第七十五話 戦場への道と、癒しの水
翌朝、夜明けと共に、一行は、東の最前線へと、出発した。
ユウマは、王国軍が用意した、馬車の中から、移り変わる景色を、ぼんやりと、眺めていた。
村を離れるにつれて、長閑だった田園風景は、次第に、その姿を変えていく。
畑は、踏み荒らされ、いくつかの家屋は、屋根が焼け落ちている。道端には、打ち捨てられた、武具の残骸が、転がっていた。
戦争の、傷跡。
精霊の国での、あの、夢のような日々が、嘘のようだ。
ユウマは、腕の中のチビすけを、ぎゅっと、抱きしめた。この子だけが、彼の、唯一の、癒やしだった。
「…ふん。敵の進軍速度、思ったより、速いな」
馬車の外を、並走していたガガルが、苦々しげに、呟いた。彼の目は、もはや、ただの獣人ではなく、戦場を知る、将軍のそれだった。
時折、西へと向かう、避難民の列と、すれ違う。
また、ある時は、前線から、下げられてきた、負傷兵たちを、運ぶ、荷馬車と、すれ違った。
「…お待ちください!」
アリアが、声を上げ、馬車を止めさせた。
彼女は、負傷兵たちの元へと、駆け寄ると、その傷ついた身体に、手をかざし、聖なる、癒やしの光を、注ぎ始めた。
「ああ…女神様…」
「聖女様だ…!」
兵士たちから、感謝と、安堵の声が、漏れる。
ユウマは、その光景を、ただ、馬車の中から、見ていることしか、できなかった。
自分は、大賢者などと呼ばれているのに、何の力もなく、誰一人、救うことが、できない。
その無力感が、鉛のように、彼の心に、重く、のしかかった。
やがて、一行は、前線キャンプの手前にある、野戦病院に、立ち寄った。
そこは、死の匂いと、負傷者の、うめき声に、満ちていた。
次々と、運び込まれる、兵士たち。圧倒的に、足りない、神官と、薬草。
絶望が、そこを、支配していた。
「賢者様が、お見えになったぞ!」
ユウマの到着を知り、その場の、誰もが、彼に、救いを求める、視線を向けた。
子供の傷を、一瞬で、癒やしたという、奇跡の Sage。彼ならば、この、地獄を、救ってくれるのではないか、と。
「…あ…」
ユウマは、その、無数の、期待の目に、射抜かれ、足が、すくんだ。
(無理だ…俺には、何もできない…)
彼は、後ずさりしそうになった。
しかし、その時、腕の中のチビすけが、きゅるる、と、不安げに、鳴いた。
その声に、ユウマは、ハッとした。
(…俺は、父親…なんだよな…)
この子の前で、情けない姿は、見せられない。
彼は、震える足を、叱咤し、一歩、前に、踏み出した。
アリアは、すでに、最も、重傷な兵士たちの治療を、始めていた。
ユウマは、自分に、できることを、探した。
そして、彼は、ただ、近くにあった、水差しを手に取ると、うめき声を上げる、兵士の元へと、歩み寄った。
「…水、飲みますか?」
彼は、兵士の、乾いた唇を、水で、湿らせてやった。
彼は、別の、兵士の、汗で、濡れた額を、布で、拭ってやった。
彼は、故郷を思う、若い兵士の、手を、ただ、黙って、握ってやった。
それは、何の力もない、ただの、青年ができる、精一杯の、善意だった。
しかし。
その、あまりにも、無力で、あまりにも、真摯な、彼の行動。
それこそが、この、絶望の淵にいた、兵士たちの心を、揺さぶった。
【ユウマの『無力な善意』が、兵士たちの『救済への信仰』によって、『神の慈悲そのもの』の概念へと、反転・昇華される】
ユウマが、与えた、ただの水が、兵士の身体に、染み渡った、瞬間。
その傷が、ありえないほどの、速度で、塞がっていく。
ユウマが、拭った、額から、高熱が、すうっと、引いていく。
ユウマが、握った、手の、温もりが、悪夢にうなされる、兵士の魂に、安らぎを、与えていく。
ユウマの、行動そのものが、奇跡と、なっていた。
彼の、存在そのものが、アリアが行う、聖なる治癒の、効果を、何十倍にも、増幅させる、触媒となっていたのだ。
「おお…!」
「傷が…! 痛みが、消えていく…!」
「賢者様…。ああ、賢者様…!」
野戦病院は、うめき声の代わりに、歓喜と、感謝の、声で、満たされていった。
ユウマは、目の前で、起こっている、奇跡の数々が、またしても、自分のせい(おかげ)だということに、全く、気づいていなかった。
彼は、ただ、無我夢中で、一人でも、多くの人を、助けたい、その一心で、水を配り、汗を拭き続けていた。
その、泥だらけで、水を配る、青年の姿は。
どんな、高位の神官よりも、どんな、威厳のある将軍よりも、神々しく、そして、尊く、兵士たちの目に、映っていた。
「…見ろ」
騎士隊長は、涙を、流していた。
「あれが、我らが、大賢者様だ」
ユウマの、平穏を求める旅は、皮肉にも、彼を、最も、平穏から、かけ離れた、聖者へと、作り変えていくのだった。




