第百五十一話 虚無の勝利と、新たな火種
「……勝者! 『沈黙の賢者』、ユーーーマァァァッ!!」
審判の、震える声が響き渡る。
しかし、闘技場を埋め尽くした観衆からは、熱狂的な歓声は上がらなかった。
誰もが、目の前で起こった、あまりにも静かで、あまりにも不可解な結末を、理解できずにいた。
堕ちた天使は、ただ、虚無に膝をつき、勝利したはずの賢者は、腕の中の宝玉を抱きしめ、どこか、疲れたように、佇んでいる。
(…終わった…のか…)
ユウマは、静まり返った闘技場を見渡した。
勝った。
トーナメントに、優勝してしまった。
しかし、彼の心には、達成感も、喜びもなかった。
ただ、目の前で、魂の抜け殻のようになってしまった、セラフィエルへの、漠然とした、罪悪感だけが、重くのしかかっていた。
その時、貴賓席から、ゆっくりと、拍手が響いてきた。
『嫉妬公アスモデア』だった。
彼は、音もなく、闘技場の中央へと降り立つと、ユウマの前に立った。
その、蛇のような瞳には、満足と、そして、底知れぬ好奇心が、浮かんでいた。
「…見事だ、賢者ユウマ。我が、期待を、遥かに、超える、結末を、見せてくれた」
アスモデアは、薄い唇に、笑みを浮かべた。
「力で、ねじ伏せるのではない。相手の、存在理由そのものを、消し去る…。フフ、実に、悪魔的で、美しい、勝利だ」
彼は、懐から、最後の、黒い羊皮紙を取り出し、ユウマに、差し出した。
「約束通り、褒美だ。『力の宝玉』への、最後の手がかり。…受け取るがいい」
ユウマは、震える手で、それを受け取った。三つの欠片が、一つになる。これで、『力の宝玉』の在り処が、分かるはずだ。
しかし、今の彼には、それを確かめる気力もなかった。
彼の視線は、ただ、膝をついたまま、動かない、セラフィエルへと、注がれていた。
彼女は、どうなるのだろうか。
主である、アスモデウスに見捨てられ、この、混沌とした魔界で、一人、生きていけるのだろうか。
その、ユウマの、心の揺らぎを、見抜いたかのように。
アスモデアは、冷ややかに、言った。
「…案ずるな。堕ちた天使など、掃いて捨てるほどいる。アスモデウスも、すぐに、新たな、玩具を、見つけるだろう。…あるいは、壊れた人形として、弄ぶか。どちらにせよ、我らの、知ったことではない」
その、あまりにも、非情な言葉。
ユウマの、心の中で、何かが、カチリと、音を立てた。
貴賓席で、アリアが、悲痛な声を上げた。
「そんな…! セラフィエルは、ただ、利用されていただけなのに…!」
彼女は、セラフィエルの元へと、駆け寄ろうとする。
しかし、それを、リリスが、静かに、制した。
「…やめておきなさい、アリア。あれは、もう、抜け殻よ。下手に、触れれば、あんたまで、その虚無に、飲み込まれるわ」
リリスの目は、冷静だった。しかし、その奥には、かすかな、憐憫の色も、浮かんでいた。
ユウマは、ただ、黙って、セラフィエルを、見つめていた。
彼女の、虚ろな瞳。
その奥に、昨夜、健太郎が言っていた、『理』という言葉が、重なって見えた。
彼女は、彼女なりの、『理』(契約と、歪んだ正義)に従って、生きてきた。
そして、自分が、それを、壊してしまった。
ユウマは、ゆっくりと、セラフィエルの前に、歩み寄った。
そして、ただ、静かに、その手を、差し伸べた。
「……」
セラフィエルは、反応しない。
その瞳は、何も、映していない。
しかし、ユウマは、諦めなかった。
彼は、ただ、黙って、手を、差し伸べ続けた。
その、あまりにも、無力で、あまりにも、愚直な、行為。
その、時だった。
きゅるん。
ユウマの腕の中から、チビすけが、顔を出した(宝玉が、ユウマの腕の中から、少しだけ、せり出した)。
そして、その、虹色の光を、セラフィエルへと、そっと、向けた。
それは、攻撃ではない。威嚇でもない。
ただ、純粋な、興味と、そして、かすかな、呼びかけ。
セラフィエルの、虚ろだった瞳が、わずかに、動いた。
その視線が、チビすけの、穏やかな、虹色の光に、吸い寄せられる。
彼女の、心の、奥底に、わずかに残っていた、天使としての、本能が、その、純粋な、生命の輝きに、反応したのだ。
セラフィエルの、唇が、かすかに、震えた。
そして、その、瞳から、一筋の、黒い、涙が、こぼれ落ちた。
「……………あ…」
それは、彼女が、堕天して以来、初めて、流した、涙だったのかもしれない。
アスモデアは、その、あまりにも、予想外の、光景を、興味深そうに、観察していた。
(…ほう。壊れただけでは、なかったか。…面白い。実に、面白いぞ、この『器』は…)
ユウマは、まだ、セラフィエルの、心が、完全に、戻ったわけではないことを、理解していた。
しかし、確かに、何かが、変わった。
彼は、そっと、差し伸べていた手を、下ろした。
今は、これで、いい。
ユウマは、仲間たちと共に、闘技場を、後にした。
手の中には、『力の宝玉』への、完全な、手がかり。
そして、心の中には、新たな、そして、厄介な、火種を、抱えて。
彼が、魔王継承戦に、優勝したことで。
魔界の、勢力図は、大きく、動き出そうとしていた。
七大公たちの、視線が、アスモデアの、庇護下にある、『沈黙の賢者』へと、一斉に、注がれ始めていたのだから。
ユウマの、望まぬ、戦いは、まだ、始まったばかりだった。




