第三十六話 迎撃の準備と、執事の嗜み
「今宵、月が最も高き時」
脅迫状に記された、運命の刻限まで、あと数時間。
星見の塔の中は、かつてないほどの、熱気と殺気に満ちていた。
「に、逃げよう! ロデリックさん、裏口とかないの!?」
「ご安心を、大賢者様。当塔のセキュリティは完璧にございます」
ユウマは、唯一まともそうな執事長に助けを求めるが、ロデリックは完璧な礼儀作法で、その訴えを却下した。
一方、ユウマの従者たちは、それぞれのやり方で、「おもてなし」の準備を始めていた。
「フン! 来るなら来い! 返り討ちにしてくれるわ!」
ガガルは、塔の一階で、原始的かつ、殺意に満ちた罠の設営に勤しんでいた。床に落とし穴を掘ろうとしてロデリックに「塔の構造上、それは…」と止められ、代わりに、扉が開いた瞬間に巨大な丸太がスイングする、古典的なトラップを設置している。
「聖なる祈りの前に、穢れた魂はひれ伏すでしょう」
アリアは、塔の窓という窓、扉という扉に、銀色の粉末で複雑な魔法陣を描いていた。それは、アンデッドや魔族を退けるための、神聖な結界。塔全体が、彼女の祈りによって、一つの聖域と化しつつあった。
「あらあら、二人とも張り切ってるわねえ」
リリスは、ソファに寝そべり、優雅にワイングラスを傾けていた。彼女は一見何もしていないように見えたが、その足元では、影が生き物のように蠢き、粘着質で、甘い香りのする、捕獲用の罠を編み上げていた。彼女の目的は、暗殺者の殲滅ではなく、生け捕りにして、じっくりと「お話」を聞くことだった。
ユウマは、そんな殺る気満々の仲間たちから逃げるように、自室のベッドに潜り込み、布団を頭まで被ってガタガタと震えていた。
その、あまりにも完璧な混沌を、執事長ロデリックは、表情一つ変えずに、完璧にサポートしていた。
「ガガル様。もしよろしければ、こちらのワイヤーをお使いください。ドワーフの髭で編んだ、決して切れぬ逸品にございます。丸太の固定も、より強固になりましょう」
「む、おお!気が利くな!」
「アリア様。聖別された銀粉もよろしいですが、月の光を浴びせた水晶の粉末を混ぜますと、結界の強度が17%ほど向上する、というデータがございます。こちらに」
「まあ、ご親切にどうも、ロデリックさん」
「リリス様。もし、お客様を捕らえられた後の『おもてなし』の場所に、お困りでしたら。当塔の地下室は、完全な防音設計となっております。お夜食の準備も、いつでも」
「あら、気が利くじゃない。覚えておくわ」
そして、ロデリックは、ユウマが震える寝室の扉を、静かにノックした。
「大賢者様。迎撃の準備でお疲れでしょう。安眠効果のある、温かいハーブティーをお持ちいたしましたが、いかがでしょうか?」
ベッドの中から、ユウマのくぐもった声が聞こえた。
「…もう、ほっといてください……」
「かしこまりました」
ロデリックは、完璧な一礼をすると、静かに扉を閉めた。
やがて、運命の刻が近づく。
塔の中は、ガガルの仕掛けた物理トラップ、アリアの張った神聖結界、そしてリリスの編み上げた魔の罠が、複雑怪奇に絡み合う、悪夢の要塞と化していた。
従者たちは、それぞれの配置につき、獲物が来るのを、今か今かと待ち構えている。
そして、ついに、王都の鐘が、真夜中を告げ始めた。
その頃。
星見の塔を見上げる、闇の中。
黒装束に身を包んだ、十数人の影があった。『黒蠍団』。その名を知る者は、恐怖に震えるという、伝説の暗殺者集団。
「…なんだ、あそこは」
一人が、訝しげに呟いた。
彼らの持つ、魔力感知の邪眼には、星見の塔が、この世のものとは思えぬ、禍々しいオーラを放っているように見えた。
屈強な魔物の殺気。
清らかだが、触れれば焼き尽くされそうな聖気。
そして、その二つを嘲笑うかのような、深淵の如き妖気。
それらが、奇妙なバランスで混ざり合い、塔全体を覆っている。
「…報告と違うな。ただの偽賢者ではないのか」
「罠か…?」
「だが、我々は『黒蠍団』。依頼は、必ず遂行する」
団長らしき男の、低い声。
「…全員、散開して侵入する。何があろうと、目標の首を取るまで、止まるな」
「「「はっ!」」」
黒き蠍たちが、音もなく、闇に溶けるように、塔へと向かって動き出した。
彼らはまだ、知らない。
自分たちが、これから足を踏み入れるのが、ただの賢者の塔ではなく、この世で最も危険で、最も混沌とした、魔境の入り口だということを。
ユウマの、人生で最も長い夜が、今、始まった。




