第六十話 風の祝福と、次の道標
風が、止んでいた。
一年中、暴風が吹き荒れるはずの、風鳴りの山脈の頂上が、不気味なほど、静まり返っている。
その中心で、風の精霊シルフィードは、まるで、初めて見る不思議な生き物でも見るかのように、ユウマを、ただ、呆然と、見つめていた。
自らの、体の一部であるはずの風が、自分ではなく、目の前の、ただの人間の男に、従った。
その事実が、彼女の、数千年のプライドを、粉々に打ち砕いていた。
「…あ、あの…」
ユウマは、そんな彼女の内心には、全く気づかず、ただ、試練をクリアした安堵感から、摘み取った青白い花を、彼女に差し出した。
「これで…よかったですか?」
「……………っ!」
シルフィードは、ハッと我に返ると、ひったくるように、その花を奪い取った。
その頬は、翠色の肌の上からでも分かるほど、真っ赤に染まっている。
「…う、うるさい! 当たり前でしょ!」
彼女は、そっぽを向き、ぶっきらぼうに叫んだ。
「…や、約束は、約束よ。…ほら、その、赤ん坊を、こっちに…」
アリアが、おそるおそる、チビすけの入った宝玉を、シルフィードに差し出す。
シルフィードは、まだ、拗ねたような顔のまま、宝玉に向かって、ふーっ、と、息を吹きかけた。
その息は、優しい、翠色の光を帯びた、春風となり、宝玉を、そっと、包み込んだ。
ユウマの腕の中へと戻ってきた、チビすけ。
その宝玉の中で、小さな芽が、わずかに成長し、可愛らしい、二枚目の葉を、ちょこんと、芽吹かせていた。
そして、宝玉全体が、かすかに、風の魔力を纏っているのが、分かった。
四大精霊、その一柱の祝福が、確かに、与えられたのだ。
「…これで、いいでしょ」
シルフィードは、まだ、ぷい、と、そっぽを向いている。
「用が済んだなら、とっとと、帰りなさいよ。あたし、もう、あんたの顔、見たくないんだから」
その、あまりにも、ツンデレな態度。
ユウマは、「え、俺、何か、怒らせるようなことしたかな…」と、本気で、首を傾げていた。
しかし、彼の仲間たちの解釈は、いつも通り、斜め上を行っていた。
「フン! 我が主君の、あまりにも偉大すぎる御力の前に、己の非力さを恥じ、顔を合わせられぬと見える!」
ガガルは、勝ち誇っている。
「まあ、可愛らしい方。賢者様の御前で、素直になれないのですね」
アリアは、微笑ましそうに、その光景を見守っている。
「あー、ツンデレってやつ? マジうけるんだけど」
アイは、完全に、面白がっていた。
「さっさと、行きなさいよ!」
仲間たちの、好き勝手な解釈に、さらに顔を赤くしたシルフィードが、叫んだ。
「どうせ、他の奴らのところにも、行くんでしょ! 次は、東よ! 東の、『沈黙の森』! 水のウンディーネの、じめじめした寝ぐらよ! あいつも、あたしみたいに、痛い目見ればいいんだわ!」
それは、腹いせ紛れの、やけっぱちな道案内だった。
しかし、一行にとっては、次なる目的地を示す、貴重な情報だった。
「…では、我々は、これで」
ユウマが、頭を下げて、その場を去ろうとすると、シルフィードは、まだ、何か言いたそうに、口を、もごもごとさせていた。
「…あ、あたしは、別に、あんたに従ったわけじゃないんだからね!」
彼女は、最後に、それだけを叫ぶと、ぷい、と、風と共に、その姿を、消してしまった。
後には、静寂と、困惑するユウマだけが、残された。
帰り道は、嘘のように、穏やかだった。
あれほど、猛威を振るっていた暴風は、完全に、凪いでいる。
それどころか、一行が、険しい下り坂に差しかかると、背後から、優しい追い風が吹き、その歩みを、軽やかに、後押ししてくれるのだ。
ユウマが、足を滑らせそうになると、どこからか、柔らかな風が、クッションのように、彼を支えた。
「おお…! 風が、ユウマ様の道を、切り開いている!」
「山の精霊たちが、賢者様を、お見送りしているのですわ…」
仲間たちが、感動に声を上げる中、ユウマだけは、全く、気づいていなかった。
「あれ? なんか、急に、歩きやすくなったな。ラッキー」
彼は、自分が、いつの間にか、『風の主』として、この山脈の全ての風に、傅かれているという、とんでもない事実に、全く、気づかないまま。
ただ、穏やかになった天候を喜びながら、次なる目的地、『沈黙の森』へと、その歩みを、進めるのだった。




