第五十一番 不治の病と、賢者の役割
第五十一番 不治の病と、賢者の役割
「おぬしが、今、垣間見たもの。それこそが、この『精霊の国』を、内側から蝕み続ける、不治の病の正体なのじゃよ」
精霊王ファーンの、重い言葉が、アイの家の、俗っぽい空気を、聖域のように張り詰めさせた。
彼は、一行に「ついてまいれ」と、身振りで示すと、ゆっくりと、家の外へと歩き出した。
一行が、精霊王に導かれてたどり着いたのは、先ほどまでの、光と生命力に満ちた場所とは、まるで正反対の光景だった。
そこは、かつては、美しい泉であっただろう、場所だった。
しかし、今、その泉の水は、濁り、淀み、中心からは、まるで石油のような、黒く、粘着質な「泥」が、ぶくぶくと、絶えず湧き出している。
周囲の木々は、力なく枯れ、地面の草花は、灰色に変色して、朽ち果てていた。
生命の楽園の中に、ぽっかりと空いた、死の空間だった。
「…ひどい…」
アリアが、思わず、口元を覆う。
「ここが、我が国の心臓、『生命の泉』じゃ」
精霊王は、悲しげに、その光景を見つめて言った。
「そして、あの黒い泥こそが、病の正体。『無名の瘴気』。神代の時代に、我らが祖先が、この泉の底に封じ込めた、万物を『無』に還す、呪いの塊じゃよ」
「瘴気だと!?」
ガガルが、戦斧を握りしめる。
「ならば、その根源を、俺が叩き潰してくれる!」
「ならぬ」
精霊王は、静かに、首を横に振った。
「あの瘴気は、魔力、聖気、生命力、ありとあらゆる『力』を、喰らう。近づく者は、例外なく、その力を吸い尽くされ、魂ごと、ただの泥に還る。我ら精霊族では、手も足も出せんのじゃ」
「…なんて、厄介な代物ね」
リリスが、初めて、その表情に、険しい色を浮かべていた。
精霊王は、ユウマに向き直った。その瞳には、藁にもすがるような、切実な光が宿っていた。
「『精霊の宝玉』は、この瘴気に耐えきれず、自ら、浄化の力を持つ『主』を探しに、外の世界へと逃げ出した。ワシは、それを、ただの落とし物と、思うておったが…」
彼の視線が、ユウマの、青ざめた顔に、突き刺さる。
「宝玉は、おぬしを選んだ。何の魔力も、聖気も持たぬ、ただの人の子を。なぜか、分からなかった。…だが、今なら、分かる」
精霊王は、ユウマと、その背後にある、死の泉を、交互に見比べた。
「おぬしは、あの瘴気の前に立っても、平然としておる。怯えてはおるが…その魂は、一欠片も、喰われておらぬ」
その言葉に、ユウマ以外の全員が、ハッとした。
確かに、そうだ。ガガルやアリア、リリスでさえ、あの瘴気を前にして、無意識に、自らの力を吸われないよう、身構えている。
しかし、ユウマだけが、ただ、人間として、その脅威の前に、立っている。
ユウマ自身は、ただ、怖すぎて、動けないだけだった。
魔力も聖気もない彼にとって、あの黒い泥は、ただの「汚いヘドロ」にしか見えず、その本質的な脅威を、肌で感じ取れていなかったのだ。
しかし、その『無知』と『無力』こそが、精霊王の脳内に、最後の、そして、最大の、希望的観測(勘違い)を、生み出した。
(そうか…! 王都の玉座で、この少年が言い放った言葉…!)
『私は、偽物です』
『僕は、ただの、何の力もない一般人です』
(あれは、謙遜でも、ましてや、真理の説法でもなかったのか…!)
(あれこそが、この少年の、本質! あらゆる力から、隔絶された、絶対的な『無』! 『空っぽ』の器!)
(瘴気が、『力』を喰らうのなら、そもそも『力』を持たぬ者だけが、唯一、あれに触れることができる!)
精霊王の目に、再び、光が宿った。
彼は、ユウマの肩を、強く、強く、掴んだ。
「大賢者ユウマ殿!」
その声は、もはや、懇願だった。
「おぬししか、おらんのじゃ! 宝玉に選ばれし、奇跡の『空っぽ』! どうか、あそこへ行き、泉の底にある、封印の礎を、その手で、浄めてはくれぬか!」
「…………はい?」
ユウマは、自分が、今、何を言われたのか、全く、理解できなかった。
ただ、目の前の、偉いじいちゃんが、あの、どう見てもヤバい、黒いヘドロの中に、入れ、と言っていることだけを、辛うじて、認識した。
彼の、無力さ。
彼の、平凡さ。
彼の、一般人であるという、唯一の真実。
それが、今、彼を、この世で最も危険な場所へと、突き落とそうとしていた。




