第九十九話 秩序の崩壊と、官僚王の取引
「貴様…! 我が、完璧な、秩序を…!」
冥王エンマの、感情のない瞳に、初めて、明確な『焦り』と、『怒り』の、色が、浮かんだ。
しかし、ユウマは、もはや、彼の言葉など、聞いていなかった。
彼の、心と、魂は、ただ、失われた、友のことだけで、満たされていた。
その、純粋な、悲しみの奔流が、この、完璧に、管理された、死の世界を、内側から、破壊していく。
「システムエラー! システムエラー! 第四書庫、全記録、情報汚染!」
「第七管区、魂の序列に、原因不明の、バグ発生!」
「ダメです、冥王様! 感情という名の、致命的なウイルスが、全サーバーに、拡散していきます!」
法廷は、阿鼻叫喚の、地獄絵図と、化していた。
これまで、機械のように、完璧に、作業をこなしていた、冥界の役人たちが、頭を抱え、泣き叫び、あるいは、故郷の母の名を、呼びながら、その場に、崩れ落ちていく。
灰色の世界が、感情という、劇薬に、耐えきれず、メルトダウンを、起こしていたのだ。
エンマは、戦慄した。
(馬鹿な…! 我が、法と、秩序が、ただの、人間の、感情一つに、敗れるだと…!?)
彼は、ユウマを、力で、排除しようとした。
しかし、できない。
ユウマに、手を、伸ばそうとすると、世界の、理そのものが、悲鳴を上げ、自らの、足元から、崩壊していくのが、分かった。
この少年は、もはや、この世界の、秩序を、支える、OSそのものに、干渉している。下手に、強制終了させれば、冥界そのものが、クラッシュしかねない。
(…落ち着け。私は、エンマ。秩序の、番人…)
エンマは、必死に、その、論理的な、思考を、取り戻そうとした。
(…バグには、必ず、原因がある。システムの、暴走を、止めるには、その、根本原因を、取り除くしかない…)
彼の、視線が、再び、ユウマへと、戻る。
ユウマは、何を、求めている?
―――友の、魂。
答えは、一つしかなかった。
「…待て」
エンマの、静かな、しかし、有無を言わせぬ、声が、響き渡った。
法廷の、崩壊が、ぴたり、と止まる。
「…分かった。取引を、しよう、『佐藤 優馬』」
エンマは、数万年ぶりに、自らの、絶対的な、ルールを、捻じ曲げる、決断を、下した。
それは、彼にとって、屈辱以外の、何物でもなかったが、世界の、崩壊と、天秤にかければ、安いものだった。
「貴殿の、友、『ガガル』の魂。本来ならば、正規の、手続きを、経て、裁きを、下すところだが…。今回に限り、特例措置を、認めよう」
エンマは、苦々しげに、言った。
「彼奴の魂は、今、全ての記憶を洗い流す、『忘却の川』へと、向かっている。もし、貴殿が、自らの手で、その魂を、川に、たどり着く前に、捕まえ、そして、その魂が、まだ、貴殿のことを、覚えていたならば」
彼は、ユウマに、最後の、そして、唯一の、チャンスを、与えた。
「―――その魂を、現世へ、連れ戻すことを、許可する」
「…本当か!?」
ユウマの、虚ろだった瞳に、初めて、光が、宿った。
「ただし」と、エンマは、釘を刺した。
「もし、その魂が、すでに、川の流れに、触れ、貴殿を、忘れていたならば、その時点で、貴殿の負けだ。速やかに、この世界から、立ち去り、二度と、我らの、秩序を、乱さぬと、誓え」
それは、あまりにも、過酷な、賭けだった。
しかし、ユウマに、迷いはなかった。
「…分かった。その、取引、受けよう」
ユウマが、そう、答えた、瞬間。
彼の、心の中から、溢れ出していた、感情の奔流が、すうっ、と、収まっていった。
それに伴い、法廷を、蝕んでいた、カオスな、バグも、嘘のように、沈静化していく。
書庫は、静かになり、役人たちは、再び、無表情な、顔で、立ち上がり、自らの、持ち場へと、戻っていった。
エンマは、その光景を見て、安堵の、息をつくと同時に、目の前の、少年への、畏怖を、さらに、深めた。
(…やはり、こいつは、危険すぎる。一刻も早く、この世界から、追い出さねば…)
「道は、あちらだ」
エンマが、指さした、法廷の、奥。
そこには、どこまでも、続く、灰色の、荒野と、その、遥か、彼方を、流れる、一本の、巨大な、川が見えた。
ユウマは、仲間たちのことも、世界の運命も、全てを、忘れて。
ただ、たった一人の、友を、救うため。
その、孤独で、絶望的な、荒野へと、一人、その、最初の一歩を、踏み出したのだった。




