第百七十三話 南の鉱山と、淀む聖域
ユウマやガガルたちと別れ、リリスとアリアの二人は、南の『ミスリル鉱山』へと向かっていた。用意された馬車の中は、ガガルたちが乗っていた時とは対照的に、静かで、どこか張り詰めた空気が漂っていた。
「…心配なのですか? 賢者様のことが」
アリアが、窓の外を眺めるリリスに、静かに問いかけた。
「別に」
リリスは、短く答えた。
「あの子は、案外、しぶといわよ。…それより、気になるのは、あのスライムの方ね」
彼女の瞳には、珍しく、真剣な光が宿っていた。
「原因不明の、大量発生。特殊な、粘性…。ただの、魔物の暴走とは、違う匂いがするわ」
やがて、馬車は、鉱山近くの、麓の町へと到着した。
かつては、貴重なミスリル銀の採掘で、栄えていたはずの町。しかし、今、その面影はなかった。
道行く人々の顔は、暗く、活気がない。そして、町の中心を流れる川の水は、不気味な、灰色に濁り、異臭を放っていた。
「ひどい…」
アリアは、思わず、鼻を覆った。川岸には、力なく、横たわる、魚たちの姿もある。
「これが、スライムによる、汚染…」
二人は、町の、ギルドへと向かい、鉱山の責任者だという、恰幅の良い、ドワーフの男から、話を聞いた。
「…ご覧の通りだよ。鉱山は、もう、ひと月近く、閉鎖されたままだ」
ドワーフは、深いため息をついた。
「坑道の、一番奥、古い鉱脈があった場所から、突然、あの、気色の悪いスライムが、湧き出してきやがったんだ。粘っこくて、燃やそうとしても、凍らせようとしても、すぐに、元通り。それどころか、下手に、攻撃すると、分裂して、増えやがる始末でな…」
「今じゃ、坑道は、完全に、あの、ヌメヌメした奴らに、占拠されちまった。溢れ出した奴らが、川を汚し、この町も、もう、おしまいだ…」
絶望的な状況。
ドワーフは、アリアの、聖職者風の、服装を見て、わずかな期待を込めて、尋ねた。
「…あんたら、教会から、派遣されてきた、浄化の、専門家か何かかい? もし、そうなら、頼む! 何とか、あのスライムを、退治してくれ!」
「…ええ、お任せください」
アリアは、力強く、頷いた。
「必ずや、この地を、清めてみせますわ」
リリスとアリアは、ドワーフに案内され、閉鎖された、鉱山の入り口へとやってきた。
入り口は、分厚い鉄の扉で、固く閉ざされていたが、その隙間から、すでに、灰色の、粘液のようなものが、染み出してきていた。
「…やはり、ただのスライムじゃないわね」
リリスは、その粘液を、指先で、少量、掬い取ると、鼻へと近づけた。
「…微かに、硫黄と、腐敗臭…。そして、この、空間を、歪ませるような、異質な魔力…。間違いないわ。魔界の、それも、かなり、厄介な領域の、『混沌粘液』が、混じってる」
「混沌粘液…?」
「ええ。魔界の、深淵に溜まる、あらゆる、負の感情や、歪んだ魔力が、混ざり合ってできた、ヘドロのようなものよ。それ自体に、強い毒性と、自己増殖能力がある。…そして、聖なる力とは、最悪の、相性のはずだわ」
その言葉通り、アリアが、入り口の扉に、浄化の光を当てると、染み出していた粘液は、浄化されるどころか、ぶくぶくと、泡を立て、むしろ、活性化したかのように、蠢き始めた。
「…どうやら、力ずくの浄化は、逆効果みたいね」
リリスは、やれやれ、と肩をすくめた。
「面倒だけど、根源を、断つしかないわ。…行くわよ、アリア」
リリスが、鉄の扉に、手をかざすと、扉は、まるで、熱いナイフで、バターを切るかのように、音もなく、溶けて、崩れ落ちた。
その向こうには、壁も、天井も、床も、全てが、不気味な光沢を放つ、灰色のスライムに、覆い尽くされた、地獄のような坑道が、口を開けていた。
「…覚悟は、いいかしら? 聖女様」
「…ええ。賢者様から、託された、使命ですもの」
二人は、互いの、目を見合わせると、意を決して、その、粘液に、まみれた、暗闇の中へと、足を踏み入れた。
聖と魔。
本来ならば、決して、交わることのない、二つの力が、今、一つの、目的のために、手を取り合おうとしていた。




