第百五十話 堕天使との対峙、聖魔の視線、そして父の理
魔王継承戦、決勝の日。
地鳴りのような歓声が響く闘技場の中心に、ユウマは静かに立っていた。腕の中には穏やかな虹色の光を放つチビすけ。彼の心は、健太郎との修行を経て、以前とは違う静けさを保っていた。
やがて反対側のゲートがゆっくりと開かれる。
現れたのは、息を呑むほど美しい、しかしどこか物悲しい雰囲気を纏った存在だった。純白だったであろう翼は所々黒く染まり、歪んだ光輪が明滅する。その顔立ちは神々しいほど整っているが、瞳には深い絶望と、全てを裁かんとする狂気が宿っていた。『色欲公アスモデウス』が二人目の切り札として送り出した『堕天使セラフィエル』。
「…セラフィエル…」
貴賓席で、アリアが息を呑んだ。その声には、悲しみと、同情の色が滲んでいた。
「…かつては、天界でも、慈愛に満ちた、高潔な方だったのに…。一体、何が、彼女を…」
「あら、同情してるの?」
隣で、リリスが、冷ややかに、ワイングラスを傾けた。
「堕ちた天使なんて、掃いて捨てるほどいるわよ。自分の、弱さに負けて、あるいは、つまらない理想に殉じて、勝手に堕ちていっただけ。…自業自得じゃないかしら」
「!」
アリアは、リリスを、強い目で、見返した。
「貴女には、分からないでしょう! 天界の、厳しい戒律の中で、彼女がどれほどの、苦悩を…! そして、今も、その罪に、苛まれていることを!」
「分かる必要もないわ」
リリスは、肩をすくめた。
「ここは、魔界よ。過去がどうあれ、今の彼女は、ただの、アスモデウスの駒。…それだけのこと」
アリアの瞳に、怒りの色が浮かぶ。聖と魔。二人の価値観は、決して交わらない。
その、張り詰めた空気を、破ったのは、闘技場からの、轟音だった。
「試合開始ィィィッ!!」
開始の合図と共に、セラフィエルが動いた。音もなく、滑るようにユウマへと接近。白銀の槍が、浄化の光を纏い、一点に凝縮された破壊力となって突き出される!
(速い…! でも…)
ユウマは目を閉じた。健太郎の教え。「理」を読む感覚。槍の軌道、セラフィエルの呼吸、込められた力の流れ。それが、彼の心に流れ込んでくる。
(…真っ直ぐすぎる)
彼はただ半歩、身体をずらした。白銀の槍が彼の脇を空を切って通り過ぎる。セラフィエルの動きには、一切の迷いがない。それは強さであると同時に、隙でもあった。
「(…避けた…? この距離で…?)」
セラフィエルの目に、わずかな驚きが浮かんだ。
体勢を立て直したセラフィエルは、距離を取ると、その黒き翼を大きく広げた。翼から、無数の黒い羽根が光の矢となり、ユウマへと降り注ぐ!それは聖なる力と堕ちた力が混じり合った、矛盾した浄化の嵐!
「(来る…!)」
ユウマは咄嗟に腕の中のチビすけを抱きしめた。
(守る!)
その純粋な想いが『心の盾』となる。チビすけから放たれる虹色の光がユウマを包む。黒き光の矢は、その穏やかな光に触れた瞬間、抵抗も虚しく霧散していく。
「(これも…効かない…!? なぜだ…なぜこの人間は…!)」
セラフィエルの表情に、焦りと、理解不能なものへの恐怖が浮かび始める。
「―――ならば!」
セラフィエルは最後の手段に出た。彼女は槍を天に掲げ叫んだ。
「我が罪深き魂に裁きを! 我が堕ちた翼に罰を! そして目の前の、世界の理を歪める不浄なる存在に、天の怒りを! 『聖罰執行』!!」
闘技場の空が、割れた。
雲間から、巨大な、純白の光の柱が、凄まじい勢いで降り注ぐ!
観客席から悲鳴が上がる。
貴賓席では、アスモデアでさえ、その力の奔流に目を見開いていた。
「ユウマ様!」
「主サマ!」
仲間たちの絶叫が響く。
光の柱が、ユウマを飲み込もうとした、その瞬間。
ユウマの心は、ただ一つだった。
(チビすけだけは…!)
(絶対に、守る!)
ユウマの**『我が子を守る』という、ただ純粋で、絶対的な父性**。
それが、セラフィエルの**『自らを罰し、他者を裁くことでしか存在意義を見出せない』という、歪んだ正義**と、真正面から衝突した。
【ユウマの『純粋な守護(ただ守りたい)』が、セラフィエルの『歪んだ正義(裁きたい/裁かれたい)』によって、『存在理由の消失』の概念へと、反転・昇華される】
世界が、再び、軋んだ。
天から降り注いでいたはずの、絶対的な破壊の光が、まるで、最初から、そこには、何もなかったかのように、音もなく、消滅した。
「…え…?」
セラフィエルは、呆然とした。自らの最強の技が、消えた。
それだけではない。彼女自身の、心の奥底から、何かが、急速に、抜け落ちていく感覚。
罪を償わなければ。悪を裁かなければ。
そして何より――あの契約を、果たさなければ。アスモデウスを魔王にすることが、唯一の存在理由だったはずだ。
なのに。
目の前の男は、罪人ではない。悪でもない。ただ、そこにいるだけ。腕の中の、小さな光を、守ろうとしているだけ。
裁くべき対象が、見当たらない。契約を果たすための、大義名分が、見つからない。
自分が、なぜ、ここにいるのか。何のために、槍を振るってきたのか。分からなくなった。
彼女の、黒く染まった翼から、色が抜け落ちていく。歪んだ光輪が、形を失っていく。
堕天使としての彼女を支えていた、罪悪感と、契約という名の、歪んだ正義感が、ユウマの、ただ「守る」という、あまりにも純粋な『理』の前に、その意味を、失ってしまったのだ。
セラフィエルは、力なく、その場に、膝をついた。
槍が、カラン、と音を立てて、地面に落ちる。
その瞳からは、狂気も、絶望も、そして、契約への執着すらも、消えていた。
ただ、どこまでも、どこまでも、深い、虚無だけが、残っていた。
しかし、その虚無の、さらに奥底。
数千年間、忘れていた、微かな光が、揺らめいた。
それは、天使としての、本来の本能。たとえ、この混沌とした魔界にあっても、弱き民を守りたいと願う、純粋な、慈愛の心。
ユウマが、その身をもって示した、『守る』という理が、彼女の、最も深い部分に、触れたのだ。
だが、今の彼女には、その微かな光を、どうすればいいのか、分からない。
貴賓席で、アリアは、その光景に、涙を流していた。
「…ああ、セラフィエル…。貴女の、本当の心が…」
リリスは、そんなアリアを、横目で見た後、ふん、と鼻を鳴らした。
「…甘いわね。でも、まあ…少しは、面白くなってきたじゃない」
「……………勝者…」
審判の声が、再び、震えていた。
「……勝者! 『沈黙の賢者』、ユーーーマァァァッ!!」
それは、戦いではなかった。
ただ一人の父親が、子を守ろうとした結果、堕ちた天使の、存在理由と、契約の呪縛を、砕き、その魂の、最も深い場所に、眠っていた、本能を、わずかに、揺り動かしてしまった。
ただ、それだけの光景だった。
しかし、そのあまりにも静かで、根源的な勝利は、魔都の全ての人々の心に、これまでの魔界の歴史には存在しなかった、新たな『王』の姿を――そして、その計り知れない影響力を――深く、深く、刻み付けたのだった。




