第百七十五話 深淵の裂け目と、聖魔の共鳴
アリアの『救済の歌』によって、鉱夫たちの魂は解放され、坑道を覆っていた混沌粘液は無害な泥へと還った。
残るは、この異変の元凶、瘴気が湧き出す源泉を見つけ出し、断ち切ることだけだった。
「…こっちね」
リリスは、坑道のさらに奥、微かに漂う、より濃密な魔界の気配を辿り、迷いなく進んでいく。アリアも、杖を構え、警戒しながらその後に続いた。
やがて、二人がたどり着いたのは、鉱山の最深部、かつて巨大なミスリル鉱脈があったとされる、広大な空洞だった。
そして、その空洞の中央には、異様な光景が広がっていた。
空間そのものが、まるで傷口のように、黒く裂けている。大きさは、人一人分ほどだが、その裂け目の向こう側には、禍々しい、赤黒い空と、ねじくれた大地――紛れもない、魔界の風景が、蜃気楼のように揺らめいて見えた。
そして、その裂け目から、粘性の高い、黒い瘴気が、まるで間欠泉のように、絶えず噴き出し、周囲の岩肌を侵食していた。
これこそが、『混沌粘液』の発生源だった。
「…やっぱり、『門』が開いてたのね。それも、かなり不安定なやつが」
リリスは、舌打ちした。
「どうりで、瘴気の質が悪いはずだわ。魔界の中でも、特に、淀んだ領域に繋がってるみたいね」
「これを、塞がなければ…!」
アリアが、杖を構え、聖なる力を集中させようとした、その時。
『―――キシャアアアアアアッ!!』
裂け目の奥から、甲高い、耳障りな叫び声と共に、一体の異形の魔物が、飛び出してきた!
それは、いくつもの、苦悶に歪んだ顔が、融合したような頭部を持ち、身体は、黒い瘴気そのもので、形作られているようだった。裂け目から漏れ出す、負のエネルギーの、集合体。瘴気の番人、『ケイオス・スピリット』だった。
「チッ、番人付きとはね!」
リリスが、闇の魔力を凝縮させる。
「アリア、あんたは、あの裂け目を! こいつは、私が!」
「いいえ!」
アリアは、首を横に振った。
「あの魔物は、瘴気の塊! 聖なる力なくしては、完全に滅することはできません! わたくしが、魔物を! リリス様は、裂け目を!」
「はあ!? あんた、正気!? 私の闇の力の方が、空間を閉じるには…!」
聖と魔。二人は、互いの、最も得意とするやり方で、対処しようとし、またしても、意見が衝突した。
その、一瞬の、口論の隙を、ケイオス・スピリットは見逃さなかった。
『キシャアアアアッ!』
瘴気の魔物は、その、定まらない身体から、無数の、黒い触手を伸ばし、二人同時に、襲いかかった!
「くっ…!」
リリスは、闇の障壁で、触手を弾き飛ばす。
アリアもまた、聖なる光の盾で、攻撃を防ぐ。
しかし、魔物は、怯まない。裂け目から、絶えず、負のエネルギーを供給され、その力は、衰えるどころか、増していくようだった。
触手の攻撃は、ますます、激しくなり、二人を、徐々に、追い詰めていく。
「(このままじゃ、埒が明かない…!)」
リリスは、歯噛みした。
その時、アリアが叫んだ。
「リリス様! …力を、合わせましょう!」
「はあ!?」
「貴女の、闇の力で、あいつの、動きを、一瞬、封じてください! その隙に、わたくしが、聖なる光で、本体を、浄化します!」
それは、あまりにも、無謀な、提案だった。
聖と魔の力を、同時に、同じ対象に、ぶつける。下手をすれば、力が、反発しあい、大爆発を、起こしかねない。
しかし、リリスは、アリアの、真剣な、瞳を見て、一瞬だけ、迷った後、不敵に、笑った。
「…面白いじゃない! やってみましょうよ、聖女様!」
リリスは、両手に、これまでにないほどの、強大な、闇の魔力を、集中させる。
「―――縛れ、『奈落の鎖』!」
彼女の手から、無数の、漆黒の鎖が、放たれ、ケイオス・スピリットの、不定形の身体を、がんじがらめに、縛り上げた!
『ギ…ギギギ…!』
魔物は、苦しげに、身を捩るが、魔神の、純粋な、闇の力からは、逃れられない。動きが、完全に、止まった。
「今ですわ!」
アリアは、その、好機を、見逃さなかった。
彼女は、杖を、天に掲げ、全身全霊の、祈りを込める。
「聖なる光よ! 闇を祓い、穢れを清めよ! 『究極浄化』!!」
杖の先から、太陽にも、匹敵するほどの、眩い、純白の光が、奔流となって、放たれた!
光は、闇の鎖に縛られた、ケイオス・スピリットを、完全に、飲み込む。
『キシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!』
魔物の、断末魔の、絶叫が、響き渡る。
闇と光が、激しく、ぶつかり合い、空間が、悲鳴を上げた。
しかし、爆発は、起こらなかった。
リリスの、闇の鎖が、アリアの、聖なる光を、受け止め、その、凄まじいエネルギーを、内側へと、封じ込める、盾となっていたのだ。
そして、その、内側で、瘴気の魔物は、完全に、浄化され、塵となって、消滅した。
光が収まった時。
そこには、静寂と、互いに、肩で息をする、リリスとアリアの姿だけが、あった。
「…ふう。…やるじゃない、あんた」
リリスが、初めて、アリアを、認めるかのような、言葉を、口にした。
アリアもまた、微笑み返した。
「リリス様こそ。…貴女の、お力がなければ、できませんでしたわ」
ほんの、わずかだが、二人の間に、確かな、絆のようなものが、生まれた瞬間だった。
しかし、安堵したのも、束の間。
目の前には、依然として、禍々しい、魔界への裂け目が、口を開けている。
「さて、と」
リリスは、裂け目に向き直った。
「こいつを、どうやって、塞いだものかしらね…」
聖と魔の、共闘は、まだ、終わっていなかった。




