう呼べってんだよ。名前か?」

「知らない」

 といいながら、森には好奇心があるのか黙ってついてきた。

「虫除けちゃんとしとけよな」と、自分に使ったスプレーを手渡す。「あと、怪我しないよう上着とズボンも着とけ」

「茂みに引きずり込むなよ」

「バカ、同じ家なんだからいつだってできるじゃん」

「それって」

 たく、うるさいな──指一本触れてねぇよ。

 森に一歩入ると、いきなりかなりうっそうと茂っている。一応道はあるけど。

 数多くの虫や獣の気配、深い緑のエネルギーに圧倒される。

 これが怖くて、みんな小さい頃は居住メガフロート内の広場や海でばかり遊んでいた──所詮人工的な森なんだろうが。でも大きい子に強引に連れられ、森で遊ぶのはなぜか大好きだった。

 そして、つい数十年前は砂漠だったという、オヤジたちが植えた森で遊ぶのも──

「あったあった、ほら」

 と、パパイヤをたぐりよせ、腰のMPTからナイフをワンハンドオープンして切ってやる。二年前オヤジが誕生日に、絶対に悪用するなと散々説教してからくれた──普段は大型の折りたたみナイフ+マリンスパイク+シャックルキーと、多目的ラチェットドライバー&レンチに分離できる。結合すれば大型のハサミ、プライヤーを選択できる。

「はぐれるなよ、結構深い森だから」

 差し出した手を岡野は一度ためらいながら、そっと握ってきた。

 オレもなぜか、びくっとしてしまう。

「さ、さてと──こっちだ。ちょっと待って」

 さおで藪をかきわける。

「気をつけて、ものすごいとげがあるぞ」

 引き寄せたのが、急に岡野が女子だと思って──胸が騒ぐ。抑えろ、冷静に──高い緑の天蓋を見上げた。

「森を歩くのは久しぶりね」

 と、彼女も見上げていた。

「あ──」

「何か見つけたか?」

「ちょっと待って」

 と、コードで彼女自身が背負うチビリュックと、オレのケーコの本体をつなげた。

 ゴーグルとヘッドホンを下げると、色々な画像と音声が混じる──多くの鳥や虫がいる。

 イリオモテヤマネコさえ、目で見てはわからないのが熱画像で浮かび、そちらを注視するとそのわずかな音とコントラストが増幅されて浮かび上がる。

 こんな世界をいつも見ているのか?

「止めろよ」

「え?」

「その体内のケーコ止めて、そのまんま見て聞けよ」

「ど、どういうこと?」

「確かに面白いけど、あくまで人工的に処理された世界じゃねーか──そのまま触れって言ってるんだ」

 ぐっ、と岡野が口をつぐみ、一瞬目を閉じた。

「止めたよ──え」

「どうだ?」

 何も言わない。オレも何も言わず、じっと緑を見上げ、そのかもし出すものに浸って──ふとケーコの着信音に気がついた。

「なにやってるの! えまちゃんに変なことしたら、また帆桁端から逆さ吊りにして、ついでにお姉ちゃんに言いつけるからね!」

 はっと気がついて、手を放した。

 そしてポケットからロープを少し取り出し、

「つかまれよ」

 と差し出した。手を離すわけにもつなぐわけにもいかないなら、これしかない。

 岡野は泣きそうな目をして、そのまま歩き出す──

「危ないぞ!」

 腕をつかまえ、ロープの端を握らせた。

「熱帯には危険な生き物も多いから、むやみに動くな。こっちだ」

「指図されたくないんだけど」

「だったら全身腫れあがっても知らないぞ」

 すごく不満そうな顔で、ロープに指を引っかけてついてこようとして、滑る倒木に足を取られた。

 それを抱きとめた拍子に、手が柔らかな胸に触れた。

「悪い──殴るのはあとにしてくれ、今は危険だ」

「いいから、手どけてよ」

「ご、ごめん」

 と手を離す。正直名残惜しいけど。

「あんまり、そういう優しさやめてよ」

 と、岡野が小さくつぶやく。どうしろってんだ──

「ほら、ここ」

 何種類かの果物を集める。中には結構グロテスクな見かけのものもある。

「近道で戻るぞ」

 と、浜に一度出てから戻ろうとした──そこで、突然岡野がオレを茂みに押し倒した。

「なんだよ」

「だめ、あれ怖い、あれだめなの」

 と、ケーコにテキストメールが浮かぶ。声も出ないのに、ケーコは操れるんだな。

 倒れて重なり、密着する体──何かを警戒している目、そして──チビリュックのケーコ本体が活発に動く、記憶ディスクなどの雑音?

 ぎゅっと抱きつかれ、暖かく柔らかい体の感触がもろ──うわ、岡野の胸をもろもんでる! 唇が深く重なる。頭がぼうっとして、あまりに熱くて──恐怖に似た感情が吹き上がってくる。理性が切れそうになる。

 ケーコに警告音が鳴った。

「由! カメラこっちに向けてよ」

 葉波の声。やばい、また吊るされる!

 岡野はすばやく離れ、カメラを指にはめて周りを見回してうなずく。まだ背中に触れているオレの手に熱いのは、内臓ケーコ本体?

