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オーボエダモーレの調べ 背徳の物語 六

作者: 大杉 孝一
掲載日:2026/06/13









オーボエ・ダモーレの調べ



登場人物一覧


大村 啓吾   成蹊芸術大学音楽学部大学院生オーボエ専攻 三十一才


高山 幸子   大村啓吾の隣の部屋の住人・シングルマザー 三十三才

高山 由紀   高山幸子の娘・小学校三年生 八才


木下  浩大村啓吾の友人・成蹊芸術学部音楽学部大学院生指揮科 三十一才

佐伯 芙美   木下浩の恋人(故人 三年前死亡時 桜丘高校一年生、十五才)

三宅 純子   成蹊芸術大学音楽学部ピアノ科大学院生 二十三才


大村  勲   大村啓吾の父、フルーティスト 六十才

大村  薫   大村勲の弟、大村啓吾の叔父、大村ホールディングズ社長、五十八才

大村 春彦   大村薫の息子、大村啓吾の従兄弟 二十八才




第一章


 扉をたたく音で目が覚めた。大村啓吾は、まだぼんやりした頭をかかえながら、布団の上で身を起こした。昨日の演奏会の後、明日は休みだからと友人の木下浩と遅くまで飲んで、終電一つ前の電車で帰ってきて、そのまま寝てしまった。記憶にないが、一応はパジャマに着替えて寝たようだ。

 寝たばかりで起こされたような気がしたが、外はもうはっきり明るく、朝もかなり遅い時間のようだ。それにしても、チャイムを鳴らさず、扉をたたいているのはなぜだろうなどとぼんやり考えながら、とりあえずハイと返事して立ち上がった。

 玄関に近づくと、ドアスコープを覗くまでもなく、誰がドアをたたいているのか分かった。泣きながら何か言っているのは、隣の部屋の女の子だ。時々はアパートの廊下で出会って挨拶することもある。由紀ちゃんという名前で、確か小学校三年生のはずだ。

 「どうしたの、由紀ちゃん」

 ドアを開けながら話しかける啓吾に、抱きつくように入ってきた由紀ちゃんは、泣きながら「おじちゃん、ママが、ママが」と繰り返す。由紀ちゃんの様子を見て、何か深刻な事態が起こったと判断した啓吾は、いつもの「おじちゃんじゃない。お兄さんと呼ぶ!」という軽口を言わず、落ち着かせるように彼女の背中を軽くたたきながら、何があったか訊ねた。

 「ママが大変なの。朝、由紀が起きても、ママは寝ていたの。いつもならもう起きていて、朝ご飯の準備をしているはずなのに。声をかけてもお返事がないの」

 啓吾はようやくそれだけを聞き取って、これはちょっと大変な事態だと思い、急いで着替えると、由紀ちゃんをつれて隣の部屋に行った。声をかけても返事がないので、仕方なく無断ではあるが中に入った。

 「お母さんはどこ?」

 「奥のお部屋」

 「ごめん、悪いけれど入らせてもらうよ」

 奥の部屋に入って、もう一度声をかけたが、小さなうめき声が聞こえるだけなので、部屋の襖を開けて寝室に入った。母親は寝ている。これは病気だと判断して母親の額に手を当ててみると、かなり熱い。これでは声も出せないだろう。顔を見ただけで、病状がかなり重いことが分かる。

 「ママは大丈夫?」

 心配そうな由紀ちゃんの質問に、啓吾はできるだけ心配かけないように配慮しながら答えた。

 「うん、ママは病気だね。いつから? 昨日の晩は元気だった?」

 「いつもと一緒だったわ。ちょっと疲れたから早く寝るわねって言って、一緒にお布団に入ったから、具合が悪かったのかな?」

 「自分で歩けるような状態じゃないから、とりあえず救急車を呼んで、病院に連れて行かないと。由紀ちゃんは学校だよね。どうしようかな。朝ご飯は食べたの?」

 「ううん、食べてない」

 救急車を呼ぶために電話してから、啓吾は自分の部屋に戻って、あんパンと牛乳を持ってきた。

 「これを食べて、学校に行きなさい。ママはおじちゃんがちゃんと病院に連れて行ってあげるから、心配しないで。鍵は自分の分は持っているよね? ママの鍵はどこにあるかな?」

 鍵を確認してから、夕食までにはとにかく一度ここに戻ってくると約束して由紀ちゃんを学校に行かせた。保険証が必要なのだが、由紀ちゃんのママに聞ける状態ではないので、悪いとは思ったが、出かけるためにおいてあったであろう鞄をあけて捜した。保険証は財布の中にあったので、とりあえずそれだけ自分の財布に入れて、救急車を待った。


 「あれ、三宅さん。どうしてここに?」

 アパートに返って、自分の部屋の扉を開けて、中に入ると、壁にもたれてうたた寝をしている女性がいる。あわてて近寄ると、同じ学校のピアノ科の三宅純子だと分かって、少し安心した。そっと肩を揺すって声をかけると、目が覚めた三宅がすこしの間をおいてから返事した。

 「どうしてじゃないわよ。今日、一緒に練習することになってたでしょう。でも時間になっても来ないから、心配で来てみたんじゃない。チャイムを押しても出ないし、どうしょうかと思っていたんだけれど、ふと気がつくと鍵がかかっていなかったの。ひょっとしたら中で倒れているかもと思って、心配で入ってみたら、ただの留守みたいだし、鍵を開けっ放しなんて不用心だから、ここを離れるわけにもいかないし、あなたが帰るを待っていたのよ。そしたら、ちょっとうたた寝しちゃったみたい」

 「すまん。そう言えば、期末テストの曲をさらうんだった」大村はその日のスケジュールを思いだして、すっぽかした三宅に謝る。「ごめん。突発事故で、スケジュールが全部、頭から消えていた」

 「そりゃあ、大村さんのことだから、無断欠席なんてよほどのことが起こったに違いないと思って、それで来てみたわけ。何があったの? 鍵をかけるのを忘れて出かけたぐらいだから、よほど大変なことがあったのね」

 三宅の問いに答えようとした大村の後ろで大きな音をたてて扉が開いた。

 「大村、大丈夫か? 何があった?」

 「ああ、木下か。ごめん、心配かけて」

 「いや、それは良いんだけれど。」

 「どうしてここへ?」

 「わたしが連絡したの」三宅が代わりに答える。「わたしだけでは困ることがあるかもと思って、木下さんに来てもらうようにお願いしたの。大村さんの一番の親友が木下さんだとは知っていたけれど、電話番号を知らなかったし、いろいろ伝手をたどって連絡をつけたんだけれど、大変だったんだから」

 「そうか。ごめん」ぶつくさという顔をしてみせる三宅に、大村がもう一度謝って、事情を説明した。


 「それじゃあ、もうすぐその子が学校から帰ってくるんだな?」木下が言う。「どうする。まあ風邪は風邪だけれど、過労と栄養失調で身体が弱っているから一週間ぐらい入院ということを聞かされるのは、小学校三年生にはちょっときつくないか?」

 「まあ、ちょっと具合が悪くなっただけで、すぐ直るから心配することはないよとでも言うしかないでしょう。とりあえず、まず今晩の夕食のことを何とかしなくっちゃ。わたし買い物に行ってくる。夕食四人分でいいよね」三宅が立ち上がりながら言う。

 たしかにもう三時前で、そろそろ娘さんが学校から返ってくる頃だ。


 「シングルマザーだって?」木下が訊く。「それじゃあ、入院となったら子供をどうするんだ。放っておくわけにも行くまい?」

 「そうだな。病院でお母さんの意識が戻ってから、少し話をしたんだが、実は家計が厳しい状態で、入院費が払えないという話が出て、そちらの方へ頭が行ったせいで、由紀ちゃんのことは忘れていた」

 「過労と栄養失調で入院と聞いただけで、経済状況についてはおよそ見当が付く。娘さんの世話を含めて、ちょっと大変な事態だけれど、どうする」

 「どうすると言われても、まあ乗りかかった船だ。お隣という縁で、力を貸すしかないだろう。小学校三年生に自分で何とかしろと言って放り出すことはちょっとできまい?」

 「まあ、そうだな。非常事態だしな。」木下が覚悟したように言う。「時間と金が必要な話だ。自分一人で抱え込まずに、わたしにもできることがあったら言ってくれ」

 「わたしも手伝うわよ」いつの間にか買い物から返って来て、二人の後ろに立っていた三宅が声をかけた。「あなたがたに子供の世話ができるとは思えないしね」

 「えらい言われようだな。これでも自炊しているんだが」大村が口をとんがらせて言う。「まあ、そりゃあ、小学校三年生、しかも女の子の世話ができるかどうか不安であることは確かだけれど。でもそう言う三宅さんはどうなんだ?」

 「家政婦のバイト歴六年のわたしをなめてもらっちゃあ困るわよ」三宅が笑いながら言う。「幼稚園生の世話の経験もあるんだから」

 「そりゃあ、心強うございます」大村も笑いながら答えた。「でも、あまり無理をしないでくれよ」

 「何言っているの。あなたが一番大変なんだし、大村さんこそ無理しないで、わたしたちを頼ってね」

 「そう。わたしも一人住まいで、家事は自分でやっているし」木下も言う。「メインはもちろん大村だけれど、三宅さんとわたしでシフトを組もう」

 「木下さんは指揮者としてオケで仕事をしているんだから、そんなに自由にならないでしょう? 学生のわたしならレッスン日を調整するのは難しくないし、なんとかするわ。今、家政婦のバイトに行っているところは、事情を説明したら休ませてもらえるし」

 「え、大丈夫なのか?」大村が三宅に訊く。

 「大丈夫よ。今だって家政婦のバイトか、遊びに行っているのかよく分からない状況だし。その家はね、本当はもう家政婦なんて要らないんだけれど、ちょっとしたいきがかりで続けているの。池村さんというわたしの小さい時からの知り合いで、家政婦の仕事も、わたしにお小遣いをくれる口実みたいなものね」

 「へえ。そりゃあ良いご身分だね」大村が笑いながら言う。

 「良いでしょう。あ、そうだ。池村さんは高校の先生なんだけれど、お金持ちだし、池村さんに入院費の立て替えを頼んでみようか?」

 「え、ちょっと待って」木下が割り込んできた。「池村さんって、ひょっとして桜山高校の池村先生?」

 「うん。というか、どうして木下さんが知っているわけ?」

 「そりゃあ知っているよ。何年か前に桜山高校合唱部の指揮者をしていたことがあるんだけれど、その時にものすごくお世話になった」

 「へえ。そんなことがあったんだ」


 「知らなかった。隣に住んでいて、毎日のように挨拶していたのに」

 由紀ちゃんがようやく寝入った後、大村が愕然とした様子で話し出した。由紀ちゃんが学校から帰ってきた後、三宅が用意してくれたハンバーグで早めに食事をしてから、皆で病院にお見舞いに行った。子供がいる前であまりお金の話もできないので、入院費その他の件については大丈夫ですよとだけ言って、詳しい話は明日にするようにした。しかし、その日の話だけでも、シングルマザーの高山幸子さんが、どれぐらい厳しい経済状況であるか三人にはすぐ分かった。第一、由紀ちゃんが食事の時も、お風呂の時も、「おいしいね」「お湯が暖かいね」と喜んでいた。それを聞く度に、心の痛む思いがしていた三人は、何とかしてやりたいと改めて思った。

