第百六十九話 ただいま王都と、変わりゆく現実
ユウマは、意を決して、『ただいま』と書かれた、古びた木製の扉を開けた。
一瞬の浮遊感の後、彼らが立っていたのは、見覚えのある場所だった。
以前、ロデリックに教えられ、王都から脱出した、あの地下水道の出口。ひんやりとした、湿った空気が、肌を撫でる。
「…戻ってきた…」
ユウマは、思わず、呟いた。幻獣界での出来事が、まるで、長い夢だったかのように感じられる。
「ふむ。懐かしい、下水の匂いだ」
ガガルが、鼻を鳴らす。
一行は、人目を忍び、地上へと出た。見上げれば、そこには、慣れ親しんだ(そして、うんざりした)王都の、城壁が、そびえ立っていた。
「さあ、帰りましょう! 我らが、星見の塔へ!」
ガガルが、意気揚々と、歩き出そうとするのを、リリスが、制した。
「待ちなさい。…少し、様子が、違うわよ」
リリスの言う通り、王都の空気は、以前と、明らかに、異なっていた。
ユウマが戦場から帰還した時の、あの熱狂的な歓声はない。兵士たちの凱旋を祝う華やかさもない。
街全体が、どこか落ち着きがなく、人々は不安げな表情で足早に行き交っている。
「どうしたんだろう…?」
ユウマが、首を傾げる。
「まずは、情報収集ね」
リリスは、一行に、再び、フードを目深に被るよう、促した。
一行は、人混みに紛れ、街の中心部へと、向かった。
街角の掲示板には、いくつかの新しい布告が張り出されていた。
『東部戦線、停戦協定、継続中。帝国との和平交渉、難航』
『国内各地にて、原因不明の魔物の目撃情報、相次ぐ。住民は警戒を怠らぬこと』
『王国の守護者、大賢者ユウマ様は、現在、新たなる世界の理を探求する旅に出ておられる。帰還まで、国民は静かに待つように』
「…俺、旅に出てることに、なってるのか…」
ユウマは、げんなりとした。ロデリックの欺瞞工作は、まだ続いているらしい。
一行は、情報が集まりそうな酒場へと入った。
昼間だというのに、酒場には多くの男たちが集まり酒を酌み交わしていたが、その表情は一様に暗い。
「…停戦とは名ばかりよ。国境じゃ小競り合いが絶えねえらしいぜ」
「帝国も一枚岩じゃねえからな。賢者様に負けたってのに主戦派がまだ息を吹き返そうとしてるって話だ」
「それより聞いたか? 北の森でまたグリフォンが人を襲ったってよ」
「南の鉱山じゃ見たこともねえスライムが大量発生して閉鎖されたとか…」
「これも全部賢者様がいねえからだ…。あのお方がおられれば…」
人々の会話は、不安と不満、そして不在の救世主への複雑な思いで満ちていた。
ユウマがもたらした奇跡の勝利は、根本的な問題解決にはなっていなかったのだ。
(…そりゃ、そうだよな…)
ユウマは胸が痛んだ。
自分が勝手に問題を先送りにして、逃げ出しただけなのだから。
自分の不在が人々の不安を煽り、魔物の活性化を招いているのかもしれない。
(…俺の、せいか…)
ユウマの心に、ずしりと重い罪悪感がのしかかった。
ただ静かに情報を集めるだけのつもりだった。
しかし目の前の疲弊し希望を失いかけている人々の姿は、彼の心を強く揺さぶった。
「…よし」
ユウマは静かに立ち上がった。
その瞳にはもう逃げる色はない。
「行こう。俺たちの家に」
彼の瞳には新たな決意の光が宿っていた。
仲間たちは黙って頷いた。
一行は酒場を後にし、王城へと続く道を歩き始めた。
街の人々の不安げな視線。くすぶり続ける戦争の火種。そして暗躍する魔界の影。
人間界は決して平穏ではなかった。
しかし今のユウマにはもう逃げるという選択肢はなかった。
彼はこの世界の面倒事に正面から向き合う覚悟を決めたのだ。
まずは自分の帰るべき場所星見の塔で一体何が待っているのか。
それを確かめるために。