 オレは慌てて立ち上がり、木に寄りかかってテレビ電話モードに切り替えた。

「何やってるの、用ができたからみんな早く帰れ、って」

「うん、すぐ行く。ごめんね」

 岡野は冷静に答える。つい今までむさぼりあっていた唇で。

 帰ろうと岡野の手を握ると、ふと気になったことがある──森の生き物が近くにいない。

 そして、変な感じに折れた枝がいくつかある。ちらりと見えた海岸の違和感。におい。

 何かが引っかかる、いつもの森、公園じゃない──

 そして、帰りも妙にあわただしかった。オヤジと峰のオヤジさんがわざわざ動力ヨットで迎えに来たのだ。

 正直岡野が、葉波も怖い。


「由」

 ハスキーな声がいきなり割り込み、びっくりする。

「なに観てたの?」

「見せられてたんだよ、『天国と地獄』」

「ああ」

 ネットはいろいろ好きに楽しめるようで、逆に義務としていろいろなものを見せられたり読まされたりする。好きなものばかり食べるな、見たくない真実にも直面しろ、ということらしい。お節介な世界だ。

『天国と地獄』は『何もしなかった未来』と同じように、小さい頃から見せられている定番教育映画の一つ。もし環境・資源問題が大したことなくて、二十一世紀初頭の延長だったら? それが革命もなくそのまま、貧富の差がとことん開いて安定してしまったら? 貧富の差が遺伝子改良や脳直結技術で、本当に別の種になってしまい、一割の神々と残り大多数の奴隷、いや家畜に近い──

 何度見ても胸が悪くなる。安定しているからこそいやになる。人間ってそこまで冷酷になれるのか? あの貧富の差、多数の餓死と貧民の悲惨さは、何でこんなことに耐えられるんだ。自分たちは特別だと思ってしまったら、別の種になったら、そこまで……

 そして貧富どっちも無知のままで……無知と邪悪と宗教にすがって、憎んで、戦争で満足して、あれじゃ奴隷というか、いや凶暴で残忍で……人間やってくのがいやになるな。

 学校でやったけど、だから今はそうならないよう、みんなが情報と接して智を育んで義を正しい向きにし、衣食を足りさせて礼を育て、目を配って信を築き、仁に至る、か……

「今日、ヨットであちこち回ろうか。三人で」

「忙しいんだけどな」

「それは三人ともじゃない、だから」

 明日の朝にはオレが乗る筑波丸が来て、午後に出航するはずだ。

 岡野は明日の晩に出る飛行艇から沖ノ鳥島沖──早口言葉としか思えない、みんなマシリト空港と呼んでるメガフロート空港で乗り換え、一足先に本土に着くはず。

「だから、三人で春さんのヨット使っていいって!」

「え、じゃあ行く」

 実質二人だけで船を動かす──明日から一週間はひたすら命令に従う毎日が待っているとわかっている分、最後の自由は楽しみたい。やっぱり自由が好きなんだ、特に海で生きていくには規律や義務が必要だ、とわかっていても。


 農場を縫って、風を受けて加速する。

「ブイ左舷ポート、気をつけて!」

「OK、舵そのままステレー

 しまった風下に入っちまった、匂いがもろにくる。

「あ──この匂い──」

「そ、畜舎。上から見るとドーナツ型だ、牛とかが中で泳いで、ついでに体を洗えるように」

「ラクダ畜舎はあっち、ニワトリは居住区の近くよ」

 モーモーブーブーいろいろな声を聞き、鼻をつまみながら手を振って抜けた。

「メガフロートの主な目的は海藻からのバイオマスエネルギーと、肉や飼料の大量供給なの」

「わかってるわよ、もう説明はいい! わかったから」

「ここのおかげで、毎日おいしい卵と牛乳があるんだぜ」

「好きよね、ゆ……も」

「だからにょきにょき伸びてるのよね」

「それで最近」

 と、葉波の胸元を見たら笑顔で蹴られた。

 本格的にメガフロート群を抜けると、波がぐっと激しくなる。

 もう吐くだけ吐いたら楽になり、すっかり仕事に集中できる。

 やっぱり葉波の舵取りはうまいな──すごく柔らかく波に乗ってる。

 見回すと、目の前に大きなマングローブ──いや、このままの開きだと、下手をすると水産畜産処理場にぶつかる。

「このマングローブは前見たろ?」

 マングローブのそばは通りたくない、虫や鳥、危険な障害物が多いから。

 とにかく緑が深すぎて怖いし、波や風も──おっと、帆桁を少し動かして──

「でも、隣の水産畜産処理場は見てないよね、今度見てみる?」

「そんなの見たくないって!」

「目をそらしちゃだめだ、というか生存公役でたまにやらされるぞ?」

「わたしは……」

 やっぱり、しばらくしたらここから出て行くのだろうか?

 なんだか胸が痛くなり、葉波に手を振って大きく上手回しをし、東南東に向かった。

 しばらく大きなうねりにもまれて航路を保つと、前方に大きな塔が見える。

「これは?」

「ここ? 海藻プラント」

 マングローブからも少し離れたところに、かなり大きな工場が浮いている。

 プラント自体は一昨年交代した新型だから、海面下の球形浮きからいくつもの柱で支えられた、いくつもの円筒形のサイロなどがパイプラインでつながって浮いている。

 古い工場がバラバラにされてフィリピンに売られるとき、泣いたな──あそこの倉庫が大事な遊び場だったから。

 巨大な埠頭だけが海面に接しており、そこにはいくつもの専用船や球が並ぶガスタンカーがある。

「空から見たほうが早いよ。ちょっと航空写真──あった、ここ」

 と、岡野のケーコに送る。

「こんなに」

 そう、マングローブから、さらに航路を阻害しないよう安全なところに、数千平方キロもの海域をブイで区切り、無数のいかだが広がる。メガフロート群の海域よりはるかに広い。

