第三十一話 賢者の執務室と魔術師の来訪
リリスとガガルによる「執事長ロデリックのポーカーフェイスを崩せ」大作戦は、挑戦者側の完敗という形で幕を閉じた。
リリスは不機嫌そうにソファに寝そべり、ガガルはロデリックを見る目に畏敬の念を宿らせている。アリアは、ようやく訪れた平穏に、ぐったりと椅子に座っていた。
この塔で唯一、完璧な秩序を保つロデリックは、何事もなかったかのように紅茶を淹れ直すと、ユウマの前に静かに置いた。
「大賢者様。皆様の朝の体操が一段落いたしましたので、執務に戻られてはいかがでしょうか」
その言葉で、ユウマは現実に引き戻される。
彼の目の前のテーブルには、昨日から放置されている、国を揺るがす書類の山。
目を向けると、そこには、さらなる地獄が広がっていた。
宰相から預かった国策草案には、ガガルによって、墨で大きく「気に食わん貴族は、皆殺し!」と、あまりにも脳筋な修正案が書き加えられている。
アリアは、民衆の請願書を「緊急の祈祷が必要なもの」「時間をかけた祈祷で良いもの」に分類し、横でブツブツと祝詞を唱え始めている。
リリスは、貴族からの手紙を読みながら、「あら、この伯爵、男爵にも手を付けてるのね。節操ないわぁ」と、国家機密とは違う方向の情報を楽しそうに収集していた。
(これが…俺の執務室…)
ユウマは、もはや国がどうなっても知らないと、遠い目をした。
この混沌の行政を、唯一、表情一つ変えずに見守るロデリックこそが、真の魔王かもしれない。
その時、ロデリックがすっと立ち上がり、扉の方へ向かった。
「大賢者様。新たな来訪者にございます」
ユウマが止める間もなく、ロデリックは扉を開け、一人の老人を中に招き入れた。
入ってきたのは、星屑を刺繍したかのような、深い蒼色のローブを纏った老人だった。長く白い髭をたくわえ、その手には、先端に巨大な水晶が埋め込まれた杖を持っている。いかにも、という感じの大魔術師だった。
「これはこれは、騒々しいですな」
老人は、部屋の中の異様な光景を一瞥すると、興味深そうに目を細めた。
「私が、王都魔術師ギルドの長、ギルドマスターを務めております、アリステアと申します。…して、どの方が『大賢者』殿かな?」
アリステアの視線が、部屋の中を巡る。彼は、人ではなく、その者が内包する『魔力』を見ていた。
(凄まじい肉体強度を持つ魔族。清流のように澄み切った聖職者。そして…なんと、底の知れぬ深淵のような魔力を持つ女。…面白い。では、肝心の賢者殿は…)
彼の視線が、ユウマの上で、ピタリと止まった。そして、その眉が、わずかにひそめられる。
(…空っぽだ)
ユウマからは、赤子以下の、あまりにも微弱な魔力しか感じられない。
詐欺師か。いや、とアリステアは首を振る。これほどの猛者たちが、詐欺師に付き従うはずがない。
ならば、答えは一つ。
(己の魔力を、完全に『無』にまで抑制しているというのか…! なんという、恐るべきコントロール技術! このワシでさえ、気配を完全に消すことなどできぬというのに!)
アリステアは、ユウマが伝説級の実力者であると、瞬時に(そして、盛大に)勘違いした。
「ほう…! これは、面白い!」
アリステアは、子供のように目を輝かせると、ユウマの前に進み出た。
「大賢者殿。貴公の奇跡の噂は、ギルドにも届いております。しかし、我々魔術師は、己の目で見たものしか信じぬタチでしてな。…よろしければ、この老いぼれの、ささやかな知的好奇心を満たしてはくれませぬかな?」
アリステアが、詠唱もなしに杖を振るうと、彼の目の前に、無数の光の粒子が集まり、一つの球体を形作った。
それは、内側で幾百もの歯車が複雑に絡み合い、明滅を繰り返す、時計のような、宇宙のような、美しい光の球体だった。
「これは、ワシが作り出した『クロノス・スフィア』。内部に、自己完結した時間の悖理を内包しており、下手に触れれば、因果律そのものが崩壊する危険な代物ですじゃ」
アリステアは、楽しそうに言った。
「我々ギルドの総力を挙げても、この球体を安定させることすら叶わぬ。…さて、大賢者殿」
老魔術師は、挑戦的な笑みを浮かべて、ユウマに問いかけた。
「貴公のその『慧眼』には、この球体の『真理』が、どのように見えておりますかな?」
それは、神学論争でも、政治問答でもない。
この国最高の魔術師による、純粋な『魔法』の挑戦状。
ユウマは、目の前でキラキラと輝く、ただの綺麗な光の玉を、呆然と見つめていた。
(真理って言われても…ただの、ビー玉のお化けにしか…)
彼の沈黙を、アリステアは、深遠なる思索の時間と受け取り、固唾を飲んで、その答えを待っている。
ユウマの、王国大賢者としての、次なる試練の幕が、今、上がった。