 「知っていれば、もう少し何とかできたのに。ちょっと注意して見ていれば、二人が大変な状況にあることぐらい気づいたはずなのに、俺は何をしていたんだ」

 「まあ、そう自分を責めるなよ」木下が言う。「気づかないのが普通で、意識して注意しない限り、そんなこと分からないよ」

 「でもなあ、この前に買ったあのオーボエ・ダモーレな。あの代金であの二人は半年は暮らせるだろうと思うと、自分はなんとひどいことをしていたんだろうという気になったんだ」

 「オーケストラの連中って皆そうだろう」木下が言う。「バイオリン一丁で億の桁に行ったりする世界だ。安物はともかく、皆の持っているのはだいたいの楽器が三桁万円、それなりの演奏者なら四桁万円の楽器を使っている人もいる。第一、お前のお父さんのフルートって金製じゃなかったっけ? 四桁行くよな」

 「それはそうだけれど」大村が思いつめたように言う。「お前、それをあの病人の前で言えるか? 栄養失調と過労だぞ、表面上の病名は風邪だけれど」

 「そうよね」三宅も話に割り込んできた。「指揮者はさ、指揮棒ってあれ楽器じゃないけど、万、行かないわよね、どんなに凝ってみたって。その気になれば割り箸削ったって良いんだし」

 「ひどいことを言うね。楽器屋へ行けば万超す指揮棒も売っているよ。割り箸削ってもいいというのはまあ本当だけど。それに最近は指揮棒を使わない指揮者もいるし」

 「でも他の人は皆それなりのものを持っている。その楽器の代金を演奏の出演料で稼げるのかしら? 何年かかる?」

 「なんか耳のいたい話だな。そりゃあ、音楽というのは贅沢な趣味だ。金持ちのぼんぼんやお嬢様でなければ続けられないよ」木下がため息をつきながら言う。

 「楽器は良い物はやっぱり音が違うというのは確かなんだ。でも、たいした才能もないのに、その値段を払って楽器を買うって、何となく天をも怖れぬ所行のような気がしてきた」

 「お前、それだけの才能を持っていて、それを言うか?」

 「オーボエで食っていけるのが、ソリストで何人、それなりのオーケストラで何人と数えてみれば、ものすごく狭い門だぞ。その狭い門に群がる人たちの中で比べたら、俺の才能なんて無いに等しい」

 「わたしは大村君のオーボエ好きよ。本当に音楽を感じ取って、それを表現している。ただ楽譜通りに吹いているようなオーボエとは全然違う。時々、伴奏をしながら、大村君が感じている音楽が直接胸に突き刺さってくるような気がする時があるもの」

 「そう。それが大村の強みじゃないか」木下が強調する。「新世界のイングリッシュホルン、お前のソロを聴くと、本当に涙が出てくるほど心にしみてくる」

 「あれは、あの楽譜を見ていると、こう吹きたいという思いが自然に出てくる。その通り吹いているだけだ。でも、それが全く浮かんでこない箇所も多いし、そこはただ楽譜をなぞっているだけになってしまう」

 「そりゃあ、全部をあんな風に吹くことなんて最初から不可能だと思うよ。第一、全部が全部そんな思いにあふれていたら、聴いている方は疲れきってしまうぞ。時にはそういう演奏もあっても良いが、息を抜く場所も必要なんだ。落語なら「だれ場」という部分だな」

 「まあ、とにかくコンチェルトやクラシックにあまり興味が持てないんだ。本当にやりたいのは、バロック音楽。でも、バロック音楽中心の古楽器をメインにしたオーケストラは、それこそ狭き門だし、日本を離れたくないなんて言えば、まず無理だろう?」

 「まあな」木下が半分笑いながら言う。「そう言いながら、普通のオーボエとイングリッシュホルンの他にピリオド楽器のオーボエとオーボエダモーレを買ったのは誰だ?」


 「せっかく、池村先生があの二人のお世話をしてもいいよと言ってくださったのに」三宅が唇をとがらせて言う。「断ったんだって?」

 「うん」大村が三宅の勢いにちょっと退きながら答える。「これはわたしがやらなければならない仕事だという気がして」

 「なんでよ」三宅はまだ怒りが収まらない感じだ。「あのね。池村先生の奥さんとお子さんね、実は高山さん親子と似た境遇だったのよ。だから奥さんだって身につまされたのね。池村先生より奥さんの方が熱心だったくらいよ。それにお子さんが今ちょうど三年生でもあるしね」

 「あ、そうなのか?」木下が知らなかったという感じで口を挟んだ。

 「そうなの。わたしはその時ちょうど池村先生の家で家政婦のバイトをしていたから、池村先生が、路頭に迷う事態になった奥さんとそのお子さんを助けたのを見ていたんですからね。高山さん親子と同じケースでしょう?」

 「まあ、それは分かるんだけれど」大村が静かに言う。「実は、前から学校を辞め時かなと思っていたんだ。オーボエは好きだけれど、それで食っていける見込みはない。プロにならなければ音楽ができないわけでもないし、オーボエは趣味として続ければ良いしね」

 「そんなもったいない」木下が言う。「あの二人の世話をしたいって言うのは、学校を辞めるということと結びついているのか? 学校を続けながらでも二人の世話はできるだろうが。俺も手伝うし」

 「まあ、そう言うな。学校を辞めても、お前の友人を辞めるつもりはないし、音楽学校の友人についても同じだ。ただ、ちょっと前にある会社の社長をやっている叔父さんから仕事を手伝ってくれと言われたんで、何となく運命みたいなものを感じたんだ」

 「ちょっと待て」木下が言う。「就職するんなら、俺の親父の会社にしたらどうだ。音楽を続けて行くのに便宜を図ってもらえるように交渉するし」

 「いや、そうはいかないんだ。木下の親の会社に就職したりしたら、なんでこっちへ来ないんだということで大変なことになるのが目に見えているんで」

 「本当に二人とも良いご身分ね」三宅があきれたように言う。「でも、大村さんがいなくなると皆、寂しがるわよ。何とか学校を続けて欲しいけどな」

 「まあ、そう言わないでくれ」大村が困ったような顔で言う。「それと、叔父は良いけれど、親父がな。「オーボエをあきらめるのか、この根性無し」とののしられそうで怖い。「オーボエで親父に張り合えるような演奏家になるのは無理なことぐらい分かるだろう」と突っぱねるつもりなんだけれど」

 「そうか? 確かにお前のお父さんは世界的なフルーティストだけれど、大村だってバロック音楽の世界で「オーボエなら大村」というぐらいの地位にはつけると思うんだけれどな」

 「何を言っている。それは評価が甘すぎるぞ」

 「あら、わたしも木下先輩に賛成だわ」

 「もう。二人とも、もう少し現実を見てくれよ。わたしは二人と違う。」

 「え、そんな馬鹿な」三宅が驚いたように言う。「木下先輩はともかく、わたしのピアノの才能なんて、大村さんの足下にも及ばないわよ。自分の力が世界に通用するようなものでないというのは、留学先のニューヨークでいやと言うほど見せつけられたわ。すごい人の集まりだったし、わたしはみそっかすも良いところよ。結局、向こうで卒業というのはあきらめて帰ってきて、こちらで卒業して大学院へ進んだの。大学院も、学校教師の道を目指すためで、演奏家としてじゃないしね」

 「でも、三宅さんの伴奏は本当に絶品だよ」大村が言う。「ソロやコンチャルトだけがピアノ音楽じゃない。伴奏ピアノって、ピアノ科の連中は一段下のように思っている奴が多いけれど、ソロを支えてくれる伴奏ピアノって、本当に大切なんだけれどな。まあ、三宅さんは教師志望だそうだけれど、その場合でも、伴奏ピアノがうまいって事はずいぶん助けになると思う」


 「今初めて聞いたけれど、三宅さんはニューヨークに留学していたの?」木下が訊く。

 「ああ、そう言えば、お前もニューヨークに留学していたな。すぐ帰ってきたけれど」大村が懐かしいなという感じで口を挟んだ。

 「え、木下さんもニューヨーク? じゃあ、あちらでもわたしの先輩って事?」三宅がびっくりしたように訊く。

 「多分そうなるな。うちの学生がニューヨークに留学といったらあの学校に決まっているから。うちの学校の提携校だし。わたしは声楽科の佐藤先生の伝手で行ったんだけれど、三宅さんだって指導教授の大谷先生の伝手だろう? そりゃあ、あそこになるよ。佐藤先生と大谷先生は仲がいいし」

 「それどころか、大谷先生の依頼で佐藤先生の友人の方が動いてくださったの。大杉さんというんだけれど、向こうのお金持ちのヘンリーさんという方を通じて奨学金をもらえるようにしてくださって。その大杉さんという方がまた池本先生の古くからの友人と言う事で、なんと世界は狭いことかと」

 「ちょっと待って。大杉さん?」木下がびっくりしたように言う。「じゃあ、同じ人のお世話になったわけか。わたしも、大杉さんやヘンリーさんにはずいぶんお世話になったんだけれど」

 「なぜ大杉さんと知り合ったの?」三宅が不思議そうに訊く。「どんなつながり?」

 「最初のきっかけは、大杉さんから佐藤先生に、桜山高校合唱部の指揮者を送って欲しいという依頼があったことなんだ。わたしが佐藤先生の指名を受けて指導に行ったんだけれど、ちょっともめ事があってね。それで池村先生や木村中高部長、大杉さんらが相談に乗ってくれたんだ」

 「ああ、あの件か?」大村が言う。「びっくりしたよ。急にニューヨークに留学する話が降ってわいたように出て来て、俺にも事情を知らせず旅立ちやがった。いったい何があったんだって、事情を知るまでだいぶ怒っていたんだ」

 「事情って?」

 「それがさ、木下の奴、桜山高校の一年生の女の子と深い仲になったんだ。いくら二人とも真剣だと言っても、そりゃあまあ社会的にはどうかという話になるよな。それで、皆で知恵を絞ってその女の子のニューヨーク留学を決めたんだって。そして、木下には自分で金を工面してニューヨークへ行けという粋な計らいをやったわけ。まあ、わたしもその女の子と話をする機会があったから言うけれど、本当に良い子だったよ。二人は年の差が大きいと言う事を除けば理想のカップルだったな」