 マングローブから栄養を与えられている海域に加え、化学肥料を薄く散布したより広い海域で、海面下十メートルの筏から海藻と貝が大量に養殖されている。

 巨大な扇の要にあるのが海藻総合プラント。

 海藻と貝が主な産物だが、バイオマス生産量はメガフロート農地の合計をはるかに上回る。当然だ、面積の桁が違う。

 もちろん、かなりの人がこの工場や収穫船、肥料散布で働いている。

「ここで海に栄養を与えて、ものすごい量の海藻や貝がとれるんだ。でもそれは食べてもあまりおいしくないから、貝の肉と海藻の一部は肥料や家畜の飼料になって、貝殻は建材や土に、ほとんどの海藻はこの工場で主にエネルギー……水素やメタン、アルコールになる」

 メガフロートで生産されている──もう日本領海だけでニュージーランドの食肉生産量をしのぐ──家畜飼料の七割以上は海由来の海藻、貝、小魚、プランクトンなどだ。

 陸地全部より広大で、栄養塩だけが足りない外洋から肉を作り出す以外、百億にマクドナルドを食わせる方法はない。もちろん貝や海藻も大量に食べられており、干し貝は世界中で配給の主力品だ。ついでに二酸化炭素も処理でき、エネルギーも得られる。

 また海水で育つマングローブなどをラクダに食わせても、淡水を消費せず肉や乳製品を得られる。おかげで配給にはいつもラクダの肉やチーズが入ってる。

「ちょっと補足するね。海藻は一応植物だけど、木と違って水分が多くてそのまま燃やせないし、草とも成分が違って食べてもエネルギーにしにくいの。だからこの工場で、微生物の力を借りて」

 葉波が目で合図し、体重を切り替えて船体を安定させる。オレは合わせて舵を切る。ばしゃっと舷側で波がはじけた。

「もう調べたわよ。工業原料のアルギン酸などもとるけど、大部分はエネルギーや工業材料になる水素、メタン、アルコール、アンモニアなど、その副産物や廃棄物も色々──ふーん、すごく複雑なのね」

「それだけじゃなく、この広大な海藻と貝の森は魚にとっても楽園だ」

「連絡して見学する?」

「それともあっちの珊瑚礁でも見るか? きれいだぞ」

 人工珊瑚礁は単に、低緯度の外洋に頑丈な浮きをガラスの鎖でつないで海面下十五メートルぐらいに固定したものだ。自然とその上に珊瑚礁ができ、大量の二酸化炭素を固定して漁獲量も増やしてくれる。広くなりすぎると底の下で酸欠が起きるため、上から見ると格子状になっている。

 定期的に浮きを追加したり余計な珊瑚をかきおとして海底に沈めたりする手間はかかるが、それだけの漁獲量はあるし肥料の必要もない。

「やめとく。ちょっと遠くまで来すぎてない?」

 ぷっ、と思わず吹き出した。

「何よ!」

「あのね、ごめん! あたしたちにとって遠くって、日本の領海出るぐらいなの」

 葉波の言葉に、岡野は呆れてものが言えないようだ──単に上手回しでちょっと波をかぶったからかもしれないが。

「といっても、ここからは日本本土のほうがグアムや台湾より遠いんだけどな」

 そう、そんな遠くに旅立つことになる──何が待っているんだろう。

 ひたすら数学ばかりの三週間だけど、終わってから三日かそこら向こうで過ごせるし──本土を、岡野に案内してもらうのも楽しいかもしれない。

10

 キス──熱く、深く甘い──葉波? そして、岡野と──かわるがわる──

「由! 起きなさい」

 うわあっ、葉波が至近距離に。いつものことだけど、こんな夢の直後だとどうも──

「今日出発でしょ? 早く支度しなさい」

 うう、夢ではあんなに可愛かったのに……

「あ……もう五時か」

「だから早く起きろっ!」

 と、布団をはぎ取られる。前みたいにおねしょ呼ばわりされたら──さらに悲惨なのがこの前みたいに、黙って生ぬるい視線を向けられることだ。

 押しのけるように風呂場に飛び出す。幸い下着は無事だった──が、岡野とはちあわせし、また葉波と二人がかりで叩きのめされた。

 朝食もいつもより少し豪華で、オレの好物の鶏のから揚げと、オヤジの好物の鯖の味噌煮といろいろな魚を入れた汁、美香が大好きなモンブランと相原家自慢のパパイヤ。

「ちゃんと朝は食べなきゃ駄目よ」

「うるさいな」

「素直になったら?」

 岡野の一言につい手が出そうになるが、思いとどまる。もう女の子を叩くことはできない──出会ったのがもっと昔ならよかったのに。葉波みたいに遊んだりケンカしたり──

 しばらくはうちで食事をすることもない、などと思ったら弱虫扱いされる。船で、そして本土では何が食べられるか楽しみにしないと。

「じゃ、行ってくる」

 なんだか照れくさかったので、食べ終わってすぐに出かけた。


 集合時間〇八〇〇、出港時間一五三〇。

 待ちきれず三十分前に着いた。オフクロは向こうの埠頭から出る高速艇に、オヤジと美香を見送りに出ているはず。こっちには来るな、と必死で頼んだ。

 順風で、空もいい感じだ。波も落ちついている。これなら船酔いも……う、考えるな、今から吐き気がする。せっかくのごちそうを海に戻したくない。

 オレが乗る筑波丸はやや古い中型貨客船で、大型の煙突にガスタービン=スクリューと帆走の併用型。化石燃料に世界全体で高額の税金をかけるようになってから、ほとんどの船に帆がある。

