第六十二話 眠れる湖の精霊と、赤子の産声
鏡のように静まり返った湖。その中心で眠る、水の精霊、ウンディーネ。
その、あまりにも幻想的で、神聖な光景を前に、一行は、ただ、言葉を失っていた。
「…どうやって、あそこまで行くんだ?」
ユウマが、当然の疑問を口にする。湖の岸から、中央の蓮の花までは、かなりの距離があった。
「フン! 我が主君の御前である! 道がないなら、作ればよい!」
ガガルは、そう言うと、岸辺にあった、人一人ほどもある巨大な岩を、軽々と持ち上げた。
「この岩を投げ込み、足場とする!」
「やめて! この聖なる湖を、なんて野蛮な…!」
アリアが、悲鳴に近い声で、止める。
「…つーか、その前に、まず、起こさないとじゃん?」
アイが、冷静に、眠っているウンディーネを指さした。
「おーい! 起きろー!」
アイが、大声で叫んでみるが、その声は、この『沈黙の森』の、奇妙な法則に、吸い込まれてしまうのか、湖の中心までは、全く、届いていないようだった。
「ならば、俺が!」
ガガルは、肺に、目一杯、空気を吸い込むと、腹の底から、雄叫びを上げた。
「起きろォォォォォイ! 水の精霊よォォォォッ!!」
魔王軍の元幹部の咆哮は、山をも揺るがすほどの威力があった。しかし、この森では、その声ですら、湖面に、わずかな波紋一つ、起こすことはできなかった。
「だめですわ…。この静寂は、物理的な音を、拒絶しています。…ならば、私の祈りで…」
アリアが、胸の前で、敬虔に、祈りを捧げ始めた。
しかし、ウンディーネは、ぴくりとも、動かない。
「…マジ、ウケる。どんだけ、寝汚いのよ、あいつ」
アイが、呆れて、ため息をついた。
「もう、こうなったら、石でも投げて、物理的に起こすしかなくない?」
「(絶対、やめろ…)」
ユウマが、心の中で、ツッコミを入れた、その時だった。
きゅるるるる…。
ユウマの腕の中から、か細い、鈴の音のような、鳴き声がした。
チビすけだった。
どうやら、お腹が空いたのか、あるいは、この奇妙な静寂に、不安を覚えたのか。宝玉の中の、小さな二枚の葉が、ふるふると、震えている。
「あ、ごめんごめん。ミルクの時間か」
ユウマは、すっかり、父親の顔で、チビすけを、胸に抱き寄せようとした。
きゅるるうううううううん!
チビすけは、一際、大きく、そして、澄んだ声で、鳴いた。
それは、ただの鳴き声ではなかった。
生まれたての、純粋な精霊の魂が、親を求めて発する、根源的な、生命の響き。
その音は、森の、物理的な静寂の法則を、完全に、無視して、湖の中心へと、真っ直ぐに、届いた。
湖の中心で、眠っていた、ウンディーネの、長い睫毛が、ぴくり、と動いた。
数百年、あるいは、数千年間、閉ざされていた、その瞼が、ゆっくりと、持ち上がっていく。
現れたのは、湖の、深い、深い、蒼色を、そのまま、閉じ込めたような、美しい瞳だった。
「……………うるさい」
最初に、彼女の口から漏れたのは、ひどく、気怠げで、不機嫌な、呟きだった。
しかし、彼女は、すぐに、ハッとしたように、目を見開いた。
「…今の、音は…?」
彼女は、ゆっくりと、上半身を起こす。その動きに合わせて、長い、水の色の髪が、さらりと、湖面に流れた。
「まさか…『新しい子』が、生まれた、産声…?」
彼女の、蒼い瞳が、まっすぐに、岸辺に立つ、一行を捉えた。
そして、その視線は、ユウマの腕の中で、健気に光る、チビすけへと、吸い寄せられる。
ウンディーネの表情が、驚きと、そして、慈愛に満ちた、微笑みへと、変わった。
彼女が、そっと、水面に手を差し伸べると、湖の、巨大な蓮の花々が、ひとりでに動き出し、岸辺までの、美しい、花の橋を、作り上げた。
「…おいでなさい」
その声は、まるで、優しい、子守唄のように、一行の心に、響き渡った。
ユウマは、目の前で起きた、あまりにも幻想的な光景に、呆然としながらも、促されるまま、その、花の橋へと、最初の一歩を、踏み出した。
腕の中の、チビすけの、ただ一声の、空腹の訴えが、この、数千年間、眠り続けていた、大精霊を、目覚めさせてしまったのだ。
その、あまりにも、規格外な『赤ちゃんの力』に、ユウマは、もはや、戦慄するしかなかった。




