第百四十七話 女王の逆鱗と、暴走する母性
「…あの、大丈夫ですか? 目、充血してますけど…」
ユウマの、あまりにも純粋で、あまりにも間の抜けた、心配の言葉。
それは、魔性の女王リビドーラの、数百年にわたるプライドを、木っ端微塵に粉砕するには、十分すぎた。
ピキィィィィン!
彼女の完璧な笑顔が、完全に崩れ落ちた。
その美しい顔は、屈辱と、そして、生まれて初めて味わうレベルの、激しい怒りに、歪んでいた。
「…よくも…」
リビドーラの、甘い声が、地を這うような、低い響きへと変わる。
「よくも、この私を…**ただの女**扱いしてくれたわねぇぇぇっ!!」
ゴオオオオオオッ!!
彼女の身体から、紫黒色の、禍々しいオーラが、奔流となって、溢れ出した!
それは、もはや、男を惑わす、甘美な魔力ではない。相手の、魂ごと、快楽の地獄へと、引きずり込む、サキュバスクイーンとしての、本質的な、力の解放だった。
闘技場全体が、その、圧倒的な、色欲の瘴気に、当てられ、観客席からは、苦悶とも、歓喜ともつかない、喘ぎ声が、漏れ聞こえ始めた。
「まずい…! リビドーラが、キレた!」
貴賓席で、アイが、顔を青ざめさせる。
「あれは、ただの魅了じゃない! 相手の、精神力を、根こそぎ吸い取る、『魂喰らい(ソウルイーター)』の魔眼よ!」
「ユウマ様!」
ガガルとアリアも、身構える。
闘技場の中央で、ユウマは、その、禍々しいオーラを、真正面から、浴びていた。
全身の力が、抜けていくような、感覚。
頭の中に、甘美で、しかし、堕落的な、幻覚が、ちらつき始める。
(…やばい…!)
ユウマは、必死に、意識を保とうとした。
しかし、相手は、七大公が誇る、チャンプ。格が、違いすぎた。
彼の、なけなしの抵抗は、巨大な波の前に、砂の城のように、崩れ去ろうとしていた。
(だめだ…飲まれる…!)
ユウマの、意識が、遠のきかけた、その、瞬間。
きゅる?
腕の中の、チビすけが、不安げに、鳴いた。
そして、小さな、宝玉の身体を、ユウマの胸に、すり、と寄せてきた。
まるで、「パパ、怖いよ」とでも、言うかのように。
その、小さな、温もり。
その、絶対的な、信頼。
それが、ユウマの、消えかかっていた、意識の、最後の、砦となった。
(…そうだ…俺は…)
(こいつを、守らなきゃ、いけないんだ…!)
父親としての、本能的な、守護欲。
それが、ユウマの、心の中で、爆発した。
ユウマの**『我が子を守る』という、絶対的な、父性**。
それが、リビドーラの**『相手を支配する』という、絶対的な、色欲**と、正面から、衝突した。
【ユウマの『父性(守護)』が、リビドーラの『色欲(支配)』によって、『母性(慈愛)』の概念へと、強制的に、反転・昇華される】
世界が、三度、軋んだ。
リビドーラの、紫黒のオーラが、まるで、浄化されるかのように、その色を、失っていく。
代わりに、彼女の身体から、溢れ出したのは、温かく、柔らかで、全てを、包み込むような、母性の光だった。
「…あれ…?」
リビドーラは、自分の、身に、何が、起きているのか、理解できなかった。
目の前の、ひ弱な、人間の男を、快楽の、どん底に、叩き落とそうとしていたはずなのに。
なぜか、心が、温かい、気持ちで、満たされていく。
そして、彼女の、視線が、ユウマの腕の中の、チビすけに、吸い寄せられた。
その、無垢で、か弱く、しかし、懸命に、輝こうとする、小さな、命の光。
(…かわいい…)
リビドーラの、心の中に、これまで、感じたことのない、愛おしいという、感情が、泉のように、湧き上がってきた。
(…守らなきゃ…)
(この子を、私が、守ってあげなきゃ…!)
彼女の、瞳から、殺意も、色欲も、完全に、消え失せていた。
そこにあったのは、ただ、ひたすらに、目の前の、赤子を、慈しむ、母親の、眼差しだけだった。
「…坊や…」
リビドーラは、ふらふらと、ユウマに、歩み寄ると、その腕の中から、チビすけを、そっと、抱き上げようとした。
「さあ、おいで…。お母さんが、抱っこしてあげるからね…」
「……………はい?」
ユウマは、完全に、フリーズしていた。
闘技場も、完全に、静まり返っていた。
誰もが、目の前で、起こっている、あまりにも、シュールで、あまりにも、理解不能な、光景に、言葉を、失っていた。
魔性の女王が、敵であるはずの、赤子を、あやそうとしているのだ。
貴賓席で、リリスは、もはや、笑うこともできず、ただ、呆然と、その光景を、見つめていた。
(…母性…? あの、リビドーラが…? 嘘でしょ…?)
ユウマは、ただ、思った。
(…なんか、俺、また、やらかした…?)
審判役の魔物が、恐る恐る、宣告した。
「…え、えーっと…。リビドーラ選手、戦闘不能…? よ、よって、勝者! 『沈黙の賢者』、ユーーーマァァァッ!!」
その、あまりにも、締まらない、勝利宣言。
しかし、観客席からは、もはや、歓声すら、上がらなかった。
誰もが、この、あまりにも、奇妙な、勝利の、意味を、理解できずにいた。
ユウマは、目の前で、チビすけを、あやしながら、「よしよし、いい子でちゅねー」などと、完全に、母親モードに入ってしまった、元・魔性の女王を、見ながら。
自分が、これから、どうすればいいのか、全く、分からず。
ただ、静かに、途方に暮れるだけであった。




