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またね、と言えた日  作者: あさなぎ


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3/5

日常

 一学期の期末テストが近づくと、図書館は普段よりも静かで、人の気配が張り詰めていた。私は苦手な数学の問題集を前にして、すでに頭が白くなっていた。


「ここ、違うよ」

 隣から伸びてきた指が、私の答案を軽く叩いた。美咲とは少し前にノートを見せたことがきっかけで、たまに勉強をするようになっていた。今日はテスト前ということもあり、二人で図書室に来ていた。美咲は小声で式の流れを説明してくれる。その声は控えめで、でもどこか安心感があった。


「うーん……なるほど」

 納得したふりをしながら、数式なんて頭に入ってこなくて、彼女の横顔ばかりを追っていた。


 逆に、美咲は古典が苦手だった。助け舟を出す番が来ると、今度は私が得意げに教科書を開く。


「ここは、“けり”が過去の助動詞でね……」

「助動詞、ほんと嫌い」

そう言って眉をしかめる仕草が可笑しくて、笑いをこらえきれなかった。


彼女と机を並べるその時間が、問題の正解よりも、ずっと大事に思えた。


「白石さんって、どんな本読むの?」

 ふと美咲が問題集から顔を上げて聞いてきた。

「えっと……小説とか。最近は住野よるさんの本を読んでるかな」

「あ、私も好き!『君の膵臓をたべたい』泣いちゃった」

「分かる!最後のところ、すごくよかったよね」


 そんな何気ない会話が続いた。勉強そっちのけで、好きな映画の話、苦手な教科の話、趣味の話。


 美咲が笑うたび、私の胸は跳ねた。こんなに長く二人で話したのは初めてで、時間が過ぎるのを忘れてしまった。


 図書室の窓から見える空が、いつの間にか茜色に染まっていた。


「あ、もうこんな時間」

 美咲が時計を見て慌てたように立ち上がった。

「そうだね。片付けよう」


 二人で本を返却カウンターに持っていき、筆記用具をしまう。なんでもない作業なのに、一緒にやっているだけで胸が温かくなった。


 図書室を出ると、廊下にはもう誰もいなかった。夕日が校舎の窓を赤く染めて、普段見慣れた校内が特別な場所のように見えた。


「今日はありがとう。すごく助かった」

 美咲が振り返って微笑む。その横顔が夕日に照らされて、思わず息を飲んだ。

「こちらこそ。数学、教えてもらって」

「お互い様だね」


 校門まで並んで歩く。いつもなら気にならない距離が、今日はやけに近く感じられた。美咲の髪が風に揺れるのが見えて、香水ではない、彼女自身の匂いがふわりと香った。

 分かれ道の手前で、美咲が足を止めた。


「ねえ、葵」

 急に名前を呼ばれて、ドキリとした。

「高校卒業したら、どうするの?」


 唐突な問いかけだった。でも、今日みたいに長く話していると、そういう話題が出てくるのも自然だった。

「まだよく分からないけど……大学に行って、それから就職かな。美咲は?」

 美咲は少し空を見上げて、考え込むように答えた。

「うーん……どこか遠くに行きたいかも」

「遠く?」

「うん。まだ決まってないけど、誰も私のことを知らない、まっさらな場所で新しい人生を始めたい」


 その言葉が、胸に鋭く刺さった。

 遠く。知り合いが誰もいない場所。

 それは、私のいない場所ということだった。


 私は言いかけて、飲み込んだ。「隣にいてほしい」と。喉の奥で言葉が渦巻くけれど、声にはならなかった。


「そっか…」

 それしか言えなかった。


 美咲の横顔を見つめていると、彼女の視線はもう遠いところを見ているようだった。私の知らない未来を、私のいない場所を。

 

 言葉が喉まで上がっていた。

 ――好き。

 ただ、それだけ。

 隣にいてほしいって、遠くなんて行かないでって、そう言いたかった。

 なのにどうしても口にできない。言ってしまえば、この関係は壊れてしまうかもしれない。彼女の笑顔を見られなくなるかもしれない。


 その恐怖に、私は結局、足を踏み出せなかった。


「それじゃ、また明日」

 美咲はいつものように笑って手を振った。

「うん、また明日」


 分かれ道で、私は美咲の背中が小さくなっていくのを見つめていた。

 ひとり見上げた空はまだ茜色で、その鮮やかさが余計に胸を締めつけた。


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