 艦尾のキャビンから通信用マストが一本、甲板から帆走用のマストが二本そびえている。ずんぐりして積載量と安全重視。揺れるけど。う……くそっ。

 帆だが、本当に使われる船は、オレたちが普段学校に往復しているような古典的洋艤装ではなく、先進素材を使った異様なコンピュータ制御の帆だ。簡単に甲板の収納所にたたむことができる。

 塗装はくたびれているが整理整頓は行き届いている──よく見る船だが、乗員として乗るのは今回が初めてだ。

 短期だし学校での荷物は別に送ったから、オレ自身の所持品は少ない。

 もう一度確認するか──七つ道具、安全ブーツとヘルメット、革手袋とゴム軍手。タオルと下着と洗面セット、ジャージ上下とエプロン。コンパスと六分儀、ぼろぼろでずしりと重い船実習のしおりと海図帳チャート、航海日誌帳、夏休みの宿題が少々と──いつもなら本はケーコに入れていくが、去年はケーコを没収されてすごく退屈だった。今年も多分そうだし、荷物に入れておこう。あと当然、オレには必須のエチケット袋。

 オレたち海育ちの実習生アップが、外洋船で働きながら航海するのは去年の冬も、片道二週間のハワイ往復でやってる。峰とリック、金さんは去年の後半休んで、それぞれの専門を勉強しながら、マラッカ海峡からスエズ運河を通ってイタリアまで往復してきた。世界一周を経験した強者も木村など何人かいる。

「おーい!」

「今いくよ!」

「くーるよ」

 何人か集まって、そわそわしながら待つ時間が──いるいる、安里のおふくろさん、隠れてるよ。

 なぜか釣りセットを背負った峰が来た。

「よう、どうしたんだ?」

「ついでだよ、釣りの」

 そこに岡野も来た。見送り? いや、荷物? 今夜出発のはずなのに、ずいぶん気が早いな。

「見送り、行ってあげたら」

「親父と美香? ああそれは」

「え、本当に知らな」

 峰が口にし、はっと口を押さえた。その視線の先で、岡野が真っ青になっている。峰が岡野をにらむ。

「何が?」

 そろそろ集合時間なのに。

「ハナがおじさんたちと中国の植林に出発する、って──今から予定変更して追いかけても」

 岡野の言葉に、頭が一瞬真っ白になる。なぜ──わけがわからない。

「由と行くつもりで、だよ。口止めされてたはずだよな、岡野」

 峰の言葉が現実のものとは思えない。

「そ、そんな──」

 ばかな! 葉波は春おじさんのことを、ずっと想ってきたはず──オレが百合姉を想っていたのと、同じように。

 同じように──同じように、とっくに振り切っていたのか?

「じゃ、じゃあ、なんでずっと──春おじさんにばかり──」

 峰がなんともいえない目でオレを見た。岡野の目には、憎悪すら混じっている。

「わかってないのか? 嫉妬させたくて、だ──このバカ野郎!」

 拳がまたぎゅっと固まっている。このあいだ殴られたときよりショックだ。

 嫉妬? いやというほどしてきたさ!

「っ──かやっ!」

「長谷川、乗船時間!」

 走り出したオレに、後ろから先生の声がかかる。

 船での乗船時間は絶対だ──だが、数分だけ、ぎりぎり──ええいっ!

 汽笛が鳴り、出港していく船が見える。

 ケーコ連絡を取ろうとするが、通じない。電源を切っている?

「葉波!」

 マストが見えた、それに必死で叫ぶ。逆風が目に痛い。

「ゆうちゃん!」

 誰かに抱きとめられたのがわかる──振り払おうとして叩いた感触から、何かを感じてぞっとした。

 百合姉?

 体がすくむ。大事な体なのに──大好きだった女性ひとを──

「だめ──あの子が好きなのは、海と宇宙が大好きで、嵐にも負けないゆうちゃんなんだから」

 ぎゅっと、暖かい胸に抱きしめられたのがわかる。直後、何かが爆発するように涙が溢れた。

 ひとしきり泣いて、心がおさまった──百合姉に涙を見せたのは何年ぶりだろう。この女性に涙を見せたくなくて、どれだけ頑張ってきたか──いつ、この女性より、葉波にこそ涙を見られたくなくなったのだろう──

 いつか、少し離れて立って、オレは涙をぬぐった。

 パシッ、とオレの頬が鳴った──これも何年ぶりだろう──

「可愛い妹を泣かせたんだから」

 と、微笑んでオレの顔をのぞきこむ。

「帰ってきたときは、二人とも──きっと違っているはずよ。どうしても大きくなるんだから……こんな小さかったゆうちゃん」と、おおきくふくらんだおなかぐらいに手をかざす。「……や葉波が、こんなに大きくなるなんてね。もう、背伸びしなきゃ届かないか」

