第百七十六話 聖魔の調和と、閉じられた傷痕
瘴気の魔物を退け、残る脅威は目の前で不気味に揺らめく魔界への裂け目のみ。
鉱山の最深部は、依然として異界の気配に満ちていた。
「さて、と」
リリスは疲れたように息をつき、裂け目を睨んだ。
「こいつをどうやって塞いだものかしらね。ただの穴じゃないわ。無理に閉じようとすれば、下手をすればこの鉱山ごと吹き飛びかねない」
「聖なる力で空間の歪みを修復できるかもしれません」
アリアが杖を構え、裂け目に向かって浄化の光を放った。
しかし、光は裂け目の闇に飲み込まれるだけで、何の反応もない。それどころか、裂け目がわずかに広がり、より濃密な瘴気が溢れ出す気配すらあった。
「ほらね。言わんこっちゃない」
リリスもまた、闇の魔力を裂け目に向けて放つ。闇は闇を打ち消すかと思われたが、これもまた、裂け目の持つ根源的な混沌の前には無力だった。
「…どうすれば…」
アリアが焦りの色を見せる。
「…さっきの、アレよ」
リリスが、ふと呟いた。
「…あんたが歌って、私が縛った、アレじゃないわよ。最後の、浄化の時」
「…?」
「あんたの光と、私の闇。ぶつかり合って、消滅するはずだった。でも、そうならなかった」
リリスは、アリアの目を真っ直ぐに見据えた。
「…あの時、二つの力が、拮抗して、一つの『場』を作り出した。…もしかしたら、あれと同じことを、この裂け目にできれば…」
それは、あまりにも危険な賭けだった。聖と魔の力を、寸分の狂いもなく調和させ、空間の傷口そのものを『縫合』する。理論上は可能かもしれないが、一歩間違えれば、先ほど以上の大惨事を引き起こしかねない。
しかし、アリアは、リリスの提案に、静かに頷いた。
「…分かりました。やってみましょう。…賢者様なら、きっと、こうおっしゃるはずです。『やってみなきゃ、分からない』と」
アリアの口から出た、あまりにもユウマらしい、無責任な(しかし、核心を突いた)言葉に、リリスは、思わず吹き出した。
「…ふふ。本当に、あんたたち、あの子に毒されてるわね」
二人は、再び、向き合った。
今度は、敵意ではなく、絶対的な信頼を、互いの瞳に映して。
「―――闇よ、淀め。混沌を、その内に、封じ込めよ」
リリスが、静かに詠唱を始める。彼女の足元から、深淵の闇が広がり、裂け目から溢れ出す瘴気の奔流を、まるでダムのように、堰き止め始めた。裂け目の拡大が、ぴたりと止まる。
「―――光よ、紡げ。裂かれたる理を、その輝きで、繋ぎ合わせよ」
アリアもまた、祈りを捧げる。彼女の杖から放たれたのは、破壊の光ではない。傷を癒やし、失われたものを修復する、創造の光。その光が、裂け目の縁に、まるで金継ぎのように、ゆっくりと、浸透していく。
闇が、混沌を抑え込み、光が、秩序を、再構築する。
聖と魔。二つの、対極にある力が、互いを打ち消すことなく、互いを補い合いながら、一つの、奇跡を、織り成していく。
裂け目が、ゆっくりと、その口を、閉じていく。
禍々しい魔界の風景が、徐々に、見えなくなっていく。
鉱山全体が、安堵のため息をついているかのようだった。
そして、裂け目が、完全に、塞がる、まさに、その寸前。
闇に閉ざされる、最後の、一瞬の隙間から。
コロリ。
何か、小さな、黒いものが、滑り落ちてきた。
それは、まるで、磨かれた黒曜石のような、小さな、石だった。何の変哲もないように見えるが、リリスだけが、その石が放つ、微かな、しかし、無視できない、異質な気配を、感じ取っていた。
―――完全に、裂け目は、塞がった。
鉱山の最深部に、静寂が戻った。
瘴気の気配は、完全に消え失せ、代わりに、本来の、鉱石と土の匂いが、満ちている。
「…やった…!」
「…ええ…!」
リリスとアリアは、互いに顔を見合わせ、安堵の笑みを浮かべた。疲労困憊だったが、確かな達成感が、そこにはあった。
リリスは、何気ない素振りで、足元に転がっていた、その黒い石を、そっと拾い上げ、懐にしまい込んだ。アリアは、そのことに気づいていないようだった。
「さあ、帰りましょうか」
リリスが言う。
「あの、お人好しの賢者様が、心配してるでしょうしね」
二人は、もと来た道を、戻り始めた。
鉱山の闇の中、二つの、対極の光は、確かに、一つになっていた。
しかし、リリスの懐に隠された、小さな黒い石は、これから始まる、新たなる波乱の、予兆なのかもしれなかった。




