第七十六話 戦場の中心と、赤子の指先
野戦病院での、あまりにも不可解で、あまりにも神聖な奇跡。
その噂は、ユウマたちが、本陣に到着するよりも、早く、駆け巡っていた。
彼らが、東部戦線の、本陣キャンプに、足を踏み入れた時、そこに、好奇や、疑いの目は、もはや、存在しなかった。
数千の兵士たちが、作業の手を止め、まるで、凱旋した王を迎えるかのように、道を開ける。そして、泥と、血に汚れた、屈強な男たちが、一人、また一人と、その場に、静かに、膝をついていく。
その、無言の、しかし、絶対的な、敬意の波に、ユウマは、もはや、恐怖よりも、居心地の悪さを、感じていた。
一行は、騎士隊長に導かれ、キャンプで、最も大きい、作戦司令部の、テントへと、通された。
中には、歴戦の、古強者といった風情の、将軍と、その幕僚たちが、広げられた地図を前に、険しい顔で、議論を交わしていた。
「…申し上げます! 大賢者ユウマ様が、ご到着されました!」
騎士隊長の、その声に、幕僚たちが、一斉に、顔を上げる。
そして、その中心に座っていた、白髪混じりの、厳つい顔の、老将軍――東部戦線総司令官、ギデオン将軍が、ゆっくりと、立ち上がった。
彼の目は、値踏みするように、ユウマと、その、あまりにも、異質な、仲間たちを、見据えた。
(…これが、噂の…。ただの、子供ではないか。…だが、あの、宰相閣下と、教会の、両方が、認めた存在…)
その、ギデオン将軍の、懐疑的な空気を、打ち破ったのは、テントに、転がり込んできた、一人の、伝令兵だった。
「ご、ご報告! 先ほど、後方の、野戦病院にて、賢者様が、奇跡を! 数百の、負傷兵が、賢者様が、お与えになった、ただの水で、たちどころに、回復したとの報せが!」
「「「おお…!」」」
テントの中の、幕僚たちから、どよめきが、上がる。
ギデオン将軍の、険しい顔も、驚愕に、目を見開いていた。
「…賢者殿」
将軍の、ユウマに対する、口調が、変わった。
「…よく、お越しくださった。単刀直入に、お伺いしたい。我々は、今、敵の、次なる一手が、読めず、膠着状態に、陥っている」
彼は、地図の上を、指し示した。
「敵の、本隊は、ここ。だが、これは、陽動の、可能性が高い。ヤツらの、真の狙いは、どこか、別の場所から、我らが、本陣を、直接、叩くことにあるはず。…だが、その、場所が、絞りきれん。…賢者殿の、その、神聖なる、慧眼で、何か、見えるものは、ないだろうか?」
それは、もはや、軍議ではない。
神託を、求める、祈りだった。
ユウマは、広げられた、複雑な地図を、見つめていた。
彼には、それが、ただの、線と、記号の、集まりにしか、見えない。
(分かるわけ、ないだろ…!)
その、ユウマの、焦りと、緊張を、感じ取ったのか。
彼の腕の中で、すやすやと、眠っていた、チビすけが、きゅるる、と、寝言のような、声を上げた。
そして、宝玉の中から、小さな、葉っぱの手を、にゅっ、と伸ばすと、地図の上の、ある一点を、ぽすん、と、叩いた。
「(あっ、こら!)」
ユウマは、慌てた。
我が子が、この、国の運命を左右する、重要な地図に、落書き(?)をしようとしている。
彼は、反射的に、チビすけが、叩いた、その場所を、自らの、人差し指で、とん、と、押さえつけた。
「だめだぞ、チビすけ。こんな、大事なものに、触っちゃ…」
シーン。
テントの中が、水を打ったように、静まり返った。
将軍も、幕僚たちも、全員が、ユウマの、その指先が、指し示した、地図の、一点を、凝視していた。
ユウマが、指さしていたのは、戦線から、少し、外れた、名もなき、小さな、森だった。
戦略的には、何の、価値もない、場所。
「…『静寂の森』…だと…?」
幕僚の一人が、訝しげに、呟く。
「なぜ、そのような場所を…」
しかし、総司令官、ギデオンの、表情は、違った。
彼の、歴戦の、戦術眼が、その、ユウマの、神託(と、彼が思い込んだもの)の、真の意味を、捉えていた。
その顔が、みるみるうちに、驚愕から、戦慄へと、変わっていく。
「…そうか…」
将軍は、震える声で、言った。
「…我々は、完全に、裏を、かかれていた…」
彼は、幕僚たちに、叫んだ。
「その森を、抜けられれば、敵の、精鋭騎馬隊は、我が軍の、補給路を、完全に、断ち切ることができる! それだけではない! そのまま、迂回すれば、この、司令部を、背後から、強襲できるのだ! 我らを、一網打尽にする、絶好の、奇襲ルートではないか!」
「「「なっ…!?」」」
「我々は、ありえないと、最初から、そのルートを、考慮に入れていなかった…。あまりにも、大胆すぎる、と…。しかし、賢者殿は、それを見抜かれたのだ。敵の、真の、狙いを…!」
ギデオンは、ユウマに向き直り、その場に、深く、深く、頭を下げた。
「…感謝、申し上げる、大賢者殿。貴方様の、神託がなければ、我々は、今頃、壊滅しておりました」
(え、俺、ただ、チビすけを、止めようと…)
ユウマは、もはや、弁解する、気力もなかった。
ギデオンは、すぐに、顔を上げると、その瞳に、獰猛な、反撃の炎を、宿らせていた。
「全軍に、伝えい! ただちに、我が軍の、最強戦力、グリフォン騎士団を、『静寂の森』へと、差し向けよ!」
彼は、ニヤリと、笑った。
「敵の、罠の、さらに、裏をかき、我々が、罠を、仕掛けてやる! 賢者様が、お示しくださった、この好機、逃す手はないぞ!」
ユウマが、ただ、子供の、いたずらを、止めようとした、その、ささやかな、親心。
それは、この、劣勢だった、大戦の、流れを、完全に、ひっくり返す、起死回生の、一大反攻作戦の、引き金となってしまったのだった。




