第八十話 賢者の慈悲と、壊れる常識
夜が明けた、『静寂の森』。
そこに広がっていたのは、もはや、戦場ではなかった。
昨日まで、互いに、命を奪い合っていたはずの、王国軍と、帝国軍の兵士たちが、まるで、古い、戦友のように、互いの肩を叩き合い、水を分け合い、傷の具合を、確かめ合っていたのだ。
彼らの、憎しみは、昨夜の、黄金の光と共に、完全に、消え去っていた。
その、あまりにも、非現実的な、光景の中心で。
ユウマは、アリアに、治癒魔法をかけてもらいながら、疲労困憊で、地面に、へたり込んでいた。
彼の、分け隔てない、癒やしの行いは、彼の、なけなしの、体力と、精神力を、根こそぎ、奪い去っていたのだ。
「…素晴らしいですわ、賢者様」
アリアは、涙ぐみながら、言った。
「敵も、味方もなく、等しく、救いの手を、差し伸べる…。これこそ、女神様が、お示しになる、真の、愛の姿です」
(俺は、ただ、罪悪感で、パニクってただけなんだけどな…)
ユウマは、もはや、訂正する、気力もなかった。
やがて、ギデオン将軍が、ユウマの元へと、やってきた。
その、百戦錬磨の、老将軍の顔には、これまでの、人生で、一度も、浮かべたことのないであろう、深い、深い、困惑の、色が、浮かんでいた。
「…大賢者様」
彼は、ユウマの前に、ひざまずいた。
「…お尋ねいたします。この、降伏した、帝国兵たちを、我々は、どう、処遇すべきでしょうか」
それは、将軍として、あまりにも、ありえない、問いだった。
捕虜の、処遇など、軍規で、定められている。それを、司令官が、他人に、問うなど、前代未聞。
しかし、彼の、常識は、昨夜、目の前で、完全に、破壊されてしまったのだ。
「軍規に従えば、彼らは、捕虜として、鎖に繋ぎ、強制労働に従事させるか、あるいは、身代金と、引き換えに、送還されることになります。…しかし」
将軍は、言葉を、詰まらせた。
「…貴方様が、その、御手で、直接、お救いになられた、命を、我々が、鎖に繋ぐことが、果たして、許されることなのか…。この、ギデオン、もはや、分かりませぬ」
彼は、真に、困っていた。
ユウマの、常識外れの、奇跡が、軍人としての、彼の、常識を、完全に、麻痺させてしまったのだ。
(え、俺に聞かれても…)
ユウマは、困った。
彼は、ただ、疲れていた。もう、これ以上、面倒なことは、ごめんだった。
戦争も、政治も、何もかも。
ただ、終わって、みんなが、家に、帰ればいい。
自分も、早く、静かな場所に、帰りたい。
ユウマは、その、心の底からの、素朴な願いを、そのまま、口にした。
その声は、疲労で、ひどく、か細かった。
「……もう、戦いは、終わりです」
「…!」
「…みんな、自分の、家に、帰してあげてください…」
それは、ただの、子供の、理想論。
あまりにも、ナイーブで、現実離れした、言葉。
しかし。
その言葉は、ギデオン将軍の、凝り固まった、戦術家の脳に、天啓となって、突き刺さった。
【ユウマの『素朴な願い(帰りたい)』が、将軍の『国家への忠誠』によって、『究極の国家戦略』の概念へと、反転・昇華される】
(…家に、帰す…だと…?)
ギデオンの、脳内に、稲妻が、走った。
(馬鹿な! 敵兵を、無条件で、解放するなど、ありえん! …いや、待て…)
(もし、ここで、彼らを、解放したら、どうなる…?)
(彼らは、故郷へ帰り、家族に、何を、語る? 王国軍の、非道さか? いや、違う!)
(彼らは、語るだろう! 敵である、自分たちの傷を、その身を、削って、癒やしてくれた、聖者のことを! 憎しみではなく、慈悲で、戦いを、終わらせた、神の如き、賢者のことを!)
(…それは、いかなる、武力よりも、雄弁に、帝国の、戦意を、打ち砕くではないか!)
(これは、慈悲ではない! 戦略だ! 兵士一人一人を、賢者様の、威光を、伝える、生ける、伝書鳩として、敵国に、送り込むという、あまりにも、恐ろしく、そして、神がかり的な、心理戦術なのだ!)
「……………は」
ギデオンの、口から、畏怖に満ちた、息が、漏れた。
「…ははは…。はーははははは!」
老将軍は、突然、天を、仰ぎ、高らかに、笑い出した。
「分かっておりました! 分かっておりましたとも、大賢者殿! 貴方様の、お考えの、深さ、この、ギデオン、見抜けぬところでしたわ!」
彼は、すぐに、立ち上がると、全軍に、響き渡る、大音声で、命令を下した。
「全軍に、告ぐ! これより、大賢者ユウマ様の、御名において、新たな、軍令を、下す!」
「捕虜は、取らぬ! 全ての、帝国兵を、武装解除の上、解放せよ!」
「我らが、備蓄する、食料と、水を、彼らに、分け与えよ! 故郷へ、帰るまでの、旅の、糧とせよ!」
「「「はっ!!」」」
王国軍の兵士たちは、一瞬、戸惑いながらも、すぐに、その命令の、真意を、理解した。
これは、敵国に対する、我らが、賢者様の、圧倒的な、勝利宣言なのだ、と。
ユウマは、目の前で、自分の、ただの「お家に帰りたい」という、引きこもり願望が、前代未聞の、国際問題に、発展していく様を、ただ、呆然と、見つめることしか、できなかった。
解放を、告げられた、帝国兵たちは、最初、信じられない、という顔をしていたが、やがて、その場で、泣き崩れ、ユウマがいる方角に向かって、何度も、何度も、土下座を、繰り返していた。
ユウマの、平穏を求める旅は、ついに、一国の、軍略や、外交方針すら、捻じ曲げ始めていた。
もはや、彼が、何をしても、何を言わなくても、世界が、勝手に、彼を、神話へと、祭り上げていく。
その、巨大な、渦の中から、彼が、抜け出す術は、もはや、どこにも、なかった。