 「まあ、木下さんのことだから、いい加減な気持ちでつきあっていたわけではないという事は納得するけれど」三宅が訊く。「確かさっき、すぐ帰ってきたって言ってたわよね。なぜ?」

 「彼女が向こうで病気になって、帰ってこざるを得なかったんだ」

 「こめん。気楽に訊いて良いような話じゃなかったね」昔のつらい思い出をかみしめるように答えた木下に三宅が謝る。「それで帰ってこざるを得なかった訳か」

 「まあ、でも皆が一所懸命支えてくれたから」

 「桜山高校合唱団のリサイタルで棒を振るという形で、合唱団の皆が二人の仲を祝福するということもあったしな」

 「ああ、あの「庭の千草」な」木下がしみじみと思い出すように言う。「あのオーボエはすばらしかった」

 「まあ、俺なりの二人への祝福だな」

 「え、大村さんが「庭の千草」のオーボエを吹いたんだ。聴きたかったな」

 「まあ、二度と聴けないような名演だったな」木下が言う。「わたしは棒を振る必要が無かった。ただ、オーボエに寄り添って手を動かしていただけだったし」


第二章


 「この度は本当にありがとうございました」

 高山さんがお礼を言う。退院して、大村の部屋で皆で退院祝いをしている。三宅が力を入れて用意した夕食を、皆で食べながら、楽しい話に花が咲いていた。集まったのは、高山親子に、大村、木下、三宅の三人の他、池村夫妻とその娘さんで、入院中なんのかのと言いながら、三宅さんを通じて池村ご夫妻がお手伝いに来て、ついでに娘さんが同学年の由紀ちゃんと一緒に宿題をし、遊んでくれたお礼もかねている。

 「でも、これからは少しわたしたちに頼ってくださいね」池村先生の奥さんが言う。「自分で何とかしようとして倒れるなんて事、もう二度と無いようにしてください」

 何となく同じ事でも自分たちが言うより、池村先生の奥さんが言う方が説得力があるなあと大村、木下の二人は感心して聞いている。池村先生は、にこにこと笑いながらそれを見ている。ああ良い夫婦だなと大村は思った。

 「でも、縁もゆかりもないわたしたちに、こんなに良くしてくださって、本当にどんなに感謝してもしきれません」

 「わたし、五年ほど前、今の高山さんと同じような状況だったんです」池村夫人が言う。「それを主人に助けていただいて、今は幸せに暮らさせていただいています。今度はわたしたちが助ける番です。縁もゆかりもないといわれましたけれど、わたしこそ池村とは縁もゆかりもなかったのに助けていただいて、どんなにありがたかったか。ですから恩は順送りですよね」

 「まあ縁やゆかりと言えば、たまたまわたしが隣の部屋に住んでいたというのが縁でしょうね」大村が言う。「お二人の現状を聞いて、何とか助力したいと思ったので、あまり気になさらずに頼ってください」

 「大村さんは本当にえらいわよね。わたしたちが援助しましょうかと聞いたら、今回のことは、何か自分に与えられた使命のような気がしたので、自分でがんばってみますって言われたの。でも、本当にわたしたちも頼ってくださいね。佳奈も由紀ちゃんと仲良くなったみたいだし」

 「でも今回、シングルマザーって本当に大変なんだなあとつくづく感じました」三宅がため息混じりで言う。

 「ええ、でも主人との別れが離婚ではなく、死別ですので、まだましだと思います。これが離婚で、しかもその理由が浮気とか暴力だったら、もう耐えられなかったでしょうから」

 「今もまだ愛しておられるんですね」大村が訊く。

 「さあ、どうでしょうか。毎日の生活に追いまくられて、昔を想い出すような気持ちの余裕もありませんし、あの棚に飾ってある写真がなければ、顔も忘れてしまったかも知れませんね。まだ赤ちゃんだったから由紀は何も憶えていないと思いますし。ただ、昔わたしを愛してくれた人がいて、その忘れ形見がこの子だということは、わたしが生きる力になっています」

 「それは、まだ愛していると言う事ですよ」池村先生がポソッと言った言葉に、みなちょっと涙ぐんだ。


 「でも、大村さん」池村先生が訊いた。「今、音楽学校の学生さんでしょう。二人の生活の面倒を見ると言われましたが、どうなさるおつもりですか」

 「まあ、家がそれなりに裕福なので、とりあえずは貯金で何とかなるんですが、もちろん、それではそんなに持ちません。実は就職しようと思っていまして」

 「え、せっかくの学校を辞められるんですか? もったいないですよ。すばらしいオーボエを吹いていらっしゃいましたでしょう?」

 「あれ、わたしのオーボエを聴かれたことがあるんですか?」

 「あの演奏会の時」横から木下が口を挟む。「わたしを指揮台に立たせてくれたのは池村先生なんだ。だから、当然聴いている。あの事件の時、中に入って助けてくださった人たちの中でも一番がんばってくださったのが池村先生なんだ」

 「いや、あれは木村中高部長のはからいで」池村が訂正する。「第一、わたしが一番がんばったなんて言うと佐藤先生や大杉が気を悪くするし」

 「いや、だけど、その佐藤先生や大杉さんがそう言っているんですけれど」

 「あいつらはそういう奴なんだ。自分でやった善行をさらっと人に押しつけて、自分は何もしていませんよという生き方を貫いてきた男で、いかにも粋なんだけれど、おかげで押しつけられたわたしたちは野暮と思われてしまう」いかにも困った奴らだという風に口をとんがらせて言う池村先生に、皆が笑った。

 そこに「あなたが野暮な人ではないことはわたしは分かっていますから」という池村夫人の言葉に皆、更に大きく笑った。

 「ここにいる人たちは皆、本当にいい人たちばっかりで」三宅が言う。「この中にいるとわたしもいい人でいられるの。それって、素敵な事よね」

 「所で話を戻すけれどさ」池村が言う。「本当に音楽を辞めるの」

 「いえ、音楽は辞めませんよ。木下や三宅さんにも言ったんですけれど、プロでなければ音楽ができないわけじゃないですから。でも、最近、叔父から声をかけられていましてね。今回のことが言わば背中を押してくれるきっかけになったということで、別にこれが原因でプロになる事をあきらめるというわけではないですから」

 「本当にそうなんですか?」高山さんが言う。「もし、わたしたちのためにこれまでやってきた大切なことをあきらめるというのでは困りますし」

 「大丈夫ですよ」大村がにこやかに笑いながら言う。「音楽は続けますから」


 「ねえ、おじさん?」由紀ちゃんが訊く。

 「お兄ちゃん!」

 「分かった。お兄ちゃん、あれがお兄ちゃんのやっている楽器?」

 由紀ちゃんが、棚にのっている楽器ケースを指さした。由紀ちゃんだけでなく、池村先生の子供、佳奈ちゃんも興味津々という風に見ている。

 「ああ、そうだよ。中を見たい?」

 「見たい、見たい」二人が声をそろえて言う。

 「あ、大丈夫ですか? 大事なものじゃないんですか」高山さんだけでなく、池村先生の奥さんも心配そうに訊いてくる。

 「いや、まあ大事なものには違いありませんが、大丈夫ですよ」

 「そう言えばオーボエダモーレを買ったんだろう?」木下が言う。「わたしもまだ見せてもらっていないから見たいな」

 「オーボエダモーレ?」池村先生が興味深げに訊いてきた。「名前こそ知っているけれど、実物は見たことがないですね。持っておられるんですか。よろしければ、ぜひ見せていただきたいですね」

 「あなた、オーボエダモーレって、珍しい楽器なの? オーボエの一種?」

 「まあめずらしいね。オーボエ族の楽器は三種類あって、一つはもちろん普通のオーボエ。それからドボルザークの「新世界から」の家路のメロディで有名なイングリッシュホルン。その中間がオーボエダモーレ」

 「よくご存じですね」大村が感心したように言う。「だいたい、普通はイングリッシュホルンってホルンなんでしょっていうレベルですから。オーボエダカッチャの名前の方が有名になればオーボエ族ってすぐ分かるんですけれど、なぜかイングリッシュホルン、あるいはフランス語でコールアングレと呼ばれることの方が多くて」

 そう言いながら、大村はまずオーボエのケースを開けた。

 「だいたいオーケストラの楽器って結構音が大きいんです。ましてオーボエは小さな音が出しにくいので、ここで吹いたことはないんですが、まあ今日はお隣さんはここにいるし、この部屋は端っこだし」と言い訳をしながら、大村は前に話題に出た「庭の千草」の冒頭部分を吹いてみた。

 「わあ、すてき」子供二人が喜んでいる。

 「なぜか懐かしいひびきだわ」池村先生の奥さんが言う。

 「ラーメン屋のチャルメラの音を想い出すからじゃないですかね」木下が言うと、大村が笑い出した。

 「チャルメラ?」池村夫人はキョトンとしている。

 「この楽器が発祥の地からヨーロッパに渡ってオーボエ、東に伝わってシャルマイ、日本に来てチャルメラ。チャルメラもオーボエと同属の楽器です」大村がまだ笑いながら言って、例のあのメロディを吹いた。皆それで納得したようだ。

 「それから、これがオーボエダカッチャ、通称イングリッシュホルンです」

 大村は、次に一番大きなケースを開けて、イングリッシュホルンを取り出した。

 「通称って…」木下が笑う。

 それを無視して、大村が「新世界から」の「家路」のメロディを吹く。

 「あ、このメロディ知ってる」子供二人が声を上げた。「この曲、この楽器で吹くんだ。わあ、すてき」

 「そしてこれがオーボエダモーレ」

 大村が楽器を出すと、池村先生一家や、高山親子だけで無く、木下や三宅まで興味津々でのぞき込む。

 「オーボエダカッチャは狩のオーボエという意味ですけれど、オーボエダモーレは愛のオーボエという意味なんです。この名前だけで欲しくなっちゃって、手に入れました。クラシック以前の古いバロック時代の曲でしか使わないので、ピリオド楽器といって、その時代の楽器を複製したものを買いました。指使いが普通のオーボエより難しいんですけれどね」

 「これだと何を吹く?」木下が訊く。

 「まあ、まだ買ったばかりで慣れていないので、またこの次と言う事にさせてくれ」

 「え、そんなの有りか?」木下が追求する。「バッハのオーケストラ曲の中の何かのフレーズでも良いじゃないか」

 「それより、お子様二人のために何か日本の童謡でも吹いてみたら?」三宅がアドバイスする。

 「それだと別にオーボエダモーレでなくても良いと思うんだけれど」ぶつくさ言いながら、「おぼろ月夜」を吹き始めた。

 「ちょっと時期的に早いけれどな」木下がからかうと、大村はさっと短い間奏を入れて「冬の夜」に移行し、それが変奏曲風の「故郷」に変わって、静かに消えて行くように終わった。

