第四十六話 森の賢者と、賢者のスープ
「誰か、いる」
アイの囁きに、焚き火の周りの空気が、一瞬にして凍りついた。
ガガルは、音もなく戦斧を手にし、リリスは、その瞳の奥に、愉悦の光を宿らせる。アリアは、胸の前で、静かに護りの印を結んだ。
闇の向こうから、ゆっくりと、何かが近づいてくる。
それは、一体ではなかった。ざっ、ざっ、と、複数の足音が、落ち葉を踏みしめる音。
やがて、焚き火の光が届く範囲に、その異様な姿が現れた。
それは、人ではなかった。
樹皮のような皮膚、苔むした身体、そして、枝のように伸びた手足。それは、この古代樹の森そのものが、意志を持って動き出したかのような存在――森の賢者と畏れられる、古代種『トレント』の群れだった。
その中心に立つ、ひときわ巨大なトレントが、ゆっくりと、その枝のような腕を、ユウマたちに向けた。
その口(と思われる、幹の裂け目)から、古の、風が木々の間を抜けるような、荘厳な声が響いた。
『汝ら、土を踏む者よ。何故、この聖域を汚す』
それは、人間には到底理解できない、古代の精霊語だった。
「…なんだって?」
ガガルが、訝しげに眉をひそめる。
アリアも、その言葉の意味を解せず、困惑の表情を浮かべていた。
しかし、アイの顔は、驚愕と畏怖に染まっていた。
「…うそ…トレントじゃん…。しかも、喋ってるし…。伝説でしか聞いたことないんだけど…」
唯一、リリスだけが、その言葉の意味を正確に理解していた。
「あらあら。お怒りのようね。『聖域を汚すな』ですって」
巨大なトレントの、節穴のような瞳が、ゆっくりと、ユウマの懐に向けられる。
その瞬間、トレントたちの纏う空気が、明確な敵意へと変わった。
『その輝き…! 我らが森の至宝、『精霊の宝玉』! 汝ら、盗人か!』
ゴゴゴゴ…と、大地が鳴動する。トレントたちの身体から、無数の蔓や根が、蛇のように伸び、戦闘態勢に入る。
「フン! 問答無用か!」
ガガルが、トレントたちに向かって、一歩前に出た。
「我が主君の休息を妨げる痴れ者どもめ! このガガルが、薪にしてくれるわ!」
戦いが、始まろうとしていた。
ユウマは、目の前の、絶望的な光景に、パニックに陥っていた。
(なんで、こうなるんだよ!)
言葉が通じない。相手は、明らかに怒っている。そして、原因は、またしても、このヤバい石。
(違う、違うんだ! 俺たちは、盗んだわけじゃ…!)
ユウマは、どうにかして、この敵意を解かなければと、必死に考えた。
そして、彼の目に、あるものが映った。
それは、彼が、ついさっきまで食べていた、アイお手製の、温かいキノコのスープだった。
ユウマの中に、前世の、ごく当たり前の感覚が、蘇った。
ご近所トラブルがあった時、どうするか。菓子折りを持って、謝りに行くんだ。
彼は、ほとんど無意識に、そのスープの入った木皿を手に取ると、おそるおそる、トレントたちの前に、差し出した。
「あ、あの…! これ、どうぞ…!」
それは、敵意がないことを示すための、あまりにも拙く、あまりにも場違いな、平和的ジェスチャーだった。
しかし。
その行為は、森の賢者たる、古代種トレントの、数千年に及ぶ価値観を、根底から揺るがした。
【ユウマの『平和的ジェスチャー(ごめんなさい)』が、トレントの『森の摂理(循環)』によって、『聖なる返礼(感謝)』の概念へと反転・昇華される】
トレントたちの思考に、雷が落ちたかのような衝撃が走る。
(…なんと…!)
彼らの目には、ユウマの行動が、全く違う意味で映っていた。
(この『土を踏む者』は…我々から、森の恵み(キノコや木の実)を、一方的に奪ったのではない…!)
(森から得た恵みを、炎(文明の力)で調理し、それを、我々、森の主へと、感謝の儀式として、捧げているのだ!)
(これは…! 古の時代に、エルフ族が、我々と交わしたという、伝説の『返礼の儀』そのものではないか!)
トレントたちを縛っていた、侵入者への敵意が、霧のように消え去っていく。
そして、その跡には、数千年ぶりに、聖なる儀式を執り行う、敬虔なる存在への、絶対的な尊敬の念だけが残った。
巨大なトレントは、ゆっくりと、その枝の腕を下げると、ユウマの差し出したスープ皿から、一滴だけ、その指先(枝先)に、雫をつけた。そして、それを、自らの幹へと、静かに吸い上げていく。
『…受け取ったぞ、土の友よ』
トレントの声は、穏やかで、慈愛に満ちたものに変わっていた。
『我らは、汝らを、歓迎する。さあ、友よ。この森の、真の姿を見せてやろう』
トレントが、その巨大な腕で、森の奥を指し示すと、それまで、ただの木々の壁にしか見えなかった空間が、淡い光を放ち始め、まるで、月の光で編まれたかのような、美しい、秘密の小道が現れた。
その、あまりにも幻想的な光景を前にして、ユウマ以外の全員が、呆然としていた。
「…うそでしょ…。トレントが、道を譲った…?」
アイは、信じられないものを見る目で、呟いた。
「我が主君は…森の賢者すら、その徳の高さで、ひれ伏させるとは…!」
ガガルは、もはや、感動で打ち震えている。
「まあ…。自然との、なんと美しい対話でしょう…」
アリアは、目に涙を浮かべて、その光景に祈りを捧げていた。
リリスだけが、ユウマの顔と、スープ皿を交互に見比べ、くつくつと、喉の奥で笑っていた。
(ただのキノコスープで、古代種を手懐けちゃったわよ、この子…)
ユウマは、ただ、自分の差し出したスープが、受け取ってもらえたことに、ほっと胸を撫で下ろしていた。
彼は、自分が、またしても、この世界の、伝説級の存在を、勘違いの渦に巻き込んでしまったことに、全く、気づいていなかった。