 と、頬にキスが鳴った。

「あと伝言。岡野さんのこと、しっかり守ってあげて、って。いってらっしゃい」

 何も言えず、船に向かった。

 言いたいことは山ほどあった──大好きだった、いい子を産んでくれ──でも何も言えない。

 船に着くと、船員が──上級船員、この間あった──

 思い出す間もなく、拳の一発。目が覚めたら甲板上で、海水をバケツでかけられたのがわかる。すごいパンチだった。今のは当然船には必要だし、邪悪な支配ではない。そうだったらどこかから制裁が必ずある。

「二度とやるな! 時間厳守だ」

「はい」

 ジョンソンさん、だった──吸い込まれるような、深海のように深い目だ。

「いいわけもなしだ」

「はい」

「掃除!」

「はい!」

 甲板を見回すと、ちゃんと束ねられていないロープがあった。

 すぐ片づけよう、と思ったがまず、

「すみません! ここでの処理は」

 無言で、ジョンソンさんが飛んできて一見ゆっくり、それでいて恐ろしい的確さでロープを処理した。

 聞いてよかった──去年も同じことをしようとして、やり方が違うと怒られた。船によって組み継ぎスプライスのやり方も違う。同じ失敗は二度しない──

 しかし、このロープ処理──やはりこの人は本物だ。なんとか真似て、今はゆっくり丁寧にやってみる。

 ふと後ろを見ると、岡野が乗船しているのが見えた。あれ? 予定と違う──いや、今は船員なんだから下船するまで船客も港の人も、たとえ家族でも関係ない。船に集中しなければ──去年それでえらいめにあったし。

 出港まで時間がない、やることは山ほどある。

 ケーコが取り上げられていることにも気がついたが、去年もそうだった。あの時は泣いたけど、今はそれどころじゃない。とにかく忙しい。

 コンテナの積み込みは大人の仕事だから、安全なように離れて──もっと危険なのは穀物や液体の積み込みだ。

「近づくな、見て盗め!」

 大声で注意される。ここでふざけたら、米や小麦粉でも溺れる。ましてメタンに高圧水素、アンモニアやエタノールなどは浴びただけで即死だ。それに火が出たら……

 一昨年、荷揚げ中にふざけた奴が糖蜜に蹴落とされるのを見た。細いワイヤーを命綱として引っかけていたから命は助かったが、あれを見てからみんな目の色が変わった。海に放り込まれるよりずっと怖い。

 こっちに揚げるものも多い。コンテナから機械類や雑貨、鉄鋼、セメントや泡コン用炭素繊維──どれも危険物だ、油断せず慎重に扱え、と去年からさんざん叱られている。

 今になるとわかるが、こうして子供たち──去年の実習でそれが事実だ、と受け入れるには、実習が終わってからさらに二月かかった──がいると、古参の船員も模範を示さなければならなくなる。結果損失が減って喜ぶのは船長と船主と保険会社だ、とわかってみるとなんだか悔しいのだが。

 でも少しでも役に立ちたい、とつい前に出たくなる。

「出過ぎるな」

 ジョンソンさんに肩を押さえられた。ぐっと悔しさが胸を締めつける。ついでに忘れていた船酔いも──う、でもこの人には見られたくない──何か仕事はないだろうか?

「パレット持ってこい」

「はいっ!」

 わかってくれてるなあ──背中が熱くなる。

 船上でパレットが足りなくなったので、サイパンから乗ってきていた神田さんと一時下船。

 本当は手続きがいるが、荷揚げ作業中はそれどころじゃない。

「“嵐の長谷川”がこんなかわいい子だったなんてね。いくつ? あたしは十七」

 やめてくれ。

「十四です。パレットはこっちです」

 神田さんは小太りで小さく優しそうで、船での動きもしっかりしている。頼りになりそうだ。

 倉庫にちょうどいい山がなく、あちこちに散っていたパレットを集めて積む厄介な作業があった。だが去年は二人でなければ持てなかったパレットを、一人で持てたのが無性に嬉しかった。

 積んだらそのままフォークリフトを神田さんが操縦し、船に直行。いつ、オレもフォークを使えるようになるんだろうか。


 気がついたらもう出港の時間だ。全部片づけて甲板を磨き上げるのはぎりぎりだった──ジョンソンさんの腕がなければ無理だったと思う。

 このときがいちばん誇らしい。全速でいちばんいい服に着替え、船乗り帽をかぶって舷側に整列する。

 音楽とちょっとした儀式、そして待ちに待った号令に合わせて帆が展開される。

 もちろん古典的洋艤装の帆がぱっと開くほど華麗ではないが、コンピュータ制御の帆が開くのもそれはそれで壮観だ。

 そして錨が引きあげられ、揺れの周期──考えるな、酔う。直立不動だ。

「敬礼!」

 いちばん晴れがましい瞬間。港を見てはいけない──見送りに応えるな、任務に専念しろ、船全体に気を配れ──去年どんな目にあったか思い出せ──

「解散!」

 もう一度敬礼し、とりあえず次の当直は──でもオレたち下っ端の子供に当直もクソもない、二十四時間仕事と思った方がいいが。

 とりあえず、この航海で自分が何をするか知ろうと──そこでなにか、違和感を感じた。

 海面下の船艙と客室の間──本当は船員食堂に集合すべき、違和感は上に報告すべきだが──去年、探検して海に放り込むぞと怒られたんだが──

 そこに岡野がいた。顔を知らない男、大人の船客ともみ合っている。なんとか──

「お客さま」

「なんだ、ボーイのガキか。口出すな!」

 くっ──だが──

「おそれいります。失礼ながら、いま危険な海域でございます。なにとぞお部屋にお戻りになって」

「失礼!」

 ぱっと、ジョンソンさんが飛んできた。

「申しわけありませんでした、こちらでお話をおうかがいします」

 きれいなニュインで船客をなだめ、巧みに連れていく。

 岡野とジョンソンさんが、オレにふっと目を向けた。

 あとで怒られるな──と思ったが、何事もなかった。余計怖い。

 不思議なことに、その船客の姿はその後見ていない。すぐに降りたのか?