 みな、しばらくその静寂を壊さないように黙ってしまい、しばらくしてから子どもたち二人が拍手したので、呪縛が解けたように、皆も拍手した。

 「いやあ、ほんとうにすばらしい。ぜひ音楽は続けてくださいよ。こんな素敵なオーボエが聴けなくなるなんて大損失だし」

 池村先生が、つくづくという感じで言った言葉に皆うなずいた。


第三章


 「良く決断してくれた」啓吾の叔父、大村薫がにこにこ顔で啓吾に話しかけた。ここは叔父の家の応接間である。横には同じようににこにこしている従兄弟の春彦もいる。

 「いやあ、啓吾兄さんが決断してくれて、僕の肩の荷がおりて、ホッとした」

 二人が小さい頃から割りに良く行き来していたので、春彦は従兄弟の啓吾をずっと兄さんと呼び、小さい頃は本当の兄弟だと思い込む友達も多かったぐらい一緒に過ごした。その頃から、啓吾は素直で優しい従兄弟にまるで本当の兄のように接してきた。その二人の間に少し溝ができはじめたのは、啓吾が音楽系の高校に行くことを決めてからだ。

 「いや、ホッとしたと言って、別に春彦の立場は変わらないだろうが」

 「いや、変わるよ。これで、父の会社の社長を嗣ぐという重荷を啓吾兄さんに負ってもらえるんだから」

 「ちょっと待て。わたしが叔父さんの会社で雇ってもらえるという話が、なんでわたしが社長になる話になるんだ。まあ、かわいい春彦のことだから、できる限り支えて行きたいとは思っているが、叔父さんの会社なんだから、社長を嗣ぐのは当然お前だろう?」

 「いや、それがそうじゃないんだな。それが疑問なら父に訊いてみたら?」

 啓吾が怪訝そうに叔父の顔を見る。よほどぽかんとした顔をしていたのだろう。叔父が少し笑いながら言った。

 「兄から何も聞いていないのか?」

 「何について?」

 「なぜ弟のわたしが会社を継いで、兄がフルーティストになったかということさ」

 「それは、父が経営者なんて面倒くさいことはいやだったし、弟の方が才能があるからわがままを言わしてもらったと聞いています。幸い音楽でそれなりに名をあげたので、そうは思ってもらえないことも多いけれど、音楽で生きたかったので会社を弟に譲ったのではなくて、弟に会社を譲る方が先にあって、それでどうやって生きていこうかという時に幸いフルートという道があったのだということですが」

 「まあ、会社をわたしに譲る方が先にあってと言うのはその通りだ」叔父は昔を思いだしているのだろう遠いものを見るような目で、テーブルを見た。「しかし、わたしの方が才能があるからというのは全くの嘘だ。今からもう三〇年以上も前、わたしも兄もお前たちより若かった頃、ここで二人で話をした。このテーブルとソファ、ついでに今出ている紅茶のカップも同じだったな」

 「嘘というのは?」啓吾と春彦が同時に訊ねた。「その時どういう話をしたんですか?」

 「嘘という意味は、兄の方が経営の才能があって、わたしは皆に社長と言われながら、裏で勲兄さんに助言をしてもらって何とかやってきたということだな」

 「それなら、なぜ父はそこまでして叔父さんに社長を嗣がしたんですか?」


 「そうですか。父はそういう事情で叔父さんに会社を譲ったのですか」啓吾がボソッとつぶやいた。

 「その話は僕も初めて聞きますね」春彦も呆然としている。

 「まあ、いつかは言わなければならないと思っていた。しかし、まだ多感な中高生時代に聞かせていい話では無いと思うし、まあ啓吾君が就職を考え出す頃ぐらいが適当かなと思っていたら、経済学部や商学部ではなく音楽学部へ進学してしまったので、言うタイミングを失してしまった。まあせいぜい、会社勤めをしたくなったら他の企業ではなく、うちに声をかけなさいと言うのが精一杯だったし」

 「でも、父もなかなか良い所がありますね。ただの偏屈の頑固親父だと思っていたけれど」

 「まあ、わたしに会社を譲ったことだって偏屈で頑固だったことに違いはないが、よく言えば、人には優しいけれど自分の信念はまげない男だ。プライドが高すぎて、わたしがなんとか恩返しをしたいと思っても、絶対に受け付けてくれない頑固者ではあるがね」

 「恩返しを受け取らないんですか? 別にプライドに関わるとも思えませんけれど」啓吾があきれたように訊く。

 「当たり前のことをしただけで、何で恩返しという話になるんだという所が、兄の兄たるゆえんなんだ」

 「ああそうか。それならよく分かります。一度そうなったら、あの父は扱いにくいですからね、本当に」

 啓吾のため息混じりの言葉に、叔父の薫も従兄弟の春彦も笑い出した。

 「しかし、叔父さんが父の異母兄弟だったとは、びっくりしました」

 しばらくしてから、啓吾が話を戻した。

 「兄が本妻の子で、わたしはいわゆる妾の子なんだ。今ではそれほどでもないんだろうけれど、昔は差別がひどかったからねえ。でも、そんなときに必ず守ってくれたのが勲兄だったんだ」

 「そして社長の座を譲ることで、叔父さんへの差別をなくそうとしたと...」

 「そういうことだ。自分がいなくなれば、血のつながったものに会社を嗣がせたいなら社長の座を弟に譲らざるを得なくなる。そうすれば、もう妾の子とからかう事はできないだろうというのが兄の考えだったんだ」


 「しかし、父にこの話しをどうやって持って行くか、ちょっと悩みますね。そんな事情が裏にあれば」

 啓吾の言葉に、叔父もそこに困っているんだという顔をした。

 「まあ、黙っているというわけには行かない。いつかは兄に話をせざるを得ないだろうし、それをするのはわたしの役目だろう。しかし、どんな言い合いになるか見当が付くだけに、それをどうやって納得させるか、今から頭が痛いよ」

 「でも、それはわたしに後を嗣がせようとすると難しいという話でしょう。春彦に嗣いでもらえば何も問題ないはずですが。それとも就職することも認めないとか?」

 「兄貴のことだ、就職という話を持って行っただけで、こちらの意図はお見通しで待ったをかけてくるのは、まあ間違いない」

 「だけど、その社長を嗣ぐという話が無ければ、何の問題も無いでしょう?」啓吾が不思議そうに訊く。「だって、『ただし社長は、わたしの息子、春彦が嗣ぐからな』で良いじゃないですか」

 「そうはいかないでしょう」春彦が言う。「そういう事情があると知ったら、そりゃあ啓吾兄さんに嗣いでもらうのが筋だということになるはずですけれど?」

 「春彦もそう思うだろう?」叔父がその通りという感じで言う。「それでなければ、今度はわたしの気持ちが収まらない。本来ならば、兄が嗣いだはずで、そうなっていたとすれば、その後を嗣ぐのは啓吾君、君だということになる。わたしが嗣いだのが、そもそも不自然なんだよ」

 「でも、もう会社の経営を引き継いでから何年たっています?」啓吾が言う。「そんなもの、もう時効ですよ」

 「実は、この問題について、これまで何度も兄と話をしているんだ」

 叔父の言葉に、啓吾も春彦もびっくりしている。

 「そうだったんですか」啓吾が訊く。「それで親父はなんと言っているんですか?」

 「お前は水戸黄門かと笑われたよ」

 「は?」二人とも何のことか分からずに呆然としている。

 「あれ、知らないのか?」叔父が笑う。「まあ時代が違うから、分からなくてもしかたないか。水戸黄門という人は儒教で頭が凝り固まった人でね。事情があって本来なら兄が嗣ぐべき水戸家を嗣いだんだ。それが人の道に反するとの思いで、自分の息子を高松藩の兄に預け、兄の子を養子にして水戸家を嗣がせた」

 「それなら、親父の言うとおりじゃないですか」啓吾が何か腑に落ちない感じを顔に出して訊いた。「今の言い方だと、水戸黄門のやり方にはあまり賛同していないような感じなんですが。叔父さんがやろうとしていることは、まさに水戸黄門と同じですよね」

 「まあ、表面上そうなるのがいやな所なんだが、わたしの心の中では大違いなんだ。水戸黄門は、あくまで筋論として儒教の教えに従ってやっている。わたしは兄との関係、春彦や啓吾君の将来を考えながら、自分の気持ちに素直に従って言っているつもりだ」

 「しかし、社長を嗣ぐって、まあ、大村家が株の大半を握っていますから、それはもちろん叔父さんの意思を無視して決めることはできませんが、しかし、もう会社の規模が個人事業と言うには大きすぎる規模になっているでしょう? もう、大村家が口を出すのではなく、社員の皆さんの総意を大切に、自然と衆望の集まる人に譲れば良いんじゃないですか?」

 「それは分かっている。春彦も啓吾君もどら息子だったら最初からこんな話はしない。そんなどら息子を無理矢理社長にしたって、明智光秀が出てくるだけだ。しかし、二人とも、それなりに立派に育ってくれた。これは親のひいき目じゃない。社員の皆が納得してくれるならば、どちらかに後を嗣がせたいと思っても無理はないだろう」

 「今度は本能寺ですか」啓吾が笑う。「時代が少しさかのぼりましたね」

 「まあ、二人の内のどちらかが社長を引き継ぐことになったとして、わたしが会長を退く時には、今、常務をやってもらっている男に、『もし社長がそれなりに皆の支持を得られるだけの器量があれば支えてやって欲しい。もし君が彼らに能力が無いと判断すれば、君が代わりをやれ。別にわたしに遠慮することはない。この会社は公器であって、大村家のものではないと思っているから』とは言っておくつもりだ」

 「今度は劉備玄徳ですか」春彦があきれたように言う。「ずいぶん時代をさかのぼりましたね」

 「ついでに場所もかなり遠くなりましたしね」啓吾も笑いながら言う。「三国志の時代って何年頃だっけ?」

 「劉備玄徳の崩御は西暦で言うと二二三年」春彦が答える。「高校の日本史の先生が、東洋史もかじっていて三国志が好きだったらしく、なぜか日本史の試験にこれが出たので、あきれて憶えているんだ」

 「お前たちが三国志を知っているとは思わなかったな」叔父が笑う。

 「今、ゲームや漫画なんかで、はやっているんですよ」春彦が、父親の認識不足を指摘した。


 「それで、なぜわたしなんですか?」

 啓吾の質問に、叔父はちょっと答えに迷ったように一瞬口ごもったが、覚悟を決めたように話し出した。

 「わたしは二人を小さい時から見ていた。二人とも、それなりに社長が勤まるだろう。しかし、社長の器としては、はっきり言うが、啓吾君の方が上だ。わたしより兄の方が上なのと同じように」

