第三十二話 賢者の指先と解けた真理
謁見の間から戻ったばかりの塔の中は、再び異様な緊張感に包まれた。
王国最高の魔術師、アリステアが提示した、美しくも危険な光の球体『クロノス・スフィア』。それが、全ての視線の中心にあった。
「さあ、大賢者殿。貴公には、この球体の『真理』が、どのように見えておりますかな?」
アリステアの挑戦的な問いに、ユウマは冷や汗をだらだらと流していた。
(真理なんて、分かるわけないだろ!)
宰相や司教の時とは訳が違う。あれは言葉のやり取りだった。だが、目の前にあるのは、触れれば因果律が崩壊するという、物理的な爆弾だ。下手に口を開けば、知ったかぶりだと見抜かれて、この爺さんの魔法で消し炭にされるかもしれない。
(どうしよう…どうしよう…)
ユウマの脳が、前世の経験を必死に検索する。
パソコンがフリーズした時、どうするか。…電源ボタンを長押しする。
ゲーム機がバグった時、どうするか。…リセットボタンを押す。
そうだ。複雑で、訳の分からないものが目の前にあったら、やることは一つ。
(とりあえず、突っつついてみる…!)
それは、あまりにも短絡的で、あまりにも原始的な、赤子同然の発想だった。
しかし、もはや他に何も思いつかない。
ユウマは、覚悟を決めた。
彼は、ゆっくりと、震える手を目の前の光の球体へと伸ばした。
その瞬間、部屋の空気が張り詰める。
アリステアは、これから行われるであろう、神業のような魔法の発動を、固唾を飲んで見守っていた。
リリスでさえ、その瞳から面白半分な色が消え、純粋な好奇心と警戒心を持って、ユウマの指先を見つめている。
そして、ユウマは――
ぴと。
人差し指で、その美しい光の球体を、ただ、軽く、突っついた。
まるで、スマートフォンの画面をタップするかのように。
次の瞬間、世界から音が消えた。
複雑怪奇に回転していた、球体内部の幾百もの歯車が、ギギ、と軋むような音を立てて、その動きを止める。
目まぐるしく明滅していた光が、その輝きを失う。
自己完結していたはずの時間の流れが、まるで出口を見つけたかのように、外側へと霧散していく。
そして、あれほど強大な魔力の塊だったクロノス・スフィアは、まるで砂糖菓子のように、キラキラとした光の粒子となって、音もなく崩れ落ち、消滅した。
後に残されたのは、完全な静寂と、呆然と立ち尽くす人々だけだった。
最初に、静寂を破る音を立てたのは、アリステアだった。彼の手から、ゴトリと、愛用の杖が滑り落ちた。
老魔術師は、わなわなと震えながら、ユウマの指先と、球体があった空間を、交互に見比べている。
(……なんということだ…)
アリステアの脳内に、言葉にならない衝撃が走っていた。
(魔法ではない…! 呪文も、魔力の発動も、一切なかった! ただ、『触れる』という、純粋な物理現象によって、あの時間の牢獄を、破壊したというのか!?)
アリステアは、魔術師として、常に複雑な術式を、さらに複雑な術式で上書きすることばかりを考えていた。
しかし、目の前の少年は、その全てを嘲笑うかのように、たった一つの『解』を示した。
(そうだ…! 時間の悖理とは、それ自体が不安定な概念の塊! そこに、『触れる』という、絶対的で、単一で、リニアな物理法則を突きつけることで、概念そのものを霧散させる! 結び目を解くのではない! 結び目が存在する『紐』そのものを、消し去ったのだ!)
(我々が、巨大な城を築いて洪水を止めようとしている間に、彼は、ただ、水源の蛇口をひねって、流れを止めてしまったのだ! なんという…なんという発想の転換! これこそが、真理!)
アリステアの魔術師としてのプライドと、これまでの研究の全てが、ガラガラと音を立てて崩れ去っていく。
そして、その跡には、純粋な、子供のような探究心と、目の前の存在への、絶対的な畏敬の念だけが残った。
「見事…」
ガガルが、感心したように呟く。
「我が主君の一突きの前には、あのような玩具、塵に同じか」
「…賢者様が、歪められた時の流れに、正しい『現在』という楔を打ち込まれたのですね…」
アリアは、神の御業を見たかのように、うっとりと祈りを捧げる。
リリスだけは、笑っていなかった。彼女は、真剣な、そして少しだけ怯えたような瞳で、ユウマを見つめていた。
(…時間のパラドックスに、直接干渉して、因果律の反動を一切受けない…? あんた、本当に、何者なの…?)
初めて、彼女はユウマの存在そのものに、底知れない謎と、わずかな恐怖を感じていた。
やがて、アリステアは、崩れるように、その場に膝をついた。
「…師よ!」
老魔術師は、ユウマに向かって、深々と頭を下げた。
「お見逸れいたしました! どうか、この愚かな老いぼれを、弟子にしてください! その深淵なる『魔法物理学』の真髄を、どうか、このワシにお教えください!」
王都魔術師ギルドの長が、ユウマに弟子の礼を取る。
その異常な光景を前にして、ユウマは、ただ、自分の指先を見つめていた。
(なんか、キラキラしたのが、消えちゃった…。俺、何か、壊しちゃったかな…?)
彼は、またしても、自分がとんでもないことをしでかしたという自覚すらないまま、この国の魔法史を、根底からひっくり返してしまったのだった。




