第五十三話 生命の奔流と、畏怖の沈黙
世界は、生命の暴力的なまでの歓喜に、満ち満ちていた。
黒い泥が消え去った泉は、底にある白い砂の一粒一粒までが見えるほどに澄み渡り、その水面は、空のオーロラを映して、瑠璃色に輝いている。
周囲には、一夜にして千年分の成長を遂げたかのような、巨大な花々が咲き乱れ、黄金の果実を実らせた木々が、甘い香りを放っていた。
その、あまりにも完璧で、あまりにも急激な、創世記のような光景の中心で。
ユウマは、ただ、空虚な瞳で、水面に浮かんでいた。
静寂を破ったのは、精霊王ファーンのかすれた声だった。
「…浄化…ではないな…」
老いた王は、わなわなと震える手で、自らの髭を掴んだ。
「あれは…『創生』じゃ。…『無』を、『有』で、塗り潰した…。生命そのものの、原初の叫びじゃ…」
その声で、仲間たちも、ようやく、呪縛から解き放たれた。
「主サマ!」
アイが、真っ先に、清らかな泉へと飛び込んだ。アリアも、その後に続く。
二人は、放心状態のユウマを抱きかかえ、岸辺へと、そっと運んだ。
ユウマの身体は、氷のように冷え切っていた。しかし、それは、泉の水の冷たさではない。自らが引き起こした、理解不能な現象に対する、魂の凍てつきだった。
ガガルは、そんな主君の姿と、生まれ変わった森の光景を、交互に見比べ、ゴクリと、喉を鳴らした。
(…俺は…とんでもないものの、背中を押してしまったのかもしれん…)
彼の、主君への信仰に、初めて、純粋な『畏怖』という感情が、混じり始めた。
そして、リリスは。
彼女は、もはや、笑っていなかった。
その瞳は、ユウマという、あまりにも巨大な『謎』を前にして、魔神としての本能が、最大限の警戒と、そして、何よりも強い好奇心で、爛々と輝いていた。
(『死にたくない』…たった、それだけの感情で、世界の理を、ひっくり返した…? 冗談じゃないわよ…。もし、この子が、本気で、『何かが欲しい』と、願ったら…? この世界、どうなっちゃうの…?)
一行は、言葉を失ったまま、ユウマを連れて、アイの家へと、戻った。
ユウマは、アイの、あの少女趣味なベッドに、そっと寝かされる。彼は、もはや、それに文句を言う気力もなく、人形のように、されるがままになっていた。
残された仲間たちと、精霊王は、家の外で、重い沈黙の中、顔を突き合わせていた。
最初に、口を開いたのは、精霊王だった。
彼の顔から、人の良い「じいちゃん」の顔は、完全に消え失せていた。そこにあったのは、数千年の時を生きる、森の王としての、厳格な表情だった。
「…全てが、変わった」
王は、静かに、しかし、有無を言わせぬ響きで、言った。
「宝玉が、あの人の子を、この地に導いたのではない。あの人の子が、その体質で、宝玉を、そして、我らを、この地へと、引き寄せたのじゃ」
王は、ユウマが眠る、家の扉を見つめた。
「あれは、賢者などではない。ましてや、聖者でも、魔王でもない」
彼の声には、深い、深い、畏怖が滲んでいた。
「あれは、ただ、そこに『在る』だけで、世界の理に、バグを生じさせる、歩く『概念の特異点』じゃ。…我らは、とんでもないものを、この聖域に、招き入れてしまったのかもしれんぞい」
精霊の国の、長年の病は、癒された。
しかし、その代償として、彼らは、その病とは、比べ物にならないほど、巨大で、予測不可能な、新たな『厄災の種』を、手に入れてしまった。
ユウマの、平穏を求める逃避行は、彼自身が、世界の平穏を、根底から覆しかねない、究極のイレギュラーであるという、絶望的な真実を、白日の下に、晒してしまったのだった。