 その夜、眠れず舷側で吐くものもなくなってうめいていると、また岡野がいた。

「余計なことしないでよ」

「ぐ、申しわけ、ありません」

 かっと怒ったように目がつり上がる。

「なによそれ、なんで敬語」

「着くまでは船員と船客」

 ちょっとびっくりした目。そう──クラスメートとかとして普通に口をきけるのは、この短い航海が終わってからだ。それまで、オレはひたすら船員なんだ。

 ふと、岡野が周りを見て

「ここにいて」

「え?」

 鼓動が烈しくなり、頭がぼうっとする。いや──酔え、船に。

「う──」

「ひどい船酔いね」

 ***! 去年の実習でフィリピン出身のベテランから習った卑語が出──損ねて、海にまた胃液を少し吐いた。

 船が大きいと揺れが、ゆっくりだけど大きくなるからな──慣れるまではたまらない。

「すごい星、本当に見たのははじめて」

 東京など湾の大都市で育ったとしたら、星なんか見たことがないだろう。

 メガフロートは太陽電池膜があるから、その外に出なければあまり星は見えない。それに水蒸気があるから、いくら空気がきれいでも星はぼやけてしまう。

「ゴビ砂漠の星空はこんなもんじゃない」

 正四面体について思いつかなければ、今頃オレもその空を見ていた──オヤジと美香、そして葉波と。

 そうだったら、とおもうとちくりとする。

 ひたすらな地平線と星空。荒野をまぶしいほど照らす満月。

 背後に広がる丈の低い灌木とそびえる風力発電塔、太陽電池。そして目の前の、あまりにも広い砂漠。

 その地獄にも結構いる生き物。雨が降ったときに見せる、砂漠の凄まじい生命。

 いろいろな、多くはニュインもできない人たち。円卓が全員に配った端末の使い方、ニュインと算数を教え、ケーコや古いノートパソコンを貸してやると大喜びする、でもふだんはすごく意地悪な子供たち。

 陽が出てから沈むまで、一日中穴を掘ったり重い苗や水を運んだりする重労働。疲れきって宿題もできず、倒れて寝るだけ──帰ってからぎりぎりで宿題を片づける苦労。

 入浴なんて夢のまた夢、濡れたタオルで体を拭くだけでも贅沢。

 自分の手で育て、儀式で涙をごまかして殺した羊肉の匂い、焼き上がった種なしパン。たっぷりの、もちろんオレたちの手が入ったバターやチーズ。

 汁気たっぷりで青臭い瓜のうまさ。

 仕事でのオヤジの厳しさ、みんなの敬意。夜の色々なお話や歌。みんなのいろいろな──そこで葉波は──

「ハナちゃんも見てる、そんな星空……へえ、すごい」

 しばらく黙って空を見上げ──たぶん脳直結ケーコで葉波と連絡を取り、星図やあっちの画像を調べたりしているんだろう、興ざめだ──

「宇宙で見た星空とも違うわね」

 という言葉にびっくりした。

「宇宙って?」

「さあ?」

 それっきり沈黙。オレはひたすら舷側から海を見て吐き気に耐えていたが、突然背中を叩かれた。

 ジョンソンさん──しまった。

「彼女を客室に送って、寝なさい。すぐ当直だ」

 何か文句を言おうとした岡野が、また目を細める──ケーコでジョンソンさんと話している。ジョンソンさんのケーコはファッションじゃない実用一点張り。太いバンドが縦横に頭を覆い、しっかり固定されている。接眼ディスプレイもヘッドホンも小さいがしっかりしている。補助カメラアイが四方に突き出しているのがかっこいい。

 ふと、オレは舷側から海をちらっと見て、何か嫌な気がした。

「どうした?」

「ここの波──」

「心配するな」

「はい──」

「ちゃんと処理するから心配するな、と言っているんだ。忘れていい」

「はい」

 ジョンソンさんは信じられる。

 それより、正直足腰がふらつく──

「つかまって」

「いいよ」

「いいから」

 と、岡野がオレの手を取って肩に導く。細いのに、変にしっかりしている。

 情けない──いっそ、今回が初めての実習だったらよかった。あのときはただ必死で、余計なことを考えないでいられた。

 一瞬、体内ケーコを通じて葉波に伝言してもらおうか、とも思ったが、言い出せなかった。もちろん通信室でメールやテレビ電話を借りることはできるけど、こんな短期の実習で陸と連絡を取ろうとしたら軟弱者扱いされる。まして岡野に頼むなんて──。

「なんなのこいつ」

 岡野の、ごく小さなつぶやきが聞こえた気がした。


 台風を縫って北上し、青ヶ島接続メガフロートで“地獄”行きの船などと連絡を取る。

“地獄”とは青ヶ島から東南東五十キロほどにある、人口五十万を超える超大型居住専用メガフロート。同様のメガフロートはほかにもいくつかある。

 正式名称は自由保護島だが“地獄”と呼ばれている。刑務所を補完するところで、どうしても社会に順応できない人たちが、そこでほぼ自由に暮らす。麻薬もどんなひどいCGアニメも自由だが、逆に自分の身は自分で守るか閉じこもるしかない。

