第百七十話 ただいま我が家と、忠実なる執事
王都の喧騒を背に、一行は早足で王城の一角にある『星見の塔』へと向かった。
見慣れた、古く美しい塔。しかし、今のユウマの目には、そこが唯一の安らぎの場所のように映っていた。
塔の重厚な扉を開けると、そこはユウマが旅立つ前と、寸分違わぬ光景が広がっていた。
塵一つなく磨き上げられた床。整然と並べられた書物。そして、その中央には、完璧な姿勢で直立する、銀髪の老執事の姿があった。
「―――おかえりなさいませ、大賢者様」
執事長ロデリックは、まるでユウマが数分前に散歩に出かけたかのような、あまりにも自然な口調で、一行を迎えた。その表情には、驚きも、安堵も、非難の色もない。ただ、完璧な執事としての、静かな佇まいがあるだけだった。
「ロデリックさん…!」
ユウマは、思わず駆け寄りそうになった。この、動じない存在が、今は、何よりも心強かった。
「ご無事で、何よりにございます」
ロデリックは、深く一礼すると、続けた。
「『世界の理を探求する旅』、さぞかし、実り多きものであったことと、拝察いたします。…お疲れでしょう。すぐにお茶の準備を」
その、あまりにも完璧な「嘘」の継続。
ユウマは、苦笑するしかなかった。
「…まあ、色々ありましたけど…。とりあえず、ただいま、ロデリックさん」
「はい。おかえりなさいませ」
一行が、塔の談話室へと通され、ロデリックが淹れた、極上の紅茶で、一息ついていると。
ガガルが、待ちきれないとばかりに、口を開いた。
「して、ロデリック殿! 我らが、留守の間、この国は、どうなっておるのだ! 酒場の連中は、不安げな顔をしておったが!」
ロデリックは、静かに、報告を始めた。
「ガガル様のお察しの通り、決して、楽観できる状況ではございません」
彼の言葉は、淡々としていたが、その内容は、深刻だった。
「東部戦線での、賢者様の奇跡的な勝利と、帝国兵の無条件解放は、確かに、一時的な、停戦をもたらしました。しかし、帝国側も、一枚岩ではなく、未だ、主戦派の動きが、活発です。和平交渉は、暗礁に乗り上げております」
「魔物の、活性化も、深刻です」と、彼は続けた。「原因は、不明ですが、大陸各地で、これまで、確認されなかった、強力な個体や、異常な数の、群れの出現が、報告されております。ギデオン将軍も、その対応に、追われている状況です」
「では、ウィルナス王は…?」
ユウマが、尋ねる。
「ヴァロリアの、ウィルナス陛下は…」
ロデリックは、わずかに、言葉を選ぶように、言った。
「…玉座の間の、修復が、ようやく、完了した、とのこと。そして、『ゲームの、再開を、心待ちにしている』と、伝言が、届いております。…相変わらずの、ご様子で」
その言葉に、ユウマは、げんなりとした。
あの、好奇心旺盛な、覇王は、全く、懲りていないらしい。
「エンマ様からは?」
アリアが、心配そうに尋ねる。
「冥王エンマ陛下からは…」
ロデリックは、一枚の、分厚い、書類の束を、テーブルの上に、置いた。
「『特級保護観察対象への、定期連絡及び、指導要綱』と題された、通達が、毎日、欠かさず、届いております。…内容の、ご確認は、後ほど、ごゆっくりと」
「(絶対、読みたくない…)」
ユウマは、顔を引きつらせた。
ロデリックは、最後に、ユウマを、真っ直ぐに見据えた。
「…そして、大賢者様。貴方様が、ご不在の間にも、貴方様を、頼る声は、日増しに、大きくなっております。民衆も、貴族も、そして、国王陛下も。…この、不安定な世界で、人々は、確かな、『道標』を、求めているのです」
その、静かな、しかし、重い言葉。
ユウマは、目を逸らさずに、受け止めた。
「…分かっています、ロデリックさん」
彼は、立ち上がった。その瞳には、もう、迷いの色はなかった。
「俺は、もう、逃げません」
彼は、仲間たちと、そして、忠実なる執事に向かって、宣言した。
「俺が、何者なのか、まだ、よく分からない。何ができるのかも、分からない。でも…」
彼は、腕の中の、チビすけを、そっと、撫でた。
「俺にしか、できないことが、あるなら。俺を、必要としてくれる人が、いるなら。…俺は、やります」
それは、聖者の、決意表明ではなかった。
ただの、青年が、ようやく、自分の、足で、立つことを決めた、ささやかな、しかし、力強い、誓いだった。
その、言葉を聞いて。
ロデリックは、初めて、その、完璧な、表情を、わずかに、崩した。
その口元には、微かな、しかし、確かな、満足げな、笑みが、浮かんでいた。
「…かしこまりました、ユウマ様」
彼は、深く、深く、頭を下げた。
それは、もはや、『大賢者』への、敬意ではない。
一人の、主として、認めた、若者への、絶対的な、忠誠の、証だった。
ユウマの、本当の、戦いが、ここから、始まる。
まずは、この、混乱した、王国で、自分に、何ができるのか。
それを、見つけ出すことから。




