第三十話 執事長の完璧な日常と、魔神の退屈しのぎ
混沌に満ちた王国大賢者の初日は、混沌のまま進んでいた。
ガガルは国策草案を睨みつけながら「よし、まずこの気に食わん貴族を殴りに行く!」と物騒なことを言い、アリアは民衆の請願書を一枚一枚読みながら「まあ、肩こりのご相談…。女神様、彼の者に癒しを…」と祈り、リリスは貴族の手紙を読んで「あら、この侯爵、隣の男爵夫人と不倫してるのね」と下世話な情報を集めている。
そして、その全ての中心で、ユウマは魂が抜けたように、冷めたスープをただ見つめていた。
このカオスな空間で、唯一、完璧な秩序を保っている存在がいた。
執事長のロデリックである。
彼は、ガガルの殺気にも、アリアの聖気にも、リリスの妖気にも一切動じず、完璧な姿勢で直立し、空になった皿を適切なタイミングで下げ、的確な濃さの紅茶を淹れていた。その動きは、芸術の域に達している。
その完璧すぎる姿が、一人の魔神の女の退屈な心に、火をつけた。
「……ねえ、筋肉オーク」
リリスが、ガガルに楽しそうな声で囁きかけた。
「あの執事、完璧すぎて、逆に不気味じゃない? ちょっと、イタズラして、あのポーカーフェイスを崩してみましょうよ」
「イタズラだと?」
ガガルは、リリスの提案に眉をひそめた。しかし、彼の思考はすぐに忠誠心へと結びつく。
(そうだ…! あれほど完璧とは、逆に怪しい! もしや、ユウマ様の命を狙う王家の手の者かもしれん! よし、俺がその実力、試してやろう!)
「フン! よかろう! 我が主君の傍に侍るにふさわしい男か、この私が見極めてやる!」
ガガルは、完全にリリスの口車に乗せられ、やる気満々で立ち上がった。
「ちょ、ちょっと、ガガルさん、リリスさん! 何をなさるおつもりですの!?」
アリアの制止の声も、彼らには届かない。
第一のいたずら:物理的威嚇
ガガルは、紅茶を運んできたロデリックの真横で、おもむろに巨大な戦斧を振りかぶった。そして、ビュンッ!と風を切る音と共に、ロデリックの首筋すれすれ、髪の毛一本触れない完璧な軌道で、空を斬った。
常人なら腰を抜かす一撃。しかし――
「お見事な素振りでございます、ガガル様」
ロデリックは、紅茶のカップをソーサーに乗せる音一つ立てず、涼しい顔で言った。
「その風圧で、ちょうど肩の埃が払えました。ありがとうございます」
彼は、完璧なお辞儀をして見せた。
ガガルとリリスは、顔を見合わせる。
「な、なかなかやるな…」
「へえ…面白いじゃない」
第二のいたずら:精神的魅了
「次は私ね」
リリスは、優雅に立ち上がると、ロデリックの目の前に立ち、その瞳をじっと見つめた。彼女の瞳の奥で、常人ならば一瞬で理性を奪われる、魔性の力が渦を巻く。
「ねえ、ロデリック。私のためにお茶を淹れてくれるかしら。とっておきの、甘い甘いお茶を…」
それは、命令と懇願と魅了が複雑に混じり合った、抗いがたい魔の言葉。しかし――
「かしこまりました、リリス様」
ロデリックは、完璧な一礼をすると、厨房へと向かう。
「リリス様の、その情熱的な瞳の色に合わせ、南国原産の、甘く情熱的な香りの茶葉を用意させておりました。すぐにお持ちいたします」
彼は、リリスの魔眼をただの「美しい瞳」として処理し、その色から最適な茶葉を導き出すという、神業のようなサービスで返した。
「……なんなのよ、アイツ」
リリスの額に、初めて青筋が浮かんだ。
第三のいたずら:物理的破壊
「ええい、まだだ!」
ガガルは、部屋の隅に置かれていた、国宝級に高価そうな壺を持ち上げると、わざとらしく足を滑らせた。
「おおっと!」
壺が、宙を舞う。ガッシャーン!という派手な破壊音が響き渡るはずだった。
しかし、響かなかった。
ガガルの手から壺が離れた瞬間、そこにいたはずのロデリックが、残像を残して移動。宙を舞う壺を、まるで羽毛でも受け止めるように、完璧な角度と力加減でキャッチしていたのだ。
「お足元にお気をつけくださいませ、ガガル様」
ロデリックは、壺を元の位置に戻しながら、静かに言った。
「ちなみに、その壺は先々代の王が愛した芸術品のレプリカにございます。万が一のことがあっても、替えは倉庫に三百ほど」
「「…………」」
もはや、ガガルとリリスは、唖然として言葉も出ない。アリアは、ハラハラしすぎて、ハンカチを噛み締めてプルプル震えている。
「「こうなれば、最終手段よ(だ)!!」」
リリスとガガルの声がハモった。
リリスは、床一面に、目に見えない魔力の油を撒き散らす。ツルツル滑って、まともに立つこともできない。
ガガルは、テーブルクロスを掴むと、そこに乗っていた皿やカップ、銀食器の全てを、デパートの火事場セールのように、派手に宙へとぶちまけた!
魔力の油と、宙を舞う無数の食器類。完璧な執事でも、これだけは対処できまい!
しかし、ロデリックは動かなかった。いや、動いた。
彼は、魔力の油が撒かれた床の上を、まるで氷上のフィギュアスケーターのように、華麗なスライディングを開始。正確無比なスピンを繰り返しながら、宙を舞う皿、カップ、フォーク、ナイフ、その全てを、完璧な順番で、完璧にスタッキングしていく。
そして、全ての食器を受け止め終わった彼は、広間の中心で、ピタリと静止。その姿勢は、フィギュアスケートの決めポーズのように、完璧だった。
シーン、と静まり返る部屋。
「……負けたわ」
リリスが、乾いた声で呟いた。
ガガルは、もはや尊敬の念すら込めて、ロデリックを見つめている。
完璧な静寂の中、ロデリックは、ゆっくりと顔を上げると、魂が抜けたままのユウマに向かって、完璧な一礼をした。
「大賢者様。皆様の、朝の体操が、お済みになられたようです」
彼は、積み上げた食器を一枚も乱すことなく、言った。
「食後の紅茶は、いかがいたしましょうか?」
ユウマは、目の前で繰り広げられた人間離れした光景と、それを「朝の体操」の一言で片付けた老執事を見て、静かに思った。
(この塔で、一番やばいのは、こいつかもしれない…)
彼の、王国大賢者としての心労は、また一つ、新たな種類を増やしたのだった。




