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伝説の補欠


 県予選大会準決勝。

 八回裏ワンアウト二塁三塁、長打一発が出れば逆転のチャンスで時間が止まった。

 それはもう、唐突に止まった。

 なんで時間が止まった事が分かったか、って?

 俺以外の全てが止まったからだ。

 こんなのバカでも分かる。

 単純な理由だろ?

 見れば、難しい顔の腕組で、口を一文字に結んだ監督が止まっている。

 スポーツドリンク片手に味方の一打を待つエースでピッチャーで四番で、キャプテンでおまけに成績は学年トップでもう一つおまけに可愛いマネージャーで一年下の菅原裕美と付き合ってる(ちくしょう!)塩谷も止まっている。

 隣に座った俺と同じく補欠の鳥飼も止まっている。

 つまり、ベンチにいる全員が止まっている。

 こちら側のベンチだけじゃない。

 反対側、今日の対戦校である館浪商業のメンバーも。グラウンドに散らばる両チームの選手達も。観客も。吹奏音楽部の奏でるルパン三世のテーマも。

 白い雲も。ボードの時計の針も。

 全て止まっている。

 何だコリャ。

 何が起きた。

 つーか何で俺だけ動けるんだ?

 え? えっ?

 世界中の時計の針が止まった中、俺だけが止まっていない。

 これはつまり――

 一瞬の逡巡が俺の脳を駆け、一秒の半分もかけずに答えが算出される。

 ……これってつまり、何をやってもOK、って事だよね!

 よっしゃ。

 よっしゃ。

 どうしようかな~。

 やりたい事いっぱいあり過ぎて迷っちゃうな~。

 う~ん、と唸りながらとりあえず俺はベンチから立ち上がった。

 やりたい事はごまんとあるが……


「…………グヒ」


 俺の視線の先には、帽子を被ってスコアをつけるマネージャー、菅原裕美の姿が。当然彼女の時間も止まり、ピクリとも動かない。


「ゲヒヒ」


 よっしゃよっしゃ。

 ここから先、ちょーっとばかし隠語や伏字が増えたりするかもしれんが気にせんでくれ。俺は気にせんから。

 ああ神様。

 俺はアナタに礼を言いたい。

 野球部に入部してから、ずっと球拾いや補欠で、ついに一回もレギュラーになる事無く三年最後の試合を迎えてしまった俺に、素敵で粋なプレゼントをありがとう、と。

 涙を流しながら俺は菅原裕美の汗ばんだ肌に――


「よお」


 ドッキーン! 

 マンガみたいな音が確かに聞こえた。

 比喩じゃなくマジで心臓が飛び出すかと思った。

 俺は可愛い年下マネに伸ばしかけていた手を戻しながら、油の切れたブリキの人形みたいにぎこちなく振り向く。

 そこに、ソイツはいた。

 さっきまで俺が腰掛けていたベンチに、俺と同じ城ヶ咲高校野球部のユニフォームを着込んだソイツが座っている。

 声の主であるソイツは、にきびの浮いた口元に、ニヤニヤ笑いを抱えていた。


「なにマジびびってんだ。このどエロ」


「なっ!」


 一部始終を見られていたのかと思うと、冷や汗が吹き出る。

 顔に血が上り、紅潮したのを自覚する。

 そうだよなあ。おかしいよな。時間が止まるなんてある訳ないよなー。

 言いようの無い期待を失った俺は――。

 ……待て。

 依然辺りの人間は動いていない。

 時計の針は進んでいない。

 やっぱり時間は止まっているのだ。

 動けるのは俺とソイツだけ、って事。


「…………」


 そこで俺は一つの『事実』に気付く。

 いや、すぐに気付いてもおかしくなかったのだが、菅原にちょっとアレなけしからん事をしようとしていたのを見られて、気が動転していたらしい。


「……お前、誰だよ」


 ベンチに座ったソイツに向かって言う。

 ソイツは確かに俺と同じ野球部のユニフォームを着ているが、俺の知った顔ではない。

 今年入った一年生は今頃、観客席での応援だろうし、同じ釜で臭い飯を食ってきた二年生や三年生のツラを忘れる俺じゃない。

 それにコイツは、ほんのさっきまでどこにもいなかったのだ。

 まるで幽霊みたいに――

 ソイツはニヤリと笑った。


「先輩に聞いてないか? オレはほら、アレだよアレ。伝説の補欠だ」


 ソイツの足元、本来ならスパイクを履くべき足が冗談みたいに透けていた。


「……!」


 思わず一歩後退する。

 え? え? え?


