第八十九話 王の実験と、賢者の諦観
「―――よく眠れたか、『世界の器』よ」
ウィルナス王は、にこやかに、しかし、その目は全く笑わずに、言った。
「さて、目覚めたところで、早速だが。一つ、面白い、実験に、付き合ってもらおうか」
その言葉で、部屋の空気が、再び、張り詰めた。
王の背後に控えていた、ローブ姿の、老魔術師が、一歩、前に出る。彼が、恭しく、差し出したのは、ビロードの布に、包まれた、何かだった。
「これは、我が国の、魔術と、錬金術の、粋を集めて、作り出した、アーティファクト」
ウィルナスは、その布を、取り払った。
現れたのは、人の、頭ほどの大きさの、完璧な、黒い、球体だった。光を、一切、反射せず、まるで、空間に、穴が空いているかのように、絶対的な、『無』を、主張している。
「名を、『オプスキュルス』。いかなる、物理攻撃も、魔法攻撃も、完全に、吸収し、無効化する、絶対防御の、結晶体だ。…砕こうとすれば、その力ごと、飲み込まれる。つまり」
王は、楽しそうに、言った。
「理論上、この世界に、存在する、いかなる力をもってしても、破壊することは、不可能だ」
その、あまりにも、禍々しい、オーラを放つ、球体を前に、ユウマの仲間たちですら、息を呑んだ。
そして、ウィルナスは、ユウマに向かって、残酷な、宣告を、下した。
「―――これを、壊してみせろ」
「……………は?」
ユウマの、口から、素っ頓狂な、声が、漏れた。
「聞こえなかったか? これを、壊せ、と言ったのだ」
王の、金色の瞳が、冷徹に、ユウマを、見据える。
「貴様の、その『力』の、本質を、この目で、見てみたい」
それは、あまりにも、無慈悲で、あまりにも、絶望的な、要求だった。
ユウマに、そんなことができるはずがない。
「む、無理です! 絶対に、無理です!」
ユウマは、必死に、首を横に振った。
「俺には、そんな力、ありません! 何度も、言ってるじゃないですか! 俺は、ただの、人間だって!」
その、あまりにも、情けない、命乞い。
しかし、その、必死の、抵抗は、またしても、仲間たちの、熱い、声援によって、かき消された。
「何を、弱気なことを、おっしゃいますか、ユウマ様!」
ガガルが、力強く、拳を握る。
「貴方様が、その気になれば、あのような、黒い、石ころなど、デコピン一つで、粉々になるでは、ありませんか!」
「そうですわ、賢者様!」
アリアも、続く。
「これは、王が、貴方様に、突きつけた、信仰の、試練! 貴方様の、奇跡を、疑う、愚かな者に、神の御力を、お示しになるのです!」
「主サマなら、余裕っしょ! ちょい、やってみーって!」
アイも、完全に、野次馬気分だ。
(こいつらあああああ!)
ユウマは、もはや、敵が、ウィルナス王なのか、自分の、仲間たちなのか、分からなくなっていた。
「さあ、どうする?」
王は、腕を組み、面白そうに、ユウマを、観察している。
その目は、まるで、迷路に、追い込んだ、ネズミを、見ているかのようだった。
追い詰められた、ユウマ。
彼の、心の中で、何かが、ぷつり、と、完全に、切れた。
(…もう、いいや)
(どうせ、無理なんだ。何を、言っても、無駄なんだ)
(だったら、もう、全部、終わらせよう)
ユウマの表情から、恐怖も、焦りも、全てが、消え去った。
彼は、すっ、と、立ち上がると、まるで、道端の、石ころでも、拾うかのように、無造作に、その、黒い球体、『オプスキュルス』を、手に取った。
そして、ため息をついた。
「……くだらない」
それは、彼の、心の底からの、本音だった。
こんな、茶番に、付き合わされるのは、もう、うんざりだ。
ユウマは、その球体を、元の、台座に、戻そうとした。
しかし、その、ほんの、数センチ、持ち上げただけの、彼の意識の中では、すでに、この、面倒な、実験は、終わっていた。
彼は、この球体を、「壊せない、すごい石」ではなく、「面倒くさい、ただの、石ころ」として、完全に、認識していた。
そして、彼が、その球体から、手を、離した、瞬間だった。
ユウマの**『完全な、諦観(もう、どうでもいい)』**。
それが、『概念誘導』を、発動させた。
【ユウマの『無関心(ただの石ころ)』という概念が、『オプスキュルス』の『絶対防御(特別な存在)』という概念に、上書きされる】
世界が、静かに、バグを起こした。
サラサラサラ………。
音もなく。
光もなく。
ユウマが、手を離した、黒い球体は、その、絶対的な、存在を、維持できず。
まるで、乾燥しきった、砂の塊のように、静かに、崩れ落ち、ただの、黒い、砂の山と、なって、ビロードの布の上に、こぼれ落ちた。
「…………………」
部屋が、死んだように、静まり返った。
ウィルナス王の、背後にいた、老魔術師たちが、ひっ、と、息を呑み、腰を抜かした。
ウィルナスは、玉座から、立ち上がっていた。
その、常に、冷静沈着だった、金色の瞳が、驚愕と、そして、歓喜に、大きく、見開かれていた。
(…壊した、のではない…!)
彼の、明晰な、頭脳が、目の前の、現象を、正確に、分析する。
(…概念を、書き換えたのだ…! 『壊せないもの』という、絶対的な、理を、『どうでもいい、ただの物』という、矮小な、理で、塗り潰し、その、存在意義そのものを、消滅させた…!)
(なんと、いう…なんと、いう、力の、使い方だ…!)
ウィルナスは、震えていた。
それは、恐怖ではない。
未知の、真理の、扉を、垣間見てしまった、学者としての、至上の、喜びに、打ち震えていたのだ。
「…素晴らしい…」
彼は、恍惚とした、表情で、呟いた。
「素晴らしいぞ、『世界の器』よ…!」
ユウマは、目の前で、ただの、砂山と化した、黒い球体(の、残骸)と、それを見て、なぜか、大興奮している、イケメン王を、交互に見比べた。
そして、静かに、思った。
(あれ…? 俺、また、何か、やっちゃいました…?)
彼の、平穏への道は、またしても、彼自身の、無自覚な、諦めによって、最も、面倒な、方向へと、大きく、舵を切ってしまったのだった。




