第五十九話 風鳴りの山と、最初の試練
「で、じいちゃん。その、四大精霊?ってのは、どこに行けば会えるわけ?」
アイが、腕組みをしながら、精霊王ファーンに尋ねた。ユウマの腕の中では、我が子『チビすけ』が、すやすやと穏やかな光を放っている。
「うむ」と、精霊王は頷いた。「四方は、それぞれ、東西南北の果てに、己が領域を構えておる。まずは、最も近い、西の『風鳴りの山脈』に住まう、風のシルフィードに会うのがよかろう」
「風鳴りの山脈…!」
アリアが、息を呑んだ。「一年中、暴風が吹き荒れ、並の鳥では、翼をもがれて墜落してしまうという、天空の秘境ですわね」
「フン! 面白そうだ!」
ガガルは、腕を鳴らしている。
(暴風…? 絶対に行きたくないんだけど…)
ユウマの心の叫びは、誰にも届かない。
こうして、一行の、あまりにも無計画な、四大精霊を巡る旅が始まった。
精霊王は、森の出口まで一行を見送ると、最後に、ユウマの肩を、ぽんと叩いた。
「頼んだぞい、新米パパ殿。その子の、立派な親になるのじゃ」
その目は、完全に、孫の成長を見守る、ただの優しいおじいちゃんのそれだった。
精霊の森を抜けると、目の前には、天を突き刺すかのように、険しい山脈が連なっていた。
近づくにつれて、ごうごうと、空気が唸る音が聞こえてくる。それが、『風鳴りの山脈』だった。
「うわっ!」
山の麓に着いた途端、凄まじい突風が、一行に吹き付けた。
ユウマは、あまりの風の強さに、近くの岩にしがみついていないと、吹き飛ばされそうになる。
「ひゃっほーい! ちょー気持ちいー!」
アイだけは、風を楽しむように、その場でくるくると回っている。さすが、風と共に生きるエルフだ。
ガガルとリリスも、涼しい顔をしている。アリアは、聖なる護りの障壁で、風を完全にシャットアウトしていた。
普通の人間は、ユウマだけだった。
「こ、こんなの、登れるわけないだろ!」
ユウマが、涙目で叫ぶ。
「主サマ、ウケる。根性なさすぎ」
アイが、呆れたように言った。
「風のシルフィードは、この山脈で、一番高い山の、てっぺんにいるんだって。さっさと行くよ!」
ユウマは、半ば、ガガルに荷物のように担がれながら、地獄の登山を開始した。
吹き荒れる暴風。切り立った崖。転がり落ちてくる岩石。
何度も、死にかけた。
数時間後。
一行は、ボロボロになりながらも(ユウマだけが)、ついに、山脈の最高峰へとたどり着いた。
そこは、雲よりも高い、吹き曝しの頂。そして、その中央には、巨大な、風化した石の玉座が、ぽつんと置かれていた。
すると、どこからともなく、少女のような、しかし、どこか気まぐれな、甲高い声が、響き渡った。
『あら、珍しいお客さんね。こんなところまで、よく来れたじゃない』
風が、渦を巻く。
そして、その風が、玉座の上で、ゆっくりと、人の形を成していく。
現れたのは、半透明の、翠色の髪をなびかせた、小柄な少女の姿だった。
風の精霊、シルフィードだった。
シルフィードは、一行を見下ろすと、やがて、ユウマの腕の中にいる、チビすけに気づき、興味深そうに、目を細めた。
『へえ…。泉の、新しい子? あんたが、その子の、親? ふーん…』
シルフィードは、ユウマの周りを、くるくると飛び回りながら、品定めするように、彼を観察している。
そして、にやり、と、悪戯っぽく笑った。
『いいわ。祝福してあげる。でも、タダじゃ、つまらないでしょ?』
彼女は、山頂の、断崖絶壁の、一番端を指さした。
その崖の先には、一輪だけ、青白く輝く、美しい花が咲いていた。
『あたしの、お気に入りの花よ。あの花を、あたしのところに、持ってきてごらんなさいな。できたら、祝福してあげる』
それは、あまりにも、無邪気で、残酷な試練だった。
崖の先までは、ほんの数メートル。しかし、そこは、足場も悪く、下は、奈落の底。そして何より、いつ、突風が吹くか、分からない。
「ふざけるな!」
ガガルが、怒りの声を上げる。
「ユウマ様に、そのような危険な真似をさせられるか!」
「そうですわ! それは、あまりにも…!」
アリアも、抗議の声を上げようとする。
しかし、ユウマは、そんな仲間たちを、手で制した。
彼の瞳には、これまで見せたことのない、静かな、決意の光が宿っていた。
腕の中で、チビすけが、きゅるる、と、不安げな光を放っている。
その光を見て、ユウマの心は、決まっていた。
(俺が、やらなきゃ、ダメなんだ)
父親として。
ユウマは、チビすけを、アリアにそっと預けると、一人、崖の先へと、歩き始めた。
「主サマ!?」
「ユウマ様!」
仲間たちの、悲鳴のような声が、背後から聞こえる。
ユウマは、振り返らなかった。
ただ、まっすぐに、崖の先に咲く、一輪の花だけを見つめていた。
一歩、また一歩と、慎重に、足を進める。
あと、もう少し。
彼が、花に、手を伸ばそうとした、その、瞬間だった。
ごうっ!
これまでで、最大級の突風が、ユウマの身体を、横から、殴りつけた。
彼の身体が、ぐらり、と傾く。
(あ、落ちる)
死を、覚悟した。
しかし、その時、ユウマの脳裏に浮かんだのは、自分のことではなかった。
腕の中で、温かい光を放っていた、あの、小さな芽の姿だった。
(あの子を、一人には、できない…!)
ユウマの**『父親としての、責任感』。
それが、シルフィードの『ただの、気まぐれな、遊び心』**と衝突し、『概念誘導』を、発動させた。
【ユウマの『責任(守りたい)』という概念が、シルフィードの『気まぐれ(試したい)』によって、『風の支配(従えたい)』の概念へと反転・昇華される】
世界から、風の音が、消えた。
ユウマを、奈落へと突き落とそうとしていた、暴力的なまでの突風が、まるで、飼い主の命令を待つ、忠実な犬のように、彼の周りで、ぴたり、と、その動きを止めたのだ。
いや、止まっただけではない。
風は、ユウマの身体を、優しく、そして、力強く、支えていた。
「…………え?」
シルフィードの、驚愕に、目を見開いた顔が、そこにあった。
彼女は、信じられないものを見る目で、呟いた。
『うそ…。あたしの風が…言うことを、聞かない…?』
ユウマは、風に支えられながら、何事もなかったかのように、崖の先に咲いていた花を、そっと摘み取った。
そして、シルフィードの元へと、戻っていく。
ユウマは、自分が、今、とんでもないことを、しでかしたという自覚すらないまま、ただ、父親としての、最初の役目を、果たしたことに、ほっと、胸を撫で下ろしていた。
風の精霊は、自らが操るはずの風に、裏切られ、その風が、傅いている、ただの人間の男を、呆然と、見つめることしか、できなかった。