 「そんな。やる前からそんな評価をされたら春彦がかわいそうですよ」

 啓吾の言葉に春彦が口を挟む。

 「わたしは父の意見に賛成だけれどな。わが親ながら、公正によく見ているなと感心する」

 「こんな時に謙遜なんかするなよ。春彦が社長をやれ。おれはどこまでもお前を支えるから。諸葛孔明ほどの才はないけれどな」

 しかし、その啓吾の提案に叔父は首を横に振った。

 「もちろん、二人の仲を知っているから、春彦が社長をやるならば、啓吾君が裏表無く支えてくれて、それなりにうまくいくだろうとは思う。しかし、それはやっぱり不自然だ。春彦は長をやるより参謀をやる方が向いている。ナンバー二としてトップを支えるという立場に立てば、多分それなりの能力を発揮するだろう。しかし、長になるにはそれだけでは足りない。その足りないものを啓吾君は持っている」

 「それは何ですか?」啓吾が訊く。

 「優しさと厳しさのバランスかな?」叔父は考え考え言う。「春彦は優しすぎる。そのために、時として情に流されて、切るべきものを切れないことがある。それでは社長は勤まらない。必要な時には毅然とした態度で対応する事もしなければならないけれど、啓吾君はそれができる」

 「あ、それ、よく分かる」春彦が納得という感じで言う。「そう、つらい決断をしなければならない時に、兄さんならきっちりとやってくれるという信頼感はある。僕には無理だな」




第四章


 「なあ、兄さん。僕も、その『高山さん親子助け隊』か『高山さん親子を救う会』かそんな感じのそのグループに入れてよ」

 話が終わって、叔父が仕事で出て行った後、春彦と啓吾が話をしている。

 「お前、会社員をしていて、どうしてその時間を作るんだ?」

 「いや、土日だってあるし、夜だってそんなに飲み歩いたりしていないから。とりあえず、兄さんに就職のきっかけを作ってくれたことにお礼を言いたいし。第一、三宅さんという人はあまり知らないけれど、木下さんならよく知っているし」

 「え、なぜ?」

 「そりゃあうちの会社が木下さんが常任をやっているオケに賛助会員として援助しているからさ。会社だけじゃない、親父やわたしも個人会員なんだ。なにしろ兄さんの一番の親友が常任をやっているんだから、援助しないわけにはいかないだろう。だから、オケのパーティには時々出席しているんだ」

 「木下からはそんなことは聞いていないぞ?」

 「そりゃあ、『大村はわたしの従兄弟です』なんて言ったことないもの」

 「なんとまあ、そんなことだったのか。知らなかった。ありがたいことですな」

 「感謝して欲しいですね」

 「ああ、するする」

 二人はここまで言って、笑い出した。


 「ところで、なぜ『高山さん親子助け隊』に入隊希望なんだ」

 「それはさ、びっくりしたからなんだ」

 「何に?」

 「だって、経済困窮のシングルマザーが住んでいるようなアパートだろう? 安いぼろアパートに決まっているよね。兄さんがなぜそんな所に住んでいるのかと思うと、一度きっちり状況を把握しておかないとと思って」

 「なんともはや、お節介な」

 「だって、勲叔父さんが海外演奏旅行で忙しくて、せっかく親から相続した豪邸が宝の持ち腐れどころか、邪魔にしかならないというんで、親父に売っただろう?」

 「ああ、やっぱりそれなりに想い出のある家だから、大村家で持っていて欲しいという気はあったみたいだ」

 「それで、その時、兄さんはもう大学生だったし、一人で自活という話になったのは知っている。でも、まさか安いぼろアパートとは思わないじゃないか」

 「おいおい、あまりぼろアパートと言ってくれるな。狭いながらも楽しいわが家なんだから」

 「ぼろアパートでもわが家が一番なんて埴生の宿か? だいたい親からそれなりの仕送りを送ってもらっているんだろう?」

 「ああ、そこそこの会社の課長級ぐらいの仕送りはしてもらっている。それに引越の時に一時金としてかなりの額をもらったしな」

 「普通はその給与で妻子を養っているんだ。独り身なら余裕で良い暮らしができるじゃないか。タワーマンションとは言わないまでも、そこそこのマンションでも十分家賃を払えるだろうに」

 「まあな」啓吾が少し真面目な顔になって話し始めた。「会社の経営は譲ったと言っても、遺産相続で親父は株式その他、結構な財産をもらった。まあ、演奏家としての収入で生活しているから、それに手はつけていないけれどな。わたしは、ただそれに乗っかっていれば、経済的に不自由のない生活ができる。だけど、それに疑問を感じたんだ。この世に生きて、自分が貢献したこと以上に世から受けることが正しいことかどうか。世から受けたもの以上に世に返す義務があるんじゃないかという思いが頭から去らない」

 「それは分かるな」春彦がうなずく。「まあ、もし輪廻というものがあるとすれば、次の生で、今恵まれたその分、不幸な人生を送ることになるな、絶対」

 「まあ、そもそも人間に生まれさせてくれるかどうかも分からんしな。とはいえ、もちろん輪廻を信じているわけじゃない。ただ、与えられた者、恵まれた者は、その分、社会に貢献する義務があるんじゃないかとは思う」

 「ノーブレス・オブリージョか?」

 「まあな」春彦が彼の考えを馬鹿にせず、真剣の話を聞いてくれそうなので啓吾が続ける。「それで仕送りに頼らず、自分の稼ぎで住めるアパートを捜した」

 「それが今のアパートか」

 「まあ、オケに所属していないオーボエ屋の稼ぎなんて、トラの出演料ぐらいだから」

 「トラ?」春彦がえっと言う顔で訊く。

 「ああ、トラってエキストラのこと」啓吾が、そう言えば自分たちにとって当たり前の言葉が、世間一般では当たり前じゃないんだと気づいて言う。「お座敷とも言うな」

 「それで、自分の稼ぎで生活しているのか。すごいな」

 「すごいものか。仕送りは全部貯金して手をつけないつもりが、わたしの稼ぎではまず授業料が払えない。この前はたまたま楽器屋で見つけたオーボエダモーレがどうしても欲しくて貯金に手をつけた。自分でも情けないよ」

 「そう言えば、木下さんが言っていたな。『オーボエダモーレの代金であの親子が半年は暮らせるだろうと思うと、あれを買ったのが天をも怖れぬ所行のように思えてきた』と悩んでいたって」

 「天をも怖れぬ所行だろう?」

 「まあそんなふうに悩んだら食事もまともにできなくなるから、ほどほどに」春彦が言う。「しかし、わたしも兄さんと同じような立場だし、兄さんが反省した状況というのを、わたしも見てみたい、というより見る必要があると思う。ということで、入れてくれるよね。『高山さん親子助け隊』に」


第五章


 「しかし兄さんは偉いよな」

 啓吾のアパートのダイニングキッチンと言うには狭すぎる部屋で、ちゃぶ台を前にして向かい合っている啓吾が、やれやれという感じでため息をついた。高山さん親子と四人で食事をし、少しのんびり会話を楽しんでから、二人が隣の自分の部屋に帰った後、春彦が啓吾にお茶を入れ直して、啓吾の向かいに座って、つくづくという感じで言う。

 「おまえ、今日それを何回言った? いい加減に止めてくれよ。まして高山さん親子の前で言うのは、あの二人に恩を着せる形になるし」

 「いや、二人がいつもありがとうございますと言うからだろう。自分のことを言われているのなら「いや別に大変なことをしているわけではありませんから」とか何とか言い様はあるだろうけれど、兄貴に礼を言っているんだから、こちらも「兄貴は偉いよな」と返すしかないだろう」

 「何かあの親子は気を使いすぎるよな。もっと気楽に考えてもらって良いのに」

 「食事だって、そんなにごちそうを出しているわけじゃないしな」

 「そうなんだよ。三宅さんの食事の時は本当に美味しいし、お礼を言われるのは分かるけれど、私たちの担当の時にはな」

 「いや、兄さんの料理は結構うまいよ」春彦が笑いながら言う。「食材にもかなり金をかけているしね」

 「まあな。自分だけで食べる時にはもっと安い食材で済ましていたけれど。あの親子には良い物を食べて欲しいと言う気になるし、がんばっているよ」

 「そこなんだ。兄さんがここに住んで自分の食事をあの程度の予算で作っているってすごいことだと思う。今私たちが住んでいるあの豪邸に住んでいたんだろう。食事だって住み込みのシェフが作っていたはずだ。そういう生活に慣れた人は、こんな住居に食事なんて普通は耐えられないだろう」

 「ついでに言うと着るものもだいぶ安物になったな」啓吾が笑う。「さすがにステージ衣装だけは金をかけているけれど」

 「衣食住か。兄さんは金が有れば有るように、無ければ無いように生きていける。それって結構すごいことじゃないか」

 「そうか? 春彦だって、今は金があるからそういう生活をしているけれど、無ければ無いで、結構やり過ごしそうに思えるが?」

 「無ければ無いと言うけれど、そんな状況になったことが無いから、よく分からん」

 「わたしに言わせれば、このアパートの方が住みやすいぞ。狭いから掃除の手間はかからないし、畳の部屋はどこででも寝っ転がれるし。冬にこたつを出したらいこごちが良くて動く気にならなくなる。前の家ではこたつを置ける場所なんて無かったから、本当にこちらの方が住み心地が良い。それに食べ物にしても自分で作っていると、あっさりしたものを食べたい時に便利だ。シェフはそんなものメンツに関わるといって作ってくれないからな」

 「あ、それ分かるな」春彦が笑って言う。「自分が食べたいものが食べられるというのは素敵だと思う。まあ、自分で作るという面倒があるけれどな」

 「お前、自分で作るといって、皿洗いのことを忘れているだろう? 作る時はまだ食べる楽しみがあるけれど、皿洗いは結構気分的に面倒なんだ」

 「そうだな。皿洗いはやったことがないな。させてもらえないし」春彦が言う。「だから兄さんは偉いって言っているのに」

 「最近、その皿洗いを高山さんにやってもらっていて、ずいぶん助かっているんだ」

 「でも、毎回じゃないよね」

 「まあね。食事のお礼に皿洗いをという感じになって、絶対に皿洗いをしなければならないという状況にならない程度に自分でやりますからと断っているんだ」

 「でも、親子共に義理堅いよね」

 「あまり恩に着せたくないんだけれど。働いているのにまた無理をされても困るし」

 「そうなんだ」春彦が言う。「それで実は高山さんの転職について裏で動いているんだけれど」


 「要するに、今高山さんが働いている会社が、かなりブラックなんだ」春彦が言う。「いろいろ事情を訊いたけれど、労基局に訴えたら確実に指導が入るような状況で、残業は多いわ、残業手当はないわ、給与は安いわで、そりゃあまあ過労で倒れるのも無理はない。それに由紀ちゃんの世話も大変だし」