「聞いた事ない? オレの事」


 ソイツ――伝説の補欠は首をかしげる。

 野球部に伝わる伝説の補欠の伝説。

 正直に言えば、その話は聞いた事があった。

 俺が一年の時、合宿の夜に先輩から聞いた話だ。


 今から十年以上前、城ヶ咲高校野球部にある補欠がいた。

 この頃の城ヶ咲高校の野球部は強く、県内では四強と呼ばれ、何度か甲子園の土を踏んでいる。

 そのため、レギュラーは特待生の独壇場であり、一般入試組だったその補欠にはレギュラー入りは至難だった。

 それでも補欠は諦めなかった。

 せめて代打でも、とバットを振り続けた。

 出番を一番隅のベンチで待ち続けた。

 そして三年生の最後の試合。念願の夢だったスタメン入りが許されたのだ。

 しかし、そこで不幸が起きる。

 交通事故。

 横転したトラックが積んでいた木材の下敷きになった補欠は、一度もバッターボックスに立つこと無く、命を失った。

 そして補欠は伝説になった。


 今では、試合中にその補欠の恨み声が聞こえるとか、部室の天井に人型みたいな染みが出来るとかで、城ヶ咲高校七不思議の一つとして数えられている。

 目の前にいる野球部員。

 ソイツがその『伝説の補欠』なのか……!