 なんであれ──愚かな自由でも──それが本当に必要な者には与えるのが幸福追求権、ということだ。他にも社会に順応できない人のための隔離施設はいろいろある。

 普通の世界と違うのは小さい子供がいないこと。

 潮流や異常に多いサメなどのため脱出は不可能だし、外より中の方が居心地はいい。極端な自由ゆえに、さまざまな病的芸術もすごく発達し、十分な収入源になっている。

 オレたちにとってはとても危険で、魅力的なところだ。

 よく脅しで、行きたいならそこにやるぞ、といわれるけれど──

 普通の船、とくに子供がいる船は立ち寄れないが、いろいろな荷物や手紙を本土に届けるためちょっとボートの荷役を手伝った。

“地獄”の人々はどんななのか見てみたいけれど、その連絡船の人もメガフロート地元の人だった。

 あ、岡野とジョンソンさんが、その船の人と色々話していたのが何となく気になる。

 まあそれより、オレたちは船の仕事を片づけて、ヘリで青ヶ島に行ってみたのだが。

 何度も見てるけど、やはり天然の島の眺めはすごい。

 他にも老人介護専用の百万人規模の居住メガフロートとか、レジャー専門とかさまざまなメガフロートが伊豆・小笠原列島にはあるため、しばしば別の船とすれ違う。

 その警戒も忘れちゃいけない。それら当直の仕事も多いが、時間外も料理や船員の世話で何かと忙しいし、非直のときも勉強だ。

 世界中を回る経験豊富な船乗りからさまざまな話を聞き、直接座学で色々教わり、実地で航路計算や帳簿、航海日誌などを記入、天測や船荷の点検、喫水やビルジなどの点検も実際にやる。これほど密度の濃い勉強はめったにできない。

 世界中の実習生同士で仲良くなるのも忘れちゃいけない。釣りやボート競争、料理比べ──そして卑猥な言葉を教えあうなど実にいろいろとある。


 富士山と東京湾の光柱が見えそうなところで、急に進路を変えた台風につかまった。まともに黒潮のまんなかだ。海の色がすごく深い。

 横揺れだけでなく、縦揺れも大きい。空は青いが、匂いがなんか違う。少しずつ波頭が砕ける。わくわくする。

「気合い入ってるね」

 神田さんにからかわれたが、それよりとにかくふるえが止まらない。

「今のうちにちゃんと食べて、寝ておきなさい」

 ジョンソンさんが落ち着いた顔を出す。

 今日はオレと安里が食事当番で、安里のおふくろさん譲りの黒糖ホットケーキ、昨日釣ったシイラのムニエルと刺身、たっぷりとやわらかめの船乗り粥バーグー

 とにかく体力勝負だ。みんなもわかってるし、オレもバーグーを無理に詰めこむ。

 でも台風だって冬の北太平洋よりはましだ、一度経験はある。喜望峰やホーン岬、冬の北大西洋はもっとひどいというけれど──春おじさんは南氷洋で──

 今は眠りたいけれど、体の奥が熱い。絶対に船を沈めはしない──でも今は一番下っ端の自分に何ができるというんだ──悔しい。

「大丈夫だ、よく寝とけ」

 ジョンソンさんの一言にふっと安心し、気がつくと──目が覚め、もうすぐ当直時間だった。

 夢も見ないでよく寝たもんだ、と自分にあきれながら着がえ、七つ道具を確認、しっかりベルトを締める。揺れがかなりひどい──なのに酔いを全く感じない。逆になんともいえない胸騒ぎがする。

 集合が待ちきれないで船員食堂に向かう。握り飯とサンドイッチの山が用意されていた。

「さて、ちょっと揺れるぞ」

 船長が軽くいう。

「おかしくなくても笑え、気が楽になるから」

 それに今度こそみんな笑った。

「横浜入港は明日の昼になるな。今日はここで一時停船ヒーブツーする」と、壁にある大型ディスプレイに海図、天気図などを表示する。「安定させ、押し流されないよう注意する。海上、海中の設備に十分注意せよ。万一の時もあわてず、適切な対応をとれ。気持ちが切れないよう適度に張って、各自の本分をしっかりと尽くすように」

 結構近くの風下にブイや小さな浮き施設があり、タンカーがいくつか、下手をしたらこっちに押し流される航路にある。それを見て、猛烈な空腹感のようなものを感じる。

 各人の仕事がもう一度確認される。

「長谷川、第二班」

 船客誘導が主で、余裕があるときは船内巡回と船荷の確認、状況に応じて消火・船倉整理などだ。

「舵取りと同じ大切な仕事よ、ちゃんと気合入れなさい」

 神田さんに表情を読まれた──胸に冷たい刃を刺されたような感じがする。

 その通りだ、万一の時には確実な船客誘導は助かる人数を左右するし、船荷が崩れたりしたら即転覆につながるから、その点検、必要に応じての再固縛は船そのものを助ける仕事だ。消火ももちろん。