 「まあ、事情は分かる。ひどい企業もあるけれど、もともとホワイトで待遇の良い職場なんて、もっと条件の良い人の物で、シングルマザーが働こうとしても、資格か特技でもなければ、まあ難しいしな」

 「そうなんだ。労基局に訴えて待遇が良くなるのなら良いけれど、たいていの企業はそれではやっていけない。それで企業が倒産すれば、自分の働き口がなくなるだけだし」春彦がここで口調を変えて言う。「そこで高山さんに良い就職口を探そうという事になって、木下さんと競争になっているんです」

 「木下と?」

 「そう。木下さんの親は、有名企業の社長さんですからね。わが親父が社長をしている会社より格の高い会社の」春彦が笑いながら言う。「あまり親にお願いをしてきたことのない息子が頭を下げて頼んできたという事で、お父上が舞い上がってしまって大変な事になっているらしいですよ」

 「じゃあ、すぐに見つけてくるだろう?」

 「それなのに、わたしが、しかも親の力を使わずにがんばって、何とかなりそうなんです」

 「へえ、そりゃあすごい」

 「いや、持つべき者は良き友人ですね。会社の同僚が、ちょうど今、ある部署で事務員を一人雇おうという事になっているという話を聞き込んで来て、教えてくれたんです。その採用の責任者が非常にいい人で、事情を話すと公募する前に面接の機会を設けてくれたんです。まあ「コネ入社をさせるつもりはないから面接の結果次第で」とは言われているんですが、まあ公募前に面接をしてもらえるだけで非常な好意ですし、「あれは採用するつもりだよ」と友人は言ってくれているんです。「なにしろ事情を聞いて非常に同情していたし」と言うんですが」

 「それは良かった」啓吾が言う。「あの人は資格は持っていないけれど、真面目だし、話を聞く限り事務能力は高いと思う」

 「何かその採用の責任者が、そもそもシングルマザーの母親に育てられた過去を持っていて、そういう人に同情的らしいんです。その人の評判も聞いてみたんですが、たとえば突発事故でだれか課員が急に帰りたいというような時に、文句一つ言わずに他の課員にうまく仕事を割り振って、帰れるようにしてくれる人だそうで、それが分かっているから他の課員も積極的に協力してくれるそうです。お礼を言うと「困った時はお互い様よ。明日は我が身と言う言葉があるでしょう。助け合わなくっちゃ」という風で、非常にムードが良い部署だそうです。」

 「いいな。会社って上司がどういう人かで、全く変わってくるからな」


第六章


 「ねえ、木下さんって、あのままで良いと大村さんは思っている?」

 三宅が夕食を担当してくれる日、高山さん親子が自分の部屋に帰って行った後で、お茶を飲みながら話をしていて、突然、三宅が話を振ってきた。

 「あのままって?」

 「ずっと一人で生活しているでしょう。そりゃあ、亡くなった恋人が忘れられなくて、もう恋人を作る気が無いのは分かるけどさ。でも、いつまでもそれを引きずってあのままというのは、ちょっと人生悲しくない?」

 「まあ、あのままでいて欲しいとは思わない。第一、亡くなった佐伯芙美さんが、それを望んでいるとも思えない。もう三年もたつし、新しい恋人を見つけても良い頃だと思うんだけれどな。でも彼女が忘れられないみたいで」

 「忘れる必要は無いわよ。むしろ忘れてはいけないと思うし。でも、傷の上にかさぶたが張ってくるように、心の傷にもかさぶたが張ってきて良いんじゃないかな。傷跡は残っているけれど、もうあまり痛まないという感じで」

 「それは思うんだよな」

 「何となく気になって、最近よく合うようになってからは、わりに配慮しているというか、元気づけるような話をするとかしているんだけれど、彼にはお節介なのかな?」

 「いや、そうじゃないと思うよ。木下と話をしていると、時々三宅さんの話題が出るけれど、三宅さんのやってくれる事に感謝しているように思うけれど。そう言えばこの前、一緒に遊園地に遊びに行ったんだって?」

 「いや、高山さん親子と一緒だったし、四人で遊び回ったんだけれど、まあ、木下さんもちょっと音楽以外の事で身体を使わないと、と思って」

 「久しぶりの遊園地で楽しかったみたいだよ。ちょっと変な言い方だけれど、いつもは使わない筋肉を使って、ちょっと痛みはあるけれど、心地よい痛みのように感じると言っていたな」

 「ちょっと筋肉がほぐれたかな? 心の方もほぐれてくれたら良いんだけれど」


 「恋人でなければ、あとは一律に他人と言うのもおかしいだろう」大村がちょっと考え込むようにして言った。「男女の間に友情は成り立つかなんて言う議論もあるけれど、そんなもの成り立つに決まっていると思うんだよ。だって、恋人ではないけれど、あるいは夫婦ではないけれど、仲の良い人って、誰だって絶対にいると思うんだ。だって、世の中の半分は女性だよ。わたしが男だからといって、その半数の人と仲良くしてはいけませんなんて言っていたら、世の中は成り立っていかないだろう」

 「そうよね」三宅がちょっと笑いながら言う。「今、わたしは大村さんと話をしている。恋人ではないけれど、全くの他人でもない。親しさの程度に違いはあっても、わたしにとって、友人と言っていい男の人たちは絶対にいる。同じような親しさでありながら、女の子なら友達で、男の人なら友達ではないなんておかしいわよね」

 「そう言えば、女と女の友情は成り立つかなんていう議論もあるけれど、あれも女性に対して失礼な話だ」

 「友情は人と人の関係で、男女という性別の違いは関係ない。じゃあ、男女間で、友人と恋人との間はどこで線が引かれるのかしら?」

 「いつも一緒にいたいと思うかどうかじゃないかな」

 「あ、それ良い線かも知れない」三宅がうなずく。「結婚と激しい恋とが結びつく必要は必ずしも無いんじゃないかな。ただ、あの人と一緒にいると何となく気持ちが落ち着くという人間関係ってあるわよね。そういう夫婦があっても良いんじゃないかしら」

 「それはそうだと思うよ」大村が言う。「木下だって、そういう人と結婚するのが良いんじゃないかな。ただ、そういう人間関係だとお友達から夫婦に切り替わるタイミングをつかみにくいよね」

 「それはそうね」三宅が何か決断をしたような言い方で言う。「でもそんな二人なら、一生お友達でもかまわないんじゃない」

 「でも、それじゃあ、不安定で心配にならないか? いつ相手に別の恋人ができるか分からないという不安があるし」

 「そんなもの、結婚していても一緒よ。相手に本当に好きな相手が出て来たら、結婚しているという社会的な約束なんて何の役にも立たないでしょう。まあ、大村さんや木下さんなら、そういうときにでも、両方の女性に対して誠実に対応すると思うけれど」

 「そういうときに両方の女性に対して誠実である事ができるのか?」

 「そりゃあ、大村さんなら「別の女性を好きになってしまったから別れて欲しい」と言う時でも、奥さんに対して精一杯の配慮はするでしょう?」

 「わたしに振るなよ。それに「わたしなら、たとえ好きになった人ができても、もう結婚していたら、その恋はあきらめるでしょう」と言ってくれよ」

 「でも、本当に好きになったのなら、あきらめて欲しくないし、第一、結婚しているから、もう愛はないけれど離婚しないなんて言われるより、離婚してくれと言われる方が何となくスッキリする」

 「三宅さんは強いな」大村が感心したように言う。


 「三宅さんと一緒にいると何となくホッとしている自分がいる事は確かだ」木下が言う。「芙美ちゃんとの事もすべて分かった上で受け入れてもらっているような暖かさがある」

 「それでどうなんだ?」大村が半分からかうような感じで言う。「彼女と一緒にいる事がそれほど自然な感じなら、結婚を考えても良いんじゃないか? 少なくとも彼女はそれを望んでいると思うよ」

 「それは何となく分かる。ただ、結婚に踏み切るには、ちょっとまだ不安があって」

 「そりゃあ、今のままの関係がいつまでも続くのなら先延ばしでも良いけれど、彼女の事も考えなければ。彼女がやっぱり若い内に結婚したいからと言って、お見合いでもしたら、お前はそれでいいのか。もう今のようなつきあいはできないぞ」

 「そうだな」木下が小さな声でつぶやく。「いつかはきっちりと決断しなければならないだろうな」

 「まあ、急ぐ事は無いとは思うがな。しかし彼女のためを思うなら、あまり先延ばしをしすぎない方が良い。芙美ちゃんとの関係を全部知った上で、優しくそれを受け止めてくれる女性なんて、三宅さんぐらいしかいないぞ。彼女と一緒にいるとホッとするという関係って、夫婦として理想的じゃないのか。少なくとも激しい恋が燃え上がらなければ結婚できないということもないだろうし」

 「まあ、彼女の包容力というか暖かさというか、本当にすばらしいよ。高山さん親子もそれでどれだけ助かっているか。とくに由紀ちゃんは三宅さんがいたら、そばを離れないものな」

 「そうだなあ。あの包容力が、伴奏ピアニストとしての三宅さんのすばらしさの源泉だと思う。人により添って暖かく包んでくれる人って貴重だよ」


 「大村は、わたしと三宅さんをくっつけようと画策しているけれど、大村自身はどうなんだ? 高山さんなんて、大村にふさわしいすばらしい人だと思うが? あんなに性格の良い女性がなぜ苦労しなければならないのかといつも思っているんだけれど」

 「いや、それが」大村が苦笑いした。「実は、高山さんはどうも春彦に惹かれているみたいなんだ」

 「え、そうなのか?」木下がびっくりしたように言う。「いつの間に?」

 「さあ?」

 「それは彼女の就職を世話した辺りからか?」

 「そうかも知れんな」大村が笑いながら言う。「春彦が木下を出し抜けた事に、結構気分の良い思いをしたらしいが、その時に、彼女が春彦を頼りになる男性だと認識したんじゃないか」

 「それは大村もとんびに油揚げをさらわれたような気分だろう」

 「木下もせっかくいい就職先を見つけてきたのにな」

 「ああ、春彦君に出し抜かれるとは思っていなかった」

 「良いんじゃないか」大村が言う。「春彦はわたしより優しいし」

 「いや大村だって、本当は優しいというのを知っているからな。でも、まあ相手がどちらでも、高山さんが幸せになれる事はたしかだな」

 「ところがさ、実は由紀ちゃんが「大人になったら啓吾君と結婚する」ってお母さんに言っているらしいんだ」

 「へえ、そうなんだ。案外、実現したりして。」

 「もし春彦がお母さんと結婚して、わたしが由紀ちゃんと結婚したら、親族関係はどうなると思う?」

 「春彦君が、大村の従兄弟であり、義父か。それは面白いな」木下が大笑いした。

 「笑い事じゃないぞ」そう言いながら、大村も大笑いしている。「『屋根の上のバイオリン弾き』の主人公テビエの台詞であるだろう。「俺は長い事息子が欲しかった。でも自分より若い息子がよかったな」というやつ」

