第五十四話 賢者の安静と、嫌われ者の忠誠
生命の奔流が世界を書き換えた、あの衝撃的な事件から、丸一日が過ぎた。
ユウマは、アイの家の、フリフリのベッドの上で、人形のように、ただ静かに眠り続けていた。
あの壮絶な体験は、彼の精神を、完全に燃え尽きさせてしまったようだった。
塔の中は、水を打ったような静寂に包まれている。
アリアは、ベッドの傍らで、静かに祈りを捧げている。
アイは、心配そうに、主サマの寝顔を、じっと見つめている。
リリスは、ソファから、ユウマという存在の謎について、珍しく真剣な表情で、思索に耽っていた。
精霊王でさえ、時折、様子を見に来ては、静かにため息をついて、帰っていく。
誰もが、ユウマの安静を、固唾を飲んで、見守っていた。
―――ただ一人を除いて。
ドッシン! ドッシン!
「むん! 異常なし!」
ガガルだった。
彼は、主君の眠りを守るという使命感に燃え、この、可愛らしいキノコの家の中を、軍靴で、警備の巡回を行っていたのだ。
その、巨体から繰り出される、無駄に力強い足音は、家全体を揺るがし、壁に飾られたアイのガラクタコレクションを、カタカタと震わせている。
「…ねえ」
最初に、沈黙を破ったのは、アイだった。彼女の額には、青筋が浮かんでいる。
「…ちょー、うるさいんだけど。主サマ、寝てんの、見えないわけ?」
「フン! 主君の安眠を守るための、警備である! 油断はできん!」
ガガルは、悪びれる様子もなく、胸を張る。
「そうですけど、ガガルさん…!」
アリアも、困ったように、眉をひそめた。
「その足音では、かえって、賢者様のお身体に障りますわ…!」
「なにを言うか! 我が力強い足音は、魔を祓う、破邪の響き! むしろ、心地よいはずだ!」
ガガルは、全く、話が通じない。
ゴトッ! バキッ!
今度は、彼が、巡回中に、うっかり、アイが集めたキラキラ光る石のコレクション棚に、体をぶつけた音だった。棚は、無惨にも、ひしゃげている。
「あーっ! ウチのコレクションが!」
「む、すまん。少し、道が狭すぎたようだ」
「あんたが、デカすぎるだけでしょ!」
その時、ガガルの鼻が、くんくん、と動いた。
「そうだ! ユウマ様は、きっと、腹が減っておられるのだ! 俺が、何か、栄養のあるものを!」
そう言うと、ガガルは、家の外に飛び出し、どこからか、人の頭ほどもある、紫色の斑点がついた、毒々しいキノコを、もぎ取ってきた。
「見ろ! なんとも、力がみなぎりそうなキノコだ!」
彼は、そのキノコを、部屋の中央で動画を再生していた、水晶の上で、直接、炙り始めた。
じゅうううう、という音と共に、鼻を曲げるような、猛烈な悪臭が、部屋中に、充満する。
「「「くっさ!!」」」
リリス、アイ、アリアの声が、綺麗にハモった。
「やめて! それ、食べたら、三日間、世界が逆さまに見える、幻覚キノコだから!」
アイの絶叫も、ガガルの耳には届かない。
「よし、焼けたぞ! ユウマ様! お食事ですぞ!」
悪臭を放つ、謎のキノコの串焼きを手に、ガガルが、ユウマのベッドへと、ずかずかと近づいていく。
その時だった。
「…るさい…」
ベッドの中から、か細い、しかし、はっきりと、声が聞こえた。
全員の動きが、ピタリ、と止まった。
視線が、ベッドへと、集中する。
ゆっくりと、ユウマが、その虚ろな瞳を、開いた。
彼は、部屋の中の惨状――ひしゃげた棚、散らばるガラクタ、悪臭を放つ謎のキノコ――を、ぼんやりと見渡した。
そして、その焦点が、キノコを手に、突っ立っている、ガガルに、ぴたり、と合った。
ユウマの、乾いた唇が、動いた。
「…………ガガル」
「は、はい! ユウマ様! お目覚めですか!」
ガガルが、嬉しそうに、声を上げる。
「……………嫌い」
「…………はい?」
ガガルは、自分が、今、何を言われたのか、理解できなかった。
ユウマは、その一言だけを呟くと、再び、深い眠りの中へと、沈んでいった。
シーン、と静まり返る部屋。
やがて、ガシャアン!と、派手な音がした。ガガルが、手から、キノコの串焼きを、取り落とした音だった。
「……き…」
彼の、屈強な身体が、わなわなと、震え始めた。
「……き、嫌われた…? わ、我が…ユウマ様に…? この、ガガルが…?」
その瞳から、滝のように、涙が、溢れ出した。
「そ、そんな…! 俺は、ただ、ユウマ様のために…! うわあああああああああああん!!」
魔王軍の元幹部は、その巨体を、床に突っ伏させ、子供のように、声を上げて、泣きじゃくり始めた。
その、あまりにも情けない姿を見て、アイとリリスは、必死に、笑いを堪え、アリアは、「あわわ…」と、オロオロするだけだった。
世界の理を書き換える、神の如き奇跡を起こした後。
ユウマが、最初に発した、その言葉は、一人の、忠実すぎる(そして、少し、頭の足りない)部下の心を、木っ端微塵に、粉砕してしまったのだった。




