第百七十四話 粘液の迷宮と、二つの光
じめり、とした空気が肌にまとわりつく。鼻をつく腐敗臭。そして、足元には、くるぶしまで埋まるほどの、ぬかるんだ灰色の粘液。ミスリル鉱山の坑道内部は、まさに地獄絵図だった。
壁も天井も、全てが脈打つように蠢くスライムに覆われ、まるで巨大な生物の体内を進んでいるかのようだ。鉱夫たちが使っていたであろうツルハシやランプが、粘液の中に無残に飲み込まれているのが見える。
「…うへぇ。気分悪いわね、ここ」
リリスは顔をしかめ、指先から小さな闇の炎を生み出して周囲を照らす。その炎に照らされたスライムの表面が、ぬらぬらと光を反射した。
「聖なる光よ、道を照らしたまえ」
アリアもまた、手のひらから浄化の光を発する。しかし、その光がスライムに当たると、粘液はぶくぶくと泡立ち、むしろ活性化してしまう。
「…やはり、単純な浄化は逆効果のようですね」
アリアは眉をひそめ、光を最小限に抑えた。
二人は慎重に、坑道の奥へと進んでいく。道は複雑に入り組み、粘液によって元の形を失っている場所も多い。
時折、壁のスライムの一部が盛り上がり、触手のように伸びて襲いかかってくるが、リリスが放つ闇の刃や、アリアの放つ聖なる衝撃波(浄化ではなく、物理的な力)によって、容易く退けられた。
「…しかし、キリがないわね」
リリスがため息をつく。倒しても倒しても、粘液は自己再生し、その総量は減る気配がない。
「早く、源泉を見つけないと。このままじゃ、こっちが先に、精神的に参っちゃうわよ」
その時だった。
ゴポォッ…!
足元の粘液が、ひときわ大きく泡立った。そして、そこから、人間ほどの大きさのスライムが、いくつも、いくつも、生まれ出てきたのだ!
それらは、明確な敵意を持って、二人を取り囲むように、じりじりと距離を詰めてくる。
「数が増えた…!」
アリアが、杖を構え直す。
「面倒ね!」
リリスも、両手に闇の魔力を凝縮させる。
二人が、同時に攻撃を仕掛けようとした、その瞬間。
「…待ちなさい」
アリアが、リリスを制した。
「…様子が、おかしいですわ」
見ると、襲いかかってくるはずのスライムたちは、ぴたり、と動きを止めていた。
そして、その、定まらない、粘液の身体の表面に、ぼんやりと、人の顔のようなものが、いくつも、浮かび上がってきたのだ。
その顔は、どれも、苦痛に歪み、何かを訴えかけているようだった。
「…まさか…」
アリアは、息を呑んだ。
「…鉱夫たちの…魂…? スライムに、取り込まれて…?」
「…なるほどね」
リリスも、状況を理解した。
「混沌粘液は、負の感情を糧にする。…鉱山で、事故か何かで、無念の死を遂げた者たちの魂が、瘴気に引き寄せられ、スライムの核になっている、というわけか。…だから、聖なる力に、あれほど、強く反応したのね。救いを求めて」
アリアは、杖を握りしめ、苦悩の表情を浮かべた。
浄化すれば、スライムは消滅するかもしれない。しかし、それは、取り込まれた魂ごと、消し去ってしまうことになる。
かといって、このまま放置すれば、汚染は広がり、さらに多くの犠牲者が出るだろう。
「…どうするの、アリア」
リリスが、静かに問う。
「あんたの『正義』は、どっちを選ぶ?」
アリアは、目を閉じた。
そして、ゆっくりと、息を吸い込み、決意を固めた。
彼女は、杖を、天に掲げた。しかし、放たれたのは、浄化の光ではなかった。
それは、温かく、柔らかで、全てを包み込むような、慈愛の光。
天使としての、本来の力。魂を、導き、癒やす、『救済の歌』だった。
美しい、歌声が、粘液に覆われた坑道に響き渡る。
それは、苦しむ魂を、慰め、安らぎを与え、そして、還るべき場所へと、優しく、導く、聖なる旋律。
スライムたちの動きが、完全に止まった。
その表面に浮かんでいた、苦悶の表情が、ゆっくりと、穏やかなものへと、変わっていく。
そして、一体、また一体と、スライムの身体から、小さな、光の玉―――解放された、鉱夫たちの魂が、抜け出し、光と共に、天へと、昇っていった。
魂を失った、混沌粘液は、その形を維持できず、ただの、無害な、灰色の泥へと、還っていく。
やがて、歌が終わる頃。
坑道を埋め尽くしていた、おびただしい数のスライムは、跡形もなく、消え去っていた。
後には、湿った岩肌と、静寂だけが残されていた。
「…見事だわ、アリア」
リリスは、素直に、感嘆の声を漏らした。
「力でねじ伏せるだけが、能じゃないってわけね」
アリアは、額の汗を拭い、微笑んだ。
「…これで、原因は、取り除けました。あとは、源泉を、見つけ出すだけですわね」
二人は、再び、坑道の奥へと、歩き出した。
その先には、この異変を引き起こした、真の元凶が、待ち受けているはずだ。
聖と魔。二つの、対極の力が、今、確かに、一つの道を、照らし出していた。