 「ああ、あったな」

 「まあ、自分より年下の義父なんて願い下げだな」

 「あ、でも」木下が思い出したように言う。「そう言えば、わたしがお世話になった大杉さんだけれど、あの人がそのパターンだ。と言っても、奥さんが自分より年上の人の義母になったという事だけれど」

 「え、どういう?」

 「あの人の奥さんには連れ子がいたんだ」

 「あ、奥さんは再婚なのか?」

 「そう。しかもそのお嬢さんがヘンリーという人と結婚したんだけれど、そのヘンリーさんが奥さんより年上なんだ」

 「すごい年齢差だな」

 「それほどでもないんだ。奥さんとその連れ子との間がそれほど離れていない。というのも、奥さんがそのお嬢さんを産んだわけではなく、奥さんの初婚の相手の連れ子なんだそうだ」

 「またえらく複雑な関係だな。」

 「まあな。」木下が懐かしそうにいう。「でも、みないい人たちで仲も良かったし。ニューヨーク時代、ヘンリーさんとその奥さん、つまり大杉さんのお嬢さんにはずいぶんお世話になった。ちなみに、二人の間の年齢差が、ちょうど芙美ちゃんとわたしの間の年齢差だったな。まあ偶然だけれど」


第七章


 「春彦君からプロポーズされたって?」

 木下がびっくりしたように言う。月曜日の午前中、たまたま木下が休みで大村のアパートを訪ねてきて、隣の部屋で由紀ちゃんを学校にやった後、のんびりとお茶を飲んでいる高山さんと大村の茶飲み話につきあう事になった。

 「そう。昨日」大村がのんびりという。「ちょっと前に、春彦から昨晩のディナーに誘われて、その時は気楽に約束したらしいけれど、行ってみたらかなり高級なレストランだったのでびっくりして、そこでプロポーズされて、更にびっくりということらしい」

 「えらくまた早かったな」木下が笑いながら言う。「もう少しゆっくりと恋人同士のつきあいを楽しむんだろうと思っていたら、もうプロポーズか」

 「そうなんだ。わたしも春彦にそんな面があると知ってびっくりしている。大切な事については、もっとゆっくり慎重に話を進めると思っていたら、この件に関してはかなり動きが速い。思い込んだら一途という情熱的な所もあるんだなと感心しているんだ」

 「それで高山さんは何と?」

 「それがあまりに突然の事で、」高山さんが顔を赤くして少しもじもじしながら、下を向いて話す。「びっくりしてしまって」

 「それで、返事を待ってもらっているんだって」

 大村の半ばからかうような合いの手に、高山さんはますます顔を赤くした。

 「だって、あまりに急でしょう。わたしは春彦さんに好意を持っていただいているなんて想像もしていませんでしたし」

 「あれ、気がついておられなかったのですか?」木下が笑いながら言う。「啓吾も春彦君も高山さんに思いを寄せているのは、横で見ていたらバレバレでしたよ」

 「え、そうなんですか?」

 「ええ。だから二人で恋のさや当てなんてことになったらどうしようかと思っていたのですよ。ただ、二人は仲が良いから、どちらかの話が進み出せば、もう一人は引くと思っていましたし、修羅場になる事はないとは信じていましたけれどね」

 「まあそうだ」大村が言う。「春彦と話がうまく進むんだったら、もちろん、わたしは引くよ」

 「まあ、そうなるだろうけれど、でもそれはまず高山さんの気持ちが先だ。高山さんはどうなんですか?」


 「そうですか」大村が笑いながら言う。「わたしが将来ある会社の社長になる予定だと言ったんですね。本当はまだ何も決まってもいないのに」

 「え、そうなんですか?」高山さんがびっくりしたように訊いた。「なにか、もう決まった事のように話されましたよ。それですから、啓吾さんとは身分違いも甚だしいですし、わたしのような者とつりあうわけがありませんから、結婚なんて考えられませんし」

 「春彦のやつ、結構策士だな」大村が言う。

 「本当だな。うまく話を持って行って、自分の方に引っ張り込もうという作戦か」

 「あのう」木下の言った事に引っかかりを感じて、高山さんが訊いた。「春彦さんが言った事に嘘があると?」

 「いや、彼の言った事に嘘はありません」木下が笑いながら言う。「ただ、言っていない事がありますね」

 「編集の詐術ってやつだな」大村も笑っている。「本当の事だけを言って嘘をつくというたちの悪い方法だ」

 「どう言う事でしょう?」高山さんがきょとんとしながら訊く。

 「言っている事は全部本当なんだけれど、隠している事実を付け加えると話の印象がまったく変わるということですね」

 「隠しているって?」

 「要するに、彼の言う会社が、実は彼の父親が社長をしている会社で、だから彼はその会社の社長の御曹司だという事ですよ」木下がまだ笑っている。「春彦君は、啓吾は高嶺の花だが、自分は高山さんと住んでいる世界がそんなに違わないという印象を与えようとしているみたいですね」

 「そんな」高山さんにも笑いが伝染したみたいで、少し顔を上げて笑いながら言う。「じゃあ、お二人のどちらも、わたしのような者とは住んでいる世界が違うひとなんですね。じつは、プロポーズされて本当にうれしかったんですが、返事を保留にしたのは、春彦さんの事についても素敵な人だという事以外には何も知らないし、わたしにはもったいないような人で、結婚するには、わたしなんかよりもっとふさわしい方がいるのではないかという思いがあったからなんです。それが当たってしまいましたね。悲しいですけれどやはりお断りしないと」

 「いやいや」啓吾があわてて話だす。「釣り合いなどという事を考えないでください。高山さんはもっと自分に自信を持って欲しいと思います。春彦は本当にあなたとなら素敵な家庭を築けるだろうと信じてプロポーズしたはずですよ」

 「でも、世間体という事もありますでしょう?」高山さんはまだ躊躇している。「ご両親や親族の方が納得されるとは思えませんし」

 「ああ、それは大丈夫です。春彦の父親、つまりわたしの叔父ですが、そんな事を気にするような人じゃありません。その人が本当に素敵な人かどうかと言う事にはシビアでしょうが、子持ちのシングルマザーだからだめとか、身分違いがどうのこうのとか言う人じゃあありませんから」

 「そうですよ」横から木下が口を挟む。「その意味では、春彦君が選んだ人に文句をつけるような人ではないから、絶対に大丈夫です」


 「なぜ、そんな方々がわたしを気にかけてくださるんでしょう?」

 「それはあなたが素敵な人だからですよ」誰にとも無く言った高山さんの言葉に木下が答える。「もっと自分に自信を持ってください。だから、啓吾でも、春彦君でも、好きな方の人を選んだら良いんです。釣り合わないんじゃないかなんて考えずにね」

 「まあ、わたしを選んでくれればうれしいですけれど」大村が言う。「でも、春彦に先を越されてしまいましたしね。彼はいい男ですよ。プロポーズを受け入れられたらいかがですか」

 「啓吾さんからも春彦さんからも好意を寄せていただいて、本当にありがとうございます。お二人とも立派な方ですから、どちらかを選びなさいと言われたら困ってしまいますし、わたしなんかで釣り合うとは思えませんけれど、もし許されれば春彦さんのプロポーズを受け入れさせていただきたいと思います」

 「それは、何が決め手になって?」木下が訊く。

 「春彦さんからプロポーズを受けた時、啓吾さんの事が頭に浮かんだんですが、啓吾さんと結婚生活を送ると、ずっとわたしが啓吾さんの足枷になってしまうような気がしたんです。啓吾さんは結婚してもわたしのいう事を聞いてくださると思います。でも、啓吾さんがそのわたしの願いを聞くことによって、啓吾さんがその志を果たす邪魔になってしまうような気がします」

 「春彦だとそこのところが違うんですね」啓吾が優しく訊ねる。

 「なぜか、春彦さんだとそれが赦されるような気がしたんです。志を果たすことよりも家族とゆったりと過ごす生活を大切にしてくれて、それを後悔しない優しい人だと思います。あ、啓吾さんは家族よりも志の方を大切にする人だと言っているんじゃないんですよ。でも、啓吾さんに志を忘れてまで家族に尽くして欲しいとは言えないと思うというだけなんです」

 「それは何となく分かるな」木下が相づちを打つ。「高山さんの二人への評価は正しいと思う。どちらも優しいんだけれど、春彦君の場合にはそのまま甘えられるのに、啓吾の場合だと何か申し訳ないと思ってしまうような感じがある。まあ、春彦君と幸せになってくれたら、大村も喜んでくれるだろう。自分の失恋についてはちょっとまあ横にどけておいて」

 「何はともあれ、春彦の結婚が決まって良かった」大村も明るく言う。「まあ、自分の失恋の事は我慢せざるを得まい。木下、失恋した大村啓吾を慰める会をやってくれるよな」

 「ああ、やってやる」木下が笑う。「どちらが良い? 春彦君がプロポーズしたような高級なレストランか、気さくな居酒屋か」

 「居酒屋の方が良いな」

 「じゃあ日程調整ができたら六人で予約しておく」

 「なぜ六人?」

 「わたし、啓吾、春彦君、高山さん親子、それに三宅さんの六人」

 「おいおい、カップル二組で独り者のわたしを囲んでいびるつもりか?」

 「え、カップル三組のつもりだけれど」

 「おい、由紀ちゃんを巻き込むな」

 高山さんが二人の会話にきょとんとしている。


第八章


 「二人の結婚に待ったがかかったんだって?」木下が訊く。

 「そうなんだ。でも、まあたいした理由じゃないし、ちょっとごたごたが片付くまで延期というだけで、婚約が白紙に戻ったわけではないから心配は要らない」

 由紀ちゃんの誕生日のお祝いに、皆が集まっている。高山さん親子、大村啓吾、春彦の二人、木下、三宅、それに池村さん一家三人というメンバーで、この人数ではアパートでは無理なので、近所のファミレスの個室で食事をしている。そこで高山さんと大村春彦が、皆から結婚式の予定について訊かれて、まだ少し目処が立たないという話になった。皆が心配そうに理由を訊くと、高山さんは何か申し訳ないという感じでうつむいたのだが、春彦が明るく答えたので、ホッとした空気が流れた。

 「でも、私の親戚のせいでご迷惑をかけて」高山さんは本当に申し訳ないという感じで言う。「やはり身分違いの結婚は難しいのではないかと」

 「何を言っているんですか」春彦が気楽な感じで言う。ややこしい話になったら小学三年生には聞かせたくないということで二人の方を見ると、疲れて眠ってしまっていたので安心して話を続けた。「こちら側にはややこしい事を言う人はいないからあまり気にしていなかったのですが、高山さんの親戚にややこしい人がいるというのは盲点でしたね」

