第百四十六話 魔眼の女王と、過去の残滓
闘技場のアリーナに、ユウマが一人、静かに立つ。
その、あまりにも普通で、何の威圧感もない姿に、観客席からは、好奇と、侮りの混じった、ざわめきが起こっていた。
しかし、その喧騒も、反対側のゲートが開かれ、次なる挑戦者が姿を現した瞬間、熱狂的な歓声へと変わった。
現れたのは、息を呑むほど美しい、一人の女性だった。
身体のラインを強調する、深紅のドレス。背中には、小さな、蝙蝠のような翼。そして、何よりも、見る者の心を、一瞬で蕩かすような、妖艶な微笑みと、吸い込まれそうな、紫色の瞳。
七大公アスモデウスが誇るチャンプ、サキュバスクイーン、リビドーラ。彼女こそが、その魔眼一つで、英雄すらも、快楽の奴隷へと堕としてきた、魔性の女王だった。
貴賓席で、その光景を眺めていたリリスは、ふっと、鼻で笑った。
「…相変わらずねえ、あの子も」
その声には、どこか、懐かしむような響きがあった。
「お知り合いですか、リリス様?」
隣に座るアリアが、小声で尋ねる。
「まあね」と、リリスは、ワイングラスを傾けた。「昔、ちょっと、面倒を見てやったことがあるのよ。まだ、ただの、小娘だった頃にね」
リリスの脳裏に、数百年以上前の、記憶が蘇る。
魔王の寵愛を受け、魔界で、我が世の春を謳歌していた頃。多くの、魔族の女たちが、彼女に、憧れ、あるいは、嫉妬し、群がってきた。リビドーラも、その中の一人だった。まだ、あどけなさが残る、しかし、野心に満ちた瞳をした、サキュバスの少女。
リリスは、気まぐれに、彼女に、男を惑わす術や、魔力の使い方を、教えてやった。ほんの、遊びのつもりで。
(まさか、あの子が、七大公のチャンプにまで、なるとはね…)
リリスは、再び、闘技場へと、視線を戻した。
リビドーラは、優雅な仕草で、ユウマへと、歩み寄っていく。その、一挙手一投足が、観客たちの、心を、掻き立てる。
そして、リリスは、ユウマを見た。
あの、平凡で、どこにでもいるような、人間の青年。
彼と、初めて、出会った時のことを、思い出す。
―――あの時も、彼は、こんな風に、ただ、立っていた。
自分が、元魔神の愛人であることも、その身に、どれほどの魔力を秘めているかも、全く、気づかずに。ただ、少し、困ったような顔で、自分に、話しかけてきた。
リリスが、戯れに、ほんの少しだけ、魅了の力を、込めて、微笑みかけても、彼は、顔を赤らめるでもなく、ただ、「どうかしましたか?」と、不思議そうに、首を傾げるだけだった。
(あの時は、ただの、鈍感な、変わり者だと、思ったけど…)
今なら、分かる。
彼には、そもそも、『魅了』という、概念そのものが、通用しないのかもしれない。
彼の、あまりにも、純粋すぎる、『無』が、あらゆる、不純な、感情を、弾き返してしまうのか。
あるいは、彼自身が、気づいていないだけで、もっと、根源的な、『何か』が、彼を、守っているのか。
リリスは、ユウマの腕の中のチビすけと、胸元の冥王の宝珠に、目をやった。
(…あるいは、この、二つの、せいかしらね)
試合開始の、ゴングが、鳴り響いた。
「―――さあ、始めましょうか。可愛い、坊や?」
リビドーラが、甘い声で、囁くと同時に、その、紫色の瞳が、妖しく、輝いた。
彼女の、必殺の、『魅了の魔眼』。
その視線を、真正面から受けた者は、例外なく、彼女の、虜となる。
観客席から、悲鳴に近い、どよめきが上がる。
ガガルとアイが、固唾を飲んで、ユウマを見守る。
しかし。
ユウマは、動かなかった。
彼は、ただ、静かに、リビドーラを、見つめ返していた。
その瞳には、何の、感情も、浮かんでいない。
まるで、美しい、人形でも、見ているかのように。
彼は、ただ、腕の中の、チビすけを、安心させることだけに、集中していた。
その、純粋な、父としての、想いが、彼の心を、絶対的な、静寂で、満たしていたのだ。
『心の盾』は、完璧だった。
「…あら?」
リビドーラの、妖艶な、微笑みが、わずかに、揺らいだ。
効いていない? まさか。
彼女は、さらに、強く、魔眼の力を、込める。
しかし、ユウマは、変わらない。
それどころか、彼は、少し、心配そうな顔で、リビドーラに、尋ねた。
「…あの、大丈夫ですか? 目、充血してますけど…」
ピシッ。
リビドーラの、完璧な、笑顔に、初めて、明確な、亀裂が入った。
貴賓席で、その光景を見ていたリリスは、ついに、堪えきれずに、吹き出した。
「くく…っ、あはははは! 最高! 最高よ、ユウマ!」
彼女は、ワイングラスを、高々と、掲げた。
「やっぱり、あんたは、私が見込んだだけのことはあるわ。…ただの、おもちゃなんかじゃ、ない。…本当に、面白い、『何か』よ」
ユウマは、まだ、気づいていない。
自分が、無意識のうちに、魔界で、最も、恐れられる、魔眼の女王の、プライドを、粉々に、打ち砕いてしまったということを。
そして、そのことが、彼女の、秘められた、別の、恐ろしい力を、呼び覚ましてしまう、引き金になるということを。




