第九十四話 魔神の仲裁と、王たちの遊戯
「―――少し、頭を、冷やしましょうか。…二人とも」
リリスの、静かな、しかし、絶対零度の響きを持つ声。
その瞬間、ウィルナスとベルゼビュート、二人の王の意識は、ユウマから、目の前の女へと、強制的に引き戻された。
彼女は、笑っていた。
しかし、その瞳は、もはや、人間の、あるいは、ただの魔族の、それではない。
世界の理そのものを、嘲笑うかのような、古の、深淵。
二人の王は、本能で、理解した。目の前に立つ存在は、自分たちと、同格、あるいは、それ以上の、世界の理から、外れた『何か』であると。
「…貴様…何者だ」
ベルゼビュートが、初めて、警戒の色を、その声に滲ませる。
「私は、ただの、しがない、元・愛人よ」
リリスは、くすくすと笑うと、気絶したままのユウマの、髪を、優しく、撫でた。
「…そして、この、最高に面白い、おもちゃの、最初の、所有者、かしらね」
彼女は、二人の王を、交互に見つめた。
「あんたたちが、この子を、欲しい気持ちは、よく分かるわ。でも、見ての通り、この子は、とても、脆いの。二人で、引っ張り合ったら、壊れてしまうじゃない」
その声は、まるで、子供の喧嘩を、仲裁する、大人のようだった。
「だから、提案よ」
リリスは、その美しい、指を、一本、立てた。
「『遊戯』を、しましょう。…この、ユウマという、至高の『器』を、賭けた、王たちの、遊戯を」
「力ずくで、奪い合うのは、野蛮だわ。もっと、エレガントに、いきましょうよ。…これから、彼が、歩む道で、彼に、最も、有益な『手助け』をし、彼の、心を、最も、惹きつけ、彼が、最後に、『選んだ』者が、彼の、所有権を、得る。…というのは、どうかしら?」
それは、あまりにも、悪魔的な、提案だった。
ユウマを、一個の、人格としてではなく、最高の『褒賞』として、扱う、という、狂気の、ルール。
ウィルナスは、その提案に、一瞬で、食いついた。
(なるほど…。力ではなく、知性で、彼の、価値を、引き出し、その心を、支配しろ、と。…面白い。その、ゲーム、俺が、勝つに、決まっている)
合理主義者の王は、その、知的遊戯に、至上の、価値を、見出した。
ベルゼビュートもまた、その、傲慢な、唇の端を、吊り上げた。
(フン…。小賢しい、真似を。…だが、よかろう。我が、魔王としての、絶対的な、カリスマの前に、人の子の、心など、容易く、ひれ伏すわ)
「…よかろう。その、遊戯、乗ってやろう」
「…俺もだ。その、ルール、受け入れよう」
二人の王は、あっさりと、合意した。
ユウマを、半分こにする、という、狂気から、ユウマの、心を、奪い合う、という、新たな狂気へと、移行しただけだった。
「では、決まりね」
リリスは、満足げに、頷いた。
ベルゼビュートは、漆黒の竜の背に、再び、跨ると、最後に、ユウマを一瞥した。
『…待っていろ、『器』よ。次に、会う時は、貴様が、我が足元に、ひざまずく時だ』
その言葉を、最後に、彼は、魔物たちと共に、空の亀裂の中へと、消えていった。亀裂は、音もなく、閉じていく。
ウィルナスは、崩壊した、玉座の間を、見渡すと、静かに、ため息をついた。
そして、ユウマの仲間たちに、言った。
「…今日のところは、帰るがいい。城の修復が、終わる頃には、この、ゲームの、最初の、一手くらいは、考えておいてやろう」
彼の、金色の瞳には、もはや、敵意はなく、ただ、これから始まる、壮大な、チェスゲームを前にした、プレイヤーの、愉悦だけが、宿っていた。
嵐は、去った。
後に残されたのは、半壊した、王城と、呆然と、立ち尽くす、仲間たち。
そして、その中心で、ぐったりと、気絶したままの、ユウマだった。
やがて、ユウマの、意識が、ゆっくりと、浮上してきた。
(…あれ…? 俺、生きてる…?)
彼が、目を開けて、最初に見たのは、自分の、胸の上で、心配そうに、自分を、覗き込んでいる、チビすけの、宝玉だった。
その、温かい、光が、ユウマの、冷え切った心に、じんわりと、染み渡る。
ユウマは、ゆっくりと、その宝玉に、手を伸ばし、そっと、握りしめた。
(…こいつが…助けてくれたのか…)
自分が、いなくなればいい、と願った、その瞬間に、この、小さな命が、自分を、守ってくれた。
その事実に、彼の、胸の奥から、今までに、感じたことのない、熱い、感情が、込み上げてきた。
「…ありがとな、チビすけ…」
それは、か細い、しかし、確かな、感謝の言葉だった。
彼が、初めて、自分の、運命を、受け入れ、そして、守るべきものを、見つけた、瞬間だったのかもしれない。
ユウマの、平穏を求める、逃避行は、終わった。
今日から、彼の旅は、二人の、狂王から、自分自身と、この、小さな、我が子を、守り抜くための、戦いの旅へと、その意味を、変えたのだ。