 「ややこしい人って?」池村が訊ねる。

 「高山さんの亡くなったご主人の遠い親戚なんですがね」春彦が答える。「高山さんがご主人を亡くされた時に、私たちからの援助は期待してくれるなと言って放り出したくせに、高山さんが玉の輿に乗りそうだという話を聞いたらしくて」

 「それはえげつないね。うまい汁が吸えそうならどこまでも食らいついてくる輩か」

 「自分たちに援助するのが当たり前のような言い方をしてきましたからね。まあ、どこまで勝手な夫婦なんだという感じですよ」

 「夫婦?」

 「ええ、どちらか一方でも話が通じる人ならまだ良いんですが、夫婦が二人そろって、まあ話の通じないこと」


 「まあ、大丈夫ですよ。私の会社の顧問弁護士にすでに話はしていますし、法律的にも道義的にも、その夫婦に援助する理由は何もないんですから」春彦が言う。

 「それが、面白い事がありましてね」木下が、いかにも笑いが止まらないという感じで口を挟んだ。「実は、池村さんもよくご存じの太田垣さんという弁護士がいられるでしょう?」

 「ああ、いるけれど。太田垣がなぜここでからんでくるんだ?」

 「春彦君の所の顧問弁護士と、太田垣さんは仕事の関係でとても仲が良いそうなんですけれど、何かの機会に、この話しが出たそうなんです。そうしたら、太田垣さんがその訴訟に俺もかませろと熱心に言ってきたらしいんです」

 「へえ。なぜだろう?」

 「実は、その夫婦というのが、昔、太田垣さんとやり合った相手だそうで、それもあの大杉さんが理彩ちゃんというお嬢さんを養女にするときの示談にからんで、ずいぶん腹が立つことがあったらしくて」

 「ああ、あの理彩ちゃんの親戚か?」池村が思い出したという感じで話し出す。「私は間接的に大杉から聞いたんだけれど、理彩ちゃんの母方の親戚で、理彩ちゃんを引き取ったは良いけれど、母親の遺産を横領して贅沢な暮らしをしながら、理彩ちゃんを家政婦のようにこき使っていたらしい。残念ながら遺産の横領に関しては警察ではないので捜査ができず、証拠が不十分だったので、結局、かなりの譲歩をして示談を成立させた。『あんなひどい夫婦にいい目を見させるのは腹が立つが、全く親戚関係にない者が養女にするためには譲歩せざるを得なかった。今度、何かあったら絶対に思い知らせてやる』っていきまいていたなあ」

 「へえ、あの理彩ちゃんにそんなことがあったんですか?」木下が笑う。「いやしかし、世の中狭いですね」

 「本当だな。しかし、じゃあ太田垣も張り切っているだろうな。でも、前の時も結構その夫婦に痛い思いをさせているはずなんだけれどなあ」

 「痛い思いって?」高山さんが訊く。

 「太田垣がたまたまその男の勤めている会社の偉いサンと知り合いだったんだ。その時の交渉の詳細をその人に伝えたので、その男はかなり会社で居づらくなって、結局、最終的には退職したって聞いた」

 「それは溜飲の下がるような結果ですね」春彦が笑いながら言う。「でも、今回の事を聞くと、それを全然反省していないようですけれど」

 「ああ、無理無理。ああいう輩は絶対に反省なんかしない」

 「池村先生。いいんですか?」三宅が口を挟んでくる。「教育者としては、どんな人にでも改心の可能性があるという姿勢が必要なのでは」

 「まあ、小学校の先生ならね」池村は平然と答える。「高校生ともなるとそんなきれい事を言ってたら、返って生徒から馬鹿にされる。「三つ子の魂百まで」ってよく言ったものだと思うよ。自己中で三〇、四〇までやってきた人が改心するにはよほどの事がないと無理だ」

 「可能性を完全に否定するわけではないんですね」木下が確認する。

 「まあね。完全に否定してしまうと、教師なんてやっておれんし」


 「でも聞いた限り、その親戚の言い分には全く正当性がないわけですから、結婚の障害にはなりませんよね」春彦が確認するように言う。

 「まあね」池村が言う。「でも、そういう輩は斜め上のとんでもない事をやりかねないし、注意しておく必要はあるね。弁護士から接近禁止の交渉をしてもらったって、それを守るかどうかは分からない。結婚式に乱入して来る可能性だってあるし、注意しておくに超したことはない」

 「本当ですよね」春彦が言う。「でも、そういう夫婦ですから、何か後ろめたいことをやっている可能性もあると見て、今、興信所を使って探ってもらっています。実はそれで何とかなりそうなんです。少なくとも結婚式の前後には塀の向こう側に行っていてもらえるみたいなので安心しています」


第九章


 「由紀ちゃんが誘拐されたって?」木下が春彦に聞く。

 「いや、誘拐されかけたというだけで、実際には何もなかったんですから、あまり焦らなくても」

 アパートの啓吾の部屋で、春彦、啓吾、三宅の三人が集まっているところへ、木下が大きな音を立ててドアを開けて、駆け込んでくるや否や、ゼイゼイと息を弾ませながら問うてきた質問に、春彦が冷静に答える。

 「何だそうか。良かった」木下が玄関でへたり込んだ。「いや、わたしのところに来た時には誘拐されたという話になっていて、慌てて飛んできたんだ」

 「どこで情報が歪んだんでしょうね」三宅が笑いながら言う。「まあ伝言ゲームなんてそんなものだけれど」

 「木下が、「誘拐されかけた」というのを、「誘拐」まで聞いて早とちりしたんだろう。僕もやりかけた」啓吾が笑いながら言う。

 「しかし、いったい何があったんだ」

 「例の親戚の夫婦が小学校帰りの由紀ちゃんを狙って誘拐しようとしたんだ」春彦がちょっと真剣になって説明する。「実は、こんな事もあろうかと、密かにボディーガードをつけていた」

 「へえ、用意周到だったんだ」木下が感心したように言う。

 「そうともさ」春彦が得意げに言う。「実は、前に話が出た弁護士の太田垣さんの提案なんだ。あの夫婦なら絶対にやるって言って、自腹でボディーガードを雇う算段までしてくれた。まあそれは申し訳ないので、費用は大村家から出すようにはしたんだけれど」

 「そりゃあ、また何で」

 「前に話したろう。昔の養子縁組の問題で、裁判になるのを嫌って示談にしたので、かなり妥協せざるを得なかったって。それにずっと腹を立てていたらしい。あの夫婦が親戚の娘さんの遺産をかなり使い込んでいるのを、不問にせざるを得なかった。でも、あの夫婦が刑事事件を起こせば話は別だ。横領に関してはまだ時効にかかっていないし、誘拐未遂で逮捕されれば、遺産の話を蒸し返せる」

 「そりゃあ、執念深いね」

 「太田垣さんの友人に関わる話だからね。怨念があるらしい」春彦が笑いながら言う。「木下さんも、大杉さんは知っているでしょう」

 「ああ、お世話になったからね。その問題の理彩さんという娘さんもよく知っている。合唱団で指導していたときに、一見目立たないけれど、じつは中々良い働きをしてくれたメンバーでね。それに、あの事件の時に芙美ちゃんの支えになってくれた子なんだ」

 「そうなのか」啓吾が口を挟んでくる。「じゃあ、今度のことで木下の代わりに大村家で恩返しができたかな。まあ、誘拐未遂は刑事事件だし、警察がかんでくれば、今回はお金に絡んだ問題だから、あの夫婦の経済状況も調べることになる。遺産問題の時のお金の動きも明らかになるだろうね」

 「実は、その前に業務上横領の調査をしていたんだ」春彦が言う。「前の養子問題の時に、あの男の上司から圧力をかけてもらった話はしたと思うけれど、その時からその上司が気にして、彼の素行を調べたらしい。それで、どうも業務上横領をしているらしいという事がわかったんだけれど、あまり金額も大きくなかったので、彼が退職したこともあってそのままになっていたんだって。それを聞いた太田垣さんが今回その会社の税理士に発破をかけて、詳しく調査してもらった所、じつは思っていた以上に金額が大きかったらしい。これは不問に付すわけにはいかないということで、会社の方でも訴訟の準備を始めたところだったので、あの夫婦はどちらにしても逃げ切れないみたいなんだ」

 「たぶん執行猶予無しの実刑判決は間違いないと太田垣さんは喜んでいますよ」啓吾が笑いながら言う。「本当に塀の向こうに行きそうです。春彦は、その間に結婚式をやってしまおうと思っているようです。結婚式をつぶされる心配が無くなりましたからね」


 「本当にこんなに幸せになっていいんでしょうか」新婦幸子が言う。ウエディングドレスがよく似合っている。

 「これから結婚式を挙げる人が何を言っているんですか」新郎春彦が笑いながら言う。

 「でも、本当に信じられなくて」

 「夢かも知れないって?」

 「ええ、夢なら目が覚めないでって思います」

 「さあ、行きますよ」

 チャペルの扉が開けられた。ウエディングマーチが響く中、皆が二人を祝福して拍手をしてくれている。オルガンにオーケストラが付いている。第一バイオリンが二プルトで、他はそれにバランスをとった弦楽パートに、木管が一本ずつ、ホルン二本にトランペット一本という編成のスモールアンサンブルで、木下が指揮棒を振っている。オーボエはもちろん啓吾だけれど、フルートを啓吾の父が担当していると聞かされている。

 「他のメンバーがそれでびびっているんだ」リハーサルの時に木下から聞かされて、新郎も新婦もかなり緊張している。

 春彦は前日に二人でした話を思い出した。

 「新郎が前で待っている形にしたかったなあ。緊張で足がもつれるかも知れない。あんな世界的な演奏者がいるとあがってしまう」

 「でも、花嫁をエスコートする人がいないんですから」

 「いや、啓吾兄さんでいいじゃないですか。二人のキューピットでもあるわけだし」

 「啓吾さんは義理の息子になるかも知れない男に頼むなと言っておられましたよね」

 「あの冗談を盾にとられるとは思わなかったな」

 「それは、木下さんと春彦さんが悪いんですよ」

 「あ、そうだ、木下さんでもいいじゃないですか」

 「木下さんは指揮ですよ」

 「そんなもの、誰かに代わってもらえば」

 「でも、張り切っておられましたよ。編曲まで担当して」

 「そうなんだなあ。木下浩編曲なんだ。だから指揮は当然彼がやることになる」

 「それも、オーボエの代わりにオーボエ・ダモーレにして」高山さんが笑う。「いい加減にあきらめてください。わたしは二人で歩きたいと思っています。これからずっと由紀を含めて三人で歩いて行くんですから」

 「そうですね。ずっと一緒に歩いて行くんですから」

 その由紀ちゃんは三宅さんに付き添ってもらって、一番前に座っている。二人は並んで歩き出した。


(完)


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