出会い
桜が散り始めた四月の放課後。新学期が始まってまだ間もない教室で、落とした消しゴムを、彼女が拾ってくれた。
「これ、白石さんのだよね?」
私のことを呼ぶ声が、思ったよりも優しくて、胸がドキンと鳴った。
どうしてだろう。
前から同じクラスだったのに、彼女――橘 美咲とまともに話したのは、そのときが初めてだった気がする。
今思えば、ただ消しゴムを返されただけ。些細なやりとり。
でも、私にはその瞬間がずっと残ってしまった。
彼女は笑って、私の机に消しゴムを置いた。
その笑顔が、やけにまぶしかった。
私の中で何かが動いた。
きっと、これが始まりだった。
でもそのときは「友達になれたらいいな」って、それくらいにしか思っていなかった。
いや、そう思い込もうとしただけかもしれない。
帰り道も、家に着いてからも、何度も思い出してしまった。
声の響きも、表情も、消しゴムに触れた指先までも。
◇
それからしばらくの間、私はただ、彼女のことを目で追うだけだった。
授業中に窓の外を眺める横顔。体育の時間に髪を束ねて走る姿。誰かと楽しそうに笑っている表情。ほんの些細な仕草すら、私には特別に見えた。
けれど、話しかける勇気はなかった。
そんな私に、再び声をかけてきたのも彼女だった。
「ねえ、白石さんってノートきれいだよね。見せてもらっていい?」
昼休み、授業の内容を整理していると、橘さんが当たり前のように椅子を引いて隣に座った。距離が近くて心臓が跳ね上がる。
「あ、うん……」
「ありがとう。私、黒板写すの遅いんだよね」
彼女は私のノートを覗き込み、シャーペンを走らせる。横顔を見ないようにと思うほど、余計に目がそちらへ引き寄せられた。
その日を境に、彼女と少しずつ言葉を交わすようになった。
一緒に教科書を広げたり、図書室で本を借りたり。放課後に偶然を装って帰り道を合わせることもあった。
けれど――彼女は誰に対しても同じように接しているように見えた。
クラスの中心にいるわけではないけれど、自然と人が集まる。笑顔は分け隔てなく、声をかけられればすぐ応じる。私だけが特別扱いされているわけではないのだと、痛いほど分かってしまう。
それでも。
彼女と過ごす時間は、私にとって日常の小さな救いだった。
それから少しずつ美咲と一緒に帰ることが増えていった。
偶然とか、たまたまとか、そういう言葉でごまかせるくらいの小さな回数。
でも、私にとっては大きなことだった。
横に並んで歩くだけで嬉しかった。
同じ方向を見ているだけで、心臓が落ち着かなくなった。
たぶん美咲には伝わってなかったと思う。だって、美咲はいつも自然だったから。
「今日、寄り道して帰ろうよ」
私がそう言うと、美咲は少し笑って、でも首を振った。
「ごめん。ちょっと用事があって」
その「ごめん」の声がやさしくて、余計に胸が痛んだ。
嫌われたわけじゃないって分かってる。分かってるのに、置いていかれたみたいに感じた。
でも何度か同じことがあった。
私が一歩近づこうとすると、美咲は一歩引く。
話すときには、笑顔は向けてくれるのに、手を伸ばしたら届かない透明な壁があるようだった。
それでも私は、一緒にいたかった。
笑ってくれるだけで十分だと思った。
十分だって、何度も自分に言い聞かせた。
けれど、心の奥ではそれ以上を欲しがっている。
笑顔を見たいだけじゃなくて、もっとそばにいたい。もっと触れたい。
そんな気持ちがどんどん膨らんでいくのに、声にできなかった。
もし伝えたら、美咲はどうするだろう。
きっと、笑って受け流してしまうだろう。
それが怖かった。
だから私は、黙ったまま隣を歩くしかなかった。
沈黙が長くなるほど、心臓の音が大きくなっていった。
どうして言えないんだろう。
どうしてこんなに簡単なことが、こんなに難しいんだろう。




