第20話:賢者の無知と司教の混乱
「女神の名において問う。貴様、一体、何者だ?」
バレリウス司教の冷徹な問いかけが、豪華な部屋に突き刺さる。神殿騎士たちが、いつでも動けるように腰の剣に手をかけた。それは尋問であり、異端を審問する前の最終警告でもあった。
ユウマの心臓が、氷の塊になったかのように凍りつく。
(終わった…! 今度こそ、本当に終わった…!)
街の噂なら、勘違いで済んだかもしれない。だが、相手は教会の最高幹部だ。ここで下手に嘘をつけば、即座に偽預言者として火あぶりの刑に処されるだろう。
助かる道はただ一つ。全てを正直に話すこと。
ユウマが震える唇を開くより早く、彼の従者たちが反応した。
「貴様こそ、何者だ! 我が主君、ユウマ様のお名前を、軽々しく口にするとは!」
ガガルが、地を這うような怒りの声と共に一歩前に出る。その身体からは、司教の纏う聖なるオーラをものともしない、純粋な魔の覇気が立ち上っていた。
「お待ちください、バレリウス司教。貴方様が女神の敬虔なる僕であることは存じております。ですが、目の前におわすは、我らが賢者ユウマ様。そのお方に対する物言いとは思えません」
アリアもまた、静かだが強い意志を込めた声で司教を諌めた。彼女の身体から放たれる清らかな聖気は、司教のものに勝るとも劣らない。
二人のただならぬ気配に、歴戦の神殿騎士たちがゴクリと喉を鳴らす。
バレリウス司教は、眉一つ動かさなかったが、その内心は驚愕に揺れていた。
(魔族と、これほどの聖気を持つ聖職者が、同時にこの少年を庇うだと…? やはり、ただの詐欺師ではないというのか…?)
混乱する司教の視線が、再びユウマへと注がれる。
ユウマは、仲間たちのありがたい(そして、今は迷惑極まりない)援護射撃を背に受けながら、必死に首を横に振った。
「ち、違います…! 俺は…そんな、賢者だなんて、そんな大したものじゃありません…!」
「何をおっしゃいますか、ユウマ様!」
「そうです、ご謙遜を!」
仲間たちの声を振り切るように、ユウマはソファから転げ落ちんばかりの勢いで立ち上がり、バレリウス司教に向かって叫んだ。
「俺は、何も知らないんです! 本当に! ただの、普通の人間で…何もできない、ただの…!」
――ただの、何でもない存在です。
その、心の底からの、必死の自己否定。
しかし、その言葉は、バレリウス司教の**『真実を追求する』という厳格な意志と、彼の長年の神学研究によって培われた『物事の裏に隠された深遠な意味を探る』という思考**をトリガーとして、『概念誘導』を発動させた。
【ユウマの『自己否定(自分は無価値だ)』という概念が、『哲学的無知(無知の知)』の概念へと反転・昇華される】
バレリウス司教の目に、必死に自分を貶めるユウマの姿が、全く違う意味で映り始めた。
(…なんと…!)
司教の脳裏に、古代の聖典に記された一節が雷のように閃いた。
『真の賢者は、自らを賢者と呼ばず。真の聖者は、己が聖なることを知らず』
(この少年は…まさか…!)
バレリウス司教は、ゴクリと喉を鳴らした。
目の前の少年は、己の偉大さを誇示するどころか、徹底的に否定している。それは、己の知識や力が、神々の偉大なる叡智の前では、塵芥に等しい無価値なものであると、心の底から理解している者の姿ではないのか?
「…少年よ」
司教の声は、先ほどまでの刺々しさが消え、わずかな震えを帯びていた。
「貴公は、己を『何も知らない』と申されるか」
「は、はい! 何も知りません!」
ユウマは、食い気味に即答した。
その答えは、バレリウス司教の心に、決定的な一撃を与えた。
(おお…! これだ! これこそが、我々聖職者が生涯をかけて追い求め、しかし誰もたどり着けなかった境地…!『絶対的な無知の自覚』! 全てを知る神の前では、我々人間など、何も知らぬに等しいのだと、彼はその存在そのもので示しておられる…!)
「…失礼、した」
バレリウス司教は、ゆっくりと、しかし深く、ユウマに向かって頭を下げた。
「どうやら、老婆心から、試すような真似をしてしまったようだ。許されよ、若き賢者殿。貴公のその『無知』という名の深淵なる叡智、確かに見届けた」
「……は?」
ユウマは、ぽかんと口を開けた。
バレリウス司教は、もはやユウマの返事を待たず、神殿騎士たちに目配せをすると、静かに踵を返した。
去り際、彼は扉の前で一度だけ振り返り、畏敬の念のこもった声で呟いた。
「近いうちに、正式な謁見の使者を送らせていただく。それまで、どうかゆるりとお過ごしくだされ」
パタン、と扉が閉まる。
後に残されたのは、
「見たか、愚か者めが! 我が主君の偉大さが、ようやく分かったようだな!」と勝ち誇るガガル。
「ああ、賢者様の深きお言葉が、司教様の頑なな心を溶かしたのですね…!」と感涙に咽ぶアリア。
「アハハ! 最高! 口から出まかせ言ってるだけで、教会のトップを言いくるめちゃったわよ!」と腹を抱えて笑うリリス。
そして、ただ一人、状況が全く理解できず、その場で立ち尽くすユウマだった。
彼の伝説は、ついに王国の宗教界のトップにまで到達し、もはや誰にも止められない濁流となって、彼を飲み込んでいく。




