第三十五話 賢者の無気力と、新たな火種
リリスに、自らの存在そのものが「最高のエンターテイメント」であると断言されてから、数日が過ぎた。
ユウマは、完全に、燃え尽きていた。
星見の塔の最上階で、彼はただ、窓の外を虚ろな目で眺めて過ごしていた。
もはや、誤解を解こうという気力すら湧いてこない。何かを言えば、それがまた新たな勘違いを生む。何かをすれば、それが新たな奇跡に変換される。ならば、何もしないのが一番だ。
彼は、食事も喉を通らず、ただロデリックが淹れる紅茶だけを、かろうじて口にしていた。
その無気力な姿は、仲間たちの目には、またしても全く違うものとして映っていた。
「見ろ、アリア。ユウマ様は、深く瞑想に入っておられる。王都に来てからの数々の出来事を、その深淵なる思考の中で、反芻しておられるのだ」
ガガルは、ユウマの姿に畏敬の念を深めていた。
「ええ。きっと、この国、いえ、この世界の未来を、見通しておられるのでしょう。我々が、軽々しくお声をかけるべきではありませんわ」
アリアもまた、静かにその姿を見守っている。
リリスは、そんなユウマの様子を、ソファに寝そべりながら面白そうに眺めていた。
(あらあら、完全に心が折れちゃったわね。まあいいわ。あんたが『無』であればあるほど、周りが勝手に意味を見出してくれる。最高の舞台装置よ)
こうして、星見の塔には、奇妙な平穏が訪れていた。
賢者は黙して動かず、従者たちはそれを静かに見守る。完璧な執事が、その完璧な日常を維持している。
しかし、世界は、彼らの平穏を許しはしない。
その日、塔に一本の矢文が撃ち込まれた。
矢は、最上階の窓の木枠に、深く突き刺さる。常人ならば、王城の、それも星見の塔にまで矢を届かせることなど不可能。常軌を逸した、達人による所業だった。
ガガルが、即座に矢を掴み取り、そこに結びつけられた手紙を広げる。
それは、血で書かれたかのような、禍々しい文字で綴られていた。
『偽りの賢者ユウマに告ぐ。貴様の化けの皮、我らが手で剥がし、その首を、王の前に晒してくれよう。今宵、月が最も高き時、裁きの刃が汝の喉元に届くであろう』
差出人の名はない。しかし、その文面からは、ユウマの存在を断じて認めないという、強烈な殺意と敵意が滲み出ていた。
「―――ッ!!」
手紙を読んだガガルの身体から、凄まじい怒りの覇気が立ち上った。
「愚かな! 我が主君に、このような無礼な脅迫状を送りつけてくるとは! どこのどいつだ! 今すぐ探し出し、八つ裂きにしてくれる!」
「お待ちください、ガガルさん!」
アリアが、手紙を覗き込み、顔を青ざめさせた。
「この紋章…! 手紙の隅に押された、この黒き蠍の紋章は、王家に仇なす、伝説の暗殺者集団『黒蠍団』のものですわ! 彼らは、金でどんな汚れ仕事も請け負う、影の存在…!」
「つまり、誰かがユウマを殺すために、プロを雇ったってことね」
リリスが、退屈そうにあくびをしながら言った。
「あんたを疎ましく思う貴族なんて、掃いて捨てるほどいるでしょうし。宰相の『スープとパンの政策』で、既得権益を脅かされてる連中あたりが怪しいわね」
暗殺者。脅迫状。
その物騒な単語の数々に、虚ろだったユウマの目が、ようやく現実へと引き戻された。
(…殺される…?)
その、あまりにも直接的な生命の危機を前に、彼の心臓が、久しぶりに大きく脈打った。
勘違いで祭り上げられるのも、こりごりだ。だが、勘違いで殺されるのは、もっとごめんだ。
「ど、どうしよう…! 逃げないと…!」
ユウマは、ガタガタと震えながら、塔の出口を探そうとした。
しかし、ガガルが、その肩を力強く、しかし優しく掴んだ。
「お案じなさいますな、ユウマ様」
彼の瞳には、絶対的な忠誠と、そして暗殺者に対する、燃えるような怒りの炎が宿っていた。
「このような、陰でコソコソと動く卑劣漢どもに、ユウマ様のお指一本、触れさせはしませぬ! このガガル、この命に代えても、お守りいたします!」
「そうですわ、賢者様」
アリアも、決意を秘めた瞳でユウマを見つめる。
「貴方様の聖なるお身体を、穢れた刃で傷つけようとする者がいるのなら、わたくしの祈りは、彼らを打ち砕く、天罰の光となるでしょう」
リリスは、楽しそうに唇の端を吊り上げた。
「あら、面白くなってきたじゃない。久しぶりに、退屈しのぎができそうだわ」
仲間たちの、あまりにも頼もしい(そして、戦闘狂な)反応。
ユウマは、自分が殺されるかもしれないという恐怖と、そのために仲間たちが本気を出すという、別の恐怖に挟まれ、ただ青い顔で立ち尽くすことしかできなかった。
王国大賢者、ユウマ。
彼の次なる試練は、神学論争でも、政治問答でも、魔法の真理でもない。
純粋な、命の奪い合い。
伝説の暗殺者集団との、避けられぬ死闘の幕が、今、上がろうとしていた。




