第五十二話賢者の躊躇と、生命の絶叫
「おぬししか、おらんのじゃ! 泉の底にある、封印の礎を、その手で、浄めてはくれぬか!」
精霊王ファーンの、悲痛なまでの懇願。
仲間たちの、狂信的なまでの期待の眼差し。
ユウマは、完全に、追い詰められた。
「…わ、分かりました…。やって、みます…」
彼は、幽鬼のような足取りで、一人、黒い泉のほとりへと、歩みを進めた。
ぶくぶくと、不気味な音を立てて、湧き上がる、黒い泥。生命の存在を、拒絶するような、腐敗臭が鼻をつく。
(怖い…死にたくない…でも、やるしかない…)
ユウマの心は、恐怖と諦観の間で、ぐちゃぐちゃになっていた。
彼は、震える指先を、ゆっくりと、その黒い泥へと、差し入れた。
ほんの少しだけ、触れてみる。
その、瞬間だった。
黒い泥は、浄化されるどころか、まるで、餌に食らいつく獣のように、ユウマの指先へと、黒い触手を伸ばした!
「ひっ!?」
ユウマは、反射的に手を引っ込める。触手は、空を切り、再び泥の中へと消えたが、彼の指先には、凍るような冷たさと、生命力を吸い取られるような、嫌な感覚だけが残った。
泉の淀みは、むしろ、先ほどよりも、邪悪な気配を増しているようだった。
「…だめだ…やっぱり、俺には…」
ユウマが、絶望に顔を歪ませ、後ずさった、その時。
「ユウマ様ッ!!」
背後から、雷のような怒声が響いた。
ガガルだった。彼は、ユウマの、あまりにも及び腰な態度に、完全に、痺れを切らしていた。
「何を、ためらっておられるのですか! 貴方様ほどの御方が、覚悟を決めれば、このような淀み、一瞬で浄化できるはず!」
「だ、だって、今のは…!」
「言い訳は無用!」
ガガルは、ユウマの身体を、赤子でも抱きかかえるように、軽々と、横抱きにした。
「貴方様の、その、ほんのわずかな迷い! このガガルが、断ち切ってしんぜよう!」
「え、ちょ、なにするの、やめ―――」
「おおおおおおっ!!」
ガガルの雄叫びと共に、ユウマの身体は、まるで砲弾のように、黒い泉の中心部へと、投げ込まれた。
視界が、スローモーションになる。
仲間たちの、驚愕の顔。
精霊王の、絶望の顔。
そして、眼下に迫ってくる、死そのものであるかのような、黒い泥の海。
(死ぬ)
その、絶対的な予感が、ユウマの脳を支配した。
(いやだ)
今までの、諦めや、絶望が、全て、吹き飛んでいく。
(死にたくない)
コンビニ店員として生きてきた、平凡な日々。この世界に来てからの、理不尽な日々。その全てが、愛おしく思えた。
(死にたくない! 死にたくない! 死にたくないんだあああああっ!!)
それは、もはや、思考ではない。
生命そのものが、絶滅を前にして、絞り出した、究極の、存在への渇望。
魂からの、絶叫だった。
ユウマの**『死への絶対的拒絶』**。
それが、引き金だった。
彼の身体を触媒として、『概念誘導』が、世界の理を書き換えるほどの、暴走を始める。
【ユウマの『死にたくない(拒絶)』という概念が、瘴気の『無に還す(摂理)』と衝突 → 『生命の絶対肯定』の概念へと反転・爆発する】
ユウマの身体から、光が、放たれた。
それは、聖なる光ではない。緑色の、生命力そのものが、凝縮され、爆発したかのような、暴力的なまでの、生命の奔流だった。
光は、黒い泉に叩きつけられた。
浄化ではない。上書きだ。
『死』の概念を、『生』の概念が、力づくで、塗り潰していく。
ジュウウウウウウッ!
黒い泥が、まるで、灼熱の鉄に触れた水のように、蒸発し、消滅していく。
その跡から、水晶のように透き通った水が、湧き上がるのではなく、爆誕した。
泉のほとりで、朽ち果てていた草花は、一斉に、ありえないほどの速度で、芽吹き、咲き乱れ、森を形成するほどの、巨大な花へと、変貌していく。
枯れていた木々は、瞬時に、青々とした葉を茂らせ、その枝には、黄金の果実が、鈴なりになった。
世界が、生命の暴力に、満たされていく。
やがて、光が収まった時。
ユウマは、美しく生まれ変わった泉の中心で、水面に、ぷかぷかと、浮かんでいた。
彼は、気を失ってはいなかった。
ただ、自らが引き起こした、あまりにも、荒々しい奇跡を前にして、その魂が、完全に、燃え尽きていた。
「……………」
誰もが、声も出せずに、その光景を見つめていた。
それは、穏やかな治癒ではない。
死にたくないと叫んだ、一つの生命が、世界に、無理やり、生命を肯定させた、あまりにも、圧倒的な、力の顕現だった。
ユウマは、美しすぎる泉の中で、ただ、震えていた。
死ななかった。
しかし、彼は、自分の、最も原始的な感情が、世界を、これほどまでに、暴力的に、書き換えてしまうという、新たな、そして、最大の恐怖を、その身に、刻み付けられたのだった。