「だからそう言ってんじゃねーか」


 伝説の補欠はつまらなそうに鼻をほじっている。

 鼻くそをほじる幽霊。

 色んな意味で衝撃的だ。

 俺が今だ言葉を失っていると、伝説の補欠はベラベラと喋りだす。


「八回4対2かー。おいおい負けてんじゃん。オレらが現役の頃は館浪商業なんて消化試合もいいとこのザコちんだったけどな」


 それから、バッターボックスに立つレギュラーで七番、倉本の背を見て、


「ああー、ありゃダメだわ。緊張で腕にいらん力が入りすぎてんぜ。良いとこフライ打ち上げて終わり、ってとこだろうな」


 まるで近所のちょっと野球が好きな甲子園おじさんみたいな事を言う伝説の補欠。まあ、生きてればそれくらいの年なのか。

 伝説の補欠が、ふいと俺の方を向いた。

 ドキリとする。


「……よお、おたくさあ、試合出ないの?」


 ちょっとムカついた。


「出ねーよ。アンタと同じ補欠だから」


 伝説の補欠は「はん」と鼻で笑う。


「知ってるよ。一年の頃から見てるから。一回も試合で使ってもらった事ないよな」


 知ってて言ったのか。かなりムカついた。

 伝説の補欠はクックックと、日に焼けた肌と対照的な白い歯を見せて笑っている。

 健康的な幽霊ってなんか嫌だな。

 と、いきなり伝説の補欠の表情から笑みが消えた。


「おたく、名前なんてーの」


 声のトーンが少し落ちている。笑ったり鼻くそほじっているより、そうしている方がよっぽど幽霊らしかった。


「一年の頃から俺の事見てたんだろ? なら名前ぐらい分かるだろ」


 さっきのお返しをされたと気付いたのか、伝説の補欠は苦笑。


「バカヤロ。こう言うのは手順が大事なんだよ」


 仕方なしに俺は答える。


「石岡。石岡辰也だ」


「へえ」と伝説の補欠は再びいやらしい笑い方をする。


「辰也ねえ。タッちゃんだ。『石岡辰也は世界で一番浅倉みなみを愛しています』ってか」


 うわやっぱコイツムカつくわ。


「うるせえよ。オヤジかお前は。つーかお前の名前何て言うんだよ。自分も名乗るのが礼儀だろ」


「オレ? オレはホラ、もう死んじまってるし。だから伝説の補欠でいいよ」


 そう言って伝説の補欠は笑う。

 そんな伝説の補欠に、俺は一つ、聞きたかった事を尋ねる。


「なあ、アンタがここにいるのって、やっぱ成仏できないからなのか?」


 伝説の補欠は少し間を置くと、


「……まあ、そうなるんだろうな。自縛霊って訳じゃねえけど」


 時間の止まった空を見上げて言った。

 成仏できない理由。

 それってやっぱ――


「試合、出たかったのか?」


 伝説の補欠は、意外にも首を縦に振らなかった。


「別に。もう三年だったしな。出れるっても何を今更って感じ。つうか、おたく何で立ってんの? 座ったら?」


 そう言って伝説の補欠が勧めるのは、隣の鳥飼が座っていたベンチ。

 仕方なく俺は鳥飼を横にどかして、ベンチに腰掛ける。

 丁度二人でグラウンドを見る形になった。

 しかし先輩から聞いてたのと随分違うな。

 抱いた印象を素直に口にする。


「もっと真面目な野球少年かと思ってたよ」

 

 伝説の補欠は愉快そうに肩を揺すった。


「尾びれ背びれが付いてんだよ。オレそんなに真面目にやってたつもりないし。おたくと一緒さ。ただダラダラ三年間続けただけ」


 何となく親近感みたいなものを感じるのはそのせいか。

「だけど――」一旦前置きして伝説の補欠は続けた。


「三年最後の試合。アレは嫌だったな」


「なんで?」


「だってよ別に実力があった訳じゃねーもん。要するに高校球児としての最後の思い出作り、って奴? それがお情けみたいで嫌だった。それでも行かなきゃなんねーから嫌々自転車漕いでたら、こう――」

 

 目の前で手振りで示す伝説の補欠。倒された掌は下敷きになった自転車か。


「それでポックリ逝っちまった、と」


「そう。んでこのザマ」


 俺の隣で頬杖ついた伝説の補欠は長く息を吐いた。

 溜め息と呼ばれるモノだ。


「……自分が死んでんの、とっくの昔に分かってんだけどさ。気が付いたらこういう風に試合見に来て、ベンチ座って、監督の声かかんの待ってんだよな。もうぜってー試合に出る事なんて無いのにさ。分かってんのにさ。生前の習慣って怖いね」


 そう言う伝説の補欠は、遠い所をじっと見詰めていた。


「オレさ、もう疲れたんだよね。幽霊がそういう事言うのも変だけど。……なあ。おたくさあ、オレの代わりに試合に出てくんない?」


「……はあ?」


 あまりの事に――いや、物語的に伝説の補欠が出た時、半ばこうなる事を予感していたとは言え、咄嗟に返事が出てこなかった。

 え? え? え?

 幽霊の代打って何?

 戸惑う俺に、伝説の補欠は構わず続ける。


「断ち切って欲しいんだよ。オレの代わりに。オレの代わりにオレに良く似たおたくが打席に立ってくれれば、きっとオレ、自分に区切りつけられると思うんだよ」


「何言ってんだ! お前の都合じゃねえか!」


「お前は良いよ。この試合終われば引退だから。だけどオレはさ、ずうっとこのまんま出番待ってなきゃいけないんだぜ。拷問だよコレ」


 伝説の補欠の表情は変に歪んでいた。

 きっと無理して笑おうとしているのだろう。


「……無理だろ」


 俺の口をついたのはその言葉。


「一年の頃から俺見てんなら知ってんだろ? 俺が一度も試合に出た事無いの。そんな万年補欠の俺が出られる訳ないだろ」


 食い下がる伝説の補欠。


「まあ、万年補欠どうしだから通じ合ってここにいるとも言える。っつても言っとくが同じ補欠でもお前とオレじゃ格が違うからな。オレなんか伝説だし、リトルリーグの頃から補欠やってたからキャリア長いんだぜ」


「いや、そこ張り合うとこじゃないし。つうか補欠をポジションの一つみたいに言うなよ」


 俺は被りをふって溜息を一つ。


「とにかく無理。絶対無理だ」

 