「はい」

 胸騒ぎがおさまらないけど。


 持ち場につき、リラックスして船の揺れを受け入れ、船のあらゆる音に耳を澄ます。

 ちゃんと適度な帆で風を受け、一杯開きで黒潮の流れを横から受け止めているのが伝わる。腕はいい。

 外を見ると、もう風力8にはなっている。

 これからもっとひどくなるぞ──ほら! ものすごい揺れがきた。

 雨と波しぶきで外が見えなくなり、昼なのに空が暗くなる。

 胸騒ぎがおさまらない。じっとしているのが辛い──でも、船客が、岡野がこっちを見ている。

 オレが不安そうな表情を見せたら、最悪パニックが起きて人命に関わる。

「ご心配なく、念のために第二食堂に集合してください。お荷物は最低限に!」

 あえて笑顔を保つと、妙に気持ちが落ち着く──でも、船全体に、海と空にはりめぐらせた神経が何かをささやいてくる。

「お部屋に備え付けてある救命胴衣をしっかりつけてください、つけかたをご存じない方はどうかお申し出ください」

「し、沈むのか?」

 ごく、っとつばを飲み込んでしまう。この胸騒ぎは──いや、大丈夫。

「大丈夫です、混乱を避け、万一の際にも全員が確実に助かるためです。どうか」ぐっと腹に力を入れる。「落ち着いてください」

 目に最大限力を込め、特に岡野を見つめる。大丈夫だ、と必死で伝える──オレの体内にもケーコが内蔵されているかのように。

 そのとき、何かがぴんと来た。

「長谷川、次は」

「すみません、第三船倉点検します。ついて来てください!」

 ジョンソンさんがぱっとついてきてくれた。

 ぐわっと鋭い船首揺れ、窓を見ると白く波しぶきが渦巻く……風力10?

 船倉に降りる途中でもう、体が凍りついた。壁に穴があいており、それに──固定バンドが切れた鉄骨が当たっている。このまま開きを変えて波をかぶったら、一気に水が流れ込んで転覆間違いなしだ、それも瞬間的な──誰も助からない──

「緊急! 第三船倉に、動ける人をよこしてくれ! 絶対開きを変えるな! 長谷川、やるぞ!」

「!」

 もう無言でオレはそっちに走った。照明をつけて大丈夫か? ここの貨物に爆発する可能性のあるものはなかった──はず!

 毛布、いやそれじゃ足りない、向こうの──そうだ、

「ゴムボート持ってきます!」

「よし、パドルも、それに2インチロープ、それに」

「バールやワイヤー」

 ぱっと飛び出し、救命ゴムボートや救助用浮き輪の予備を自動で膨らませ──もどかしい! その一瞬の時間にも、穴から見える波間に何か恐ろしいものが、すさまじい波しぶきを通して見えた気がした。

右舷スターボード船尾側も警戒させてください!」

 指差し、ゴムボートを引きずって駆け寄りながら叫び、あとは暴れる鉄骨を──やっと助けが来た、ゴムボートで押さえつけ、さらに養生資材や防舷材を穴に詰め──いきなり急に船がジャンプするように、壁に叩きつけられる。

「大丈夫か?」

「はい」

 今のはぶつかってくる別の船をかわしたんだ、となんとなくわかる。いい腕、いい船!

 二人助けが来た。

 次に、あの船をかわすのには開きを変えなければならない──逆に傾いて、ここに海水が流れ込む!

 恐怖以前に、感覚がめちゃくちゃに研ぎ澄まされている。

「行くぞ!」

 もう坂道というか崖のように傾いた中を、最低限の機材で──

 だが安定している、大丈夫──いや!

「全員体を固定して!」

 叫んだ瞬間、ものすごいのが来て隙間からどっと水が流れ込んだ。

 何とか排出しないと──いまだ!

 暴れる荷物は、まるで象だ。オレたちはアリだ。だが、チームワークとちょっとした道具で、その暴れ象を──

「よし、いまだ安定するぞ!」

 どんな嵐にもある、一瞬の安定。悪魔のような一瞬、オレは駆け寄ってロープを投げた。

 みんなも手伝ってくれる──ぐっと、体が熱くなる。

 他にも船や海のあちこちから危険を感じるけど、とにかく一つ一つ潰していかないと──

 やっと固縛して次は、なぜ岡野が危ないんだ? と思う間もなく、「船客を見てきます、右舷第二船客甲板」と叫んで走り出し、消火器と鳶口をつかんだ。


 台風が通りすぎて本土をかすめ──だが油断はできない、余波で前線が頭上を覆い、猛烈な雨が降っていて視界が全然ない。みんな疲れすぎて口もきけない。船客も緊張の一夜でかなり疲れているようだ。

 みんなが、オレを変な目で見ている。仕方ないじゃないか、わかるんだから。

 この状態で東京湾入りか──台風より怖いんじゃないか?

 朝一瞬の晴れ間に富士山と、東京湾などに突き刺さる光の柱がちらっと見えた。やはりこれが本土に着いたという実感だ。

 汚染がひどい大都市がある湾の一定範囲に、宇宙から鏡で三百六十五日二十四時間日光を浴びせ、海底からは大きなプロペラや火力発電の余熱と排気で海底の栄養を巻き上げ、海面では海藻と貝を大量に養殖している。

 そのせいで周囲は雨が多くなり、また星空が全く見えなくなる。それは船乗りにとって、言葉にできない感覚を狂わせることにもなるらしい。

 ここからが危険だ、島や中小のメガフロート、そして船が非常に多い。

 野島崎灯台が見えるといつもほっとするが、逆に──もし船長だったらぞっとしないな。しかも水先案内人パイロットに色々任せなきゃいけないし。

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