第26話:救世主の重圧と王の影
「「「ユーマ様! ユーマ様! 我らが救世主!」」」
宿の外から聞こえてくる、数千、あるいは一万にも達するであろう民衆の歓声。それは、もはや単なる賞賛ではない。飢えと貧困に喘ぐ人々が、最後の望みを託して捧げる、信仰の祈りそのものだった。
ユウマは、バルコニーのカーテンを閉め、音を遮断するように両手で耳を塞いだ。しかし、地を揺るがすような声援は、分厚い壁を通り抜け、彼の頭蓋に直接響いてくるようだった。
「どうなってるんだ…なんで、こんなことに…」
ベッドにへたり込み、彼はか細い声で呟いた。宰相との会話が、なぜ一晩も経たずに民衆にまで広まっているのか。理解が追いつかない。
その疑問に答えたのは、リリスだった。彼女は、窓の外の狂乱を面白そうに見下ろしながら、呆れたように言った。
「当たり前じゃない。あの『古狐』が、わざと情報を流したのよ」
「わざと…?」
「そうよ。『賢者ユウマは、民を救うための新政策を宰相に授けた』。この情報を先に民衆に広めてしまえば、どうなると思う?」
リリスは、ユウマに意地悪く問いかける。
「反対派の貴族どもは、民衆の敵になるわ。下手に動けば、暴動の火種になりかねない。宰相は、あんたを『民意』という名前の大義名分にして、邪魔な連中を黙らせようとしてるのよ。あんたは、彼の最高のカードになったってわけ」
(カード…俺が…)
ユウマの顔から、さらに血の気が引いていく。いつの間にか、自分は国家レベルの政争のど真ん中に、切り札として放り込まれていたのだ。
ガガルは、そんな主君の苦悩には気づかず、外の歓声に満足げに頷いていた。
「フン! 民衆とは現金なものよ。しかし、ユウマ様の名を正しく理解し始めたのは良い傾向だ。いずれ、あの声は『魔王様』へと変わるであろう!」
アリアは、窓の外の光景に静かに涙していた。
「ああ…見てください、賢者様。貴方様を信じ、救いを求める、純粋な光の奔流ですわ。貴方様の慈悲が、今まさに、この国を一つにしようとしています」
どこまでも噛み合わない会話。ユウマは、もはや反論する気力もなく、ベッドに突っ伏した。
その夜、ユウマは眠れなかった。
外の歓声は夜通し続き、彼の名前を呼ぶ声が、悪夢のように彼を苛んだ。
翌朝。ユウマの目の下には、濃い隈ができていた。
昨夜の豪華な晩餐も、ほとんど喉を通らなかった。心身ともに疲弊しきった彼のもとに、新たな来訪者が告げられた。
昨日とは違う、より格式高く、そして冷徹な雰囲気を纏った騎士。その胸に刻まれているのは、セイファート公爵家の獅子ではない。この国そのものを象徴する、一角獣の紋章だった。
王家直属の、近衛騎士だ。
近衛騎士は、感情の読めない表情で、ユウマの前に恭しく跪いた。
「賢者ユウマ殿」
騎士は、昨日見たものよりも、さらに豪華な、純金の巻物に収められた書状を捧げ持った。封蝋には、王家の紋章がくっきりと刻印されている。
「我が国の主、国王陛下が、賢者殿との謁見を望んでおられます」
国王。
宰相の次には、この国の絶対的な頂点。
もはや、断るという選択肢は、塵ほども存在しなかった。
ユウマは、震える手で、その重すぎる招待状を受け取った。
それは、もはや彼を試すためのものではない。国を揺るがすほどの存在となった『賢者ユウマ』を、王が、国家が、正式にどう処遇するかを決定するための、最終通告だった。
(もう、無理だ…)
ユウマの心の中で、何かがぷつりと、音を立てて切れた。
彼は、近衛騎士の顔を見上げ、力なく、しかしはっきりと頷いた。
「…分かりました。お受けします」
その返事を聞いた仲間たちは、ついにその時が来たと、それぞれの表情を引き締める。
覇道の頂点へ。
聖者の救済へ。
最高のエンターテイメントへ。
それぞれの思惑が渦巻く中、ユウマの心にあったのは、ただ一つ。
(王様に会って、全部正直に話そう。俺は偽物です、ただの一般人ですって。そうすれば、殺されるかもしれないけど、もう『賢者様』を演じなくて済む…)
それは、絶望の果てに生まれた、あまりにも消極的で、あまりにも危険な最後の賭けだった。
ユウマは、民衆の歓声に送られながら、王城へと向かう馬車に乗り込んだ。
彼の運命を決定づける、玉座を前にして。
彼の人生で、最大にして最後の『勘違い』が、今まさに、始まろうとしていた