 出れるなら、とっくの昔に出てるさ。

 出て菅原にカッコいいとこ見せてるさ。

 でも無理なんだ。

 俺は補欠だから。

 同期のみんなみたいに上手く出来ないから。

 後輩達と一緒に球拾いしたり、輝く表舞台に立つ仲間を、薄暗い場所から応援するのが関の山なんだ。

 うつむいた俺の肩に、ポンと手が置かれた。

 顔を上げる。

 伝説の補欠がちょっとだけ真面目な顔をしていた。


「タッちゃん。手見せてみ」


 言われるまま右手を差し出す。

 伝説の補欠は俺の右手を取ると、掌を出させた。

 俺の掌。

 三年間、とにかく続けた練習で幾つも出来たマメが、厚く硬く盛り上がっている。


「オレの同期の連中はさ、みんなもう社会に出て就職してんだ。オレが出来なかった事をやって、今はみんな野球離れちまってるけど、たまにゴツゴツの掌見てさ、『ああ、オレ昔がんばってたな』って」


「…………」


「なあ、タッちゃん。オレ知ってるぜ。おたくが一年の時、頑張ってた事。二年の春、あの女子マネが入部してきた時、カッコいいとこ見せようとしてた事。全部一ヶ月も持たなかったけど。でもそろそろさ、もう一度頑張ってもいいんじゃねえの?」


「…………ちっ」


 俺は顔を背けて舌打ち一つ。

 何で俺がこんな事に――


「出ればいいんだろ! 出れば!」


 伝説の補欠は笑った。

 いやらしさの欠片も無い、悔しいけれどいい笑顔だった。


「そうと決まれば――」


 そう言って伝説の補欠は館浪商業のピッチャーの特徴や弱点を教えてくれた。

 やれ奴は予選からずっと投げ続けてるから疲れが溜まっているだの、奴の切り札の高速スライダーは三球に一球はすっぽ抜けて棒球になるとか。


「……詳しいな」


「そりゃあ高校球児を何十年もやってりゃあなあ。他校の選手データなんかもそこの女子マネ以上に詳しいぜ」


 奴はニヤリ。

 それはやっぱり伝説の補欠特有のいやらしい笑みだった。


「ついでだ。コレも渡しとくわ」


 そう言って伝説の補欠が取り出したのは一本の金属バット。メーカーの名前が剥げている辺り、随分と使い込まれた印象がある。


「オレが愛用したバットだ。コイツでオレを空に送ってくれ」


 俺は「分かった」とだけ答えてバットを手に取った。グリップが吸い付くように手に馴染む。これならイケるかも。どこからか変な自信がわいてきた。


「それじゃあな」


 伝説の補欠は親指を立てて白い歯を見せた。

 俺は目を閉じる。

 この夢から目覚めるために。

 現世への戻り際、伝説になった男の声が聞こえた。


「そうだ。一つ言い忘れてたけど、部室の天井の染み、アレやったのオレじゃないから。ただ雨漏りしてるだけだから」


 声が遠くなっていく。


「分かった。みんなに伝えとく」



 ――目を開けると同時、大音響のルパン三世のテーマが耳に飛び込んできた。

 流れる雲と、進む時計の針。

 球場に溢れる声援と光。


「石岡、何かあったか?」


 隣のベンチに腰を下ろした鳥飼が不思議そうな表情で俺を覗きこんでくる。


 その時、金属バットの高い音が鳴った。

 七番の倉本が内野フライを打ち上げ、ファーストがしっかりキャッチ。ツーアウトだ。

 腕を組んで、一言も発しない監督が、ちらりとこっちに向いた気がした。


「監督!」


 右手にはバットが握られている。



 

『代打――石岡辰也くん』


 かち割れスピーカーからのコール。

 背中に背負った二桁の背番号。

 俺は今、生まれて初めて光の当たる場所に立っている。

 普段より早い心臓の音を聞く。

 背中に置いたベンチに視線をやる。

 見るのは監督でも塩谷でも菅原でも鳥飼でもない。

 一番端のベンチ。

 伝説の補欠の伝説。

 そのベンチには誰もいないけれど、一瞬、自分が届かなかった事をやろうとする俺に、白い歯を見せて親指を立てた伝説の補欠が見えた気がした。

 審判が試合再開のコールをする。

 バットを構えた。

 ピッチャーが振りかぶって――


「きやがれ! かっ飛ばしてやるぜ!」

 

 ――投げた。

 

 






                 おわり

記憶があやふやですが、確か04年から05年くらいの秋に書いた作品ではないかな、と思います。

その夏の甲子園をテレビで見ていて、代打で出た子が、二塁打を打って逆転したんですよ。

それが、とても印象に残っていまして、「ちょっと作品に書いてみたいな」と思った事を覚えています。

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