第百四十話 心の鏡と、静かなる波紋
「君の力は、君の心の鏡だ。君の在り方が、そのまま世界に映し出されるだけのこと」
健太郎の言葉は、ユウマの修行の指針となった。
彼は、もはや、力を無理に制御しようとすることをやめた。代わりに、ただひたすらに、自分の内側へと意識を向け続けた。
書庫での静かな日々。
ユウマは、健太郎と共に、座禅を組み、呼吸を整える。
湧き上がる雑念、焦り、不安、そして微かな希望。その一つ一つを、ただ観察する。良いも悪いもない。それが、今の自分自身なのだと、受け入れる。
最初は、何も変わらなかった。
しかし、数日が経つ頃、ユウマは、微かな変化を感じ始めていた。
心が、凪いでいる時。腕の中のチビすけの宝玉が、ひときわ澄んだ、穏やかな光を放つのを感じる。逆に、焦りや不安を感じると、チビすけの光も、わずかに揺らぎ、曇る。
二つの心は、確かに、繋がっていた。
そして、ユウマは、もう一つの発見をした。
チビすけの、その、ただ存在しているだけで放たれる、純粋な生命の輝きが、逆に、自分の荒れた心を、静かに、鎮めてくれることがあるのだ。
まるで、幼子が、親を癒やすように。
彼らは、互いを映し出す、鏡であり、互いを支え合う、存在となっていた。
「…喉、渇いたな…」
ある日の午後。深い瞑想から、意識を浮上させたユウマが、ぼんやりと、そう思った、瞬間だった。
部屋の隅に置かれていた、水差しが、カタ、と音を立てた。
そして、中の水が、まるで、生き物のように、するりと流れ出し、細い、水の帯となって、宙を滑り、ユウマの、差し出された手の、すぐ上で、ぴたり、と静止したのだ。
「…え?」
ユウマは、驚いて、目を見開いた。
彼は、何も、念じていない。ただ、「飲みたいな」と、思っただけだった。
「…心が、澄んでおれば」
隣で、静かに座っていた健太郎が、目を開けずに、言った。
「願いは、おのずと、最も、自然な形で、現れる。…力む必要は、ないのだ」
ユウマは、おそるおそる、その、宙に浮かぶ、水の帯に、口をつけた。
冷たくて、美味しい、ただの水だった。
飲み干すと、水の帯は、静かに、消えた。
まだ、自在に操れるわけではない。
しかし、暴走ではない形で、自分の願いが、世界に、作用した。
それは、ユウマにとって、大きな、大きな、一歩だった。
彼の心に、小さな、しかし、確かな、手応えが、灯った。
その様子を、書庫の入り口から、リリスが、静かに、観察していた。
(あら…。少しは、マシになったじゃない。…まあ、あの、化け物揃いの、トーナメントで、通用するかは、別だけど)
彼女は、面白そうに、口の端を、吊り上げると、音もなく、その場を、立ち去った。
修行に、没頭するうちに、時間は、あっという間に、過ぎていった。
ふと、ユウマは、窓の外の、空の色を見て、時間の経過に、気づいた。
(…もう、そんなに、経ったのか…)
魔王継承戦の、開催日は、もう、目前に迫っていた。
まだ、自分の力を、完全に、理解したとは、到底、言えない。
本当に、自分に、戦えるのか。
チビすけを、仲間たちを、そして、自分自身を、守れるのか。
再び、不安が、鎌首をもたげた。
「焦るな、若者」
健太郎は、ユウマの、心の揺らぎを、見抜いていた。
「焦りもまた、感情の一つ。それすらも、観察しろ。…そして、受け入れろ」
トーナメント開催の、三日前。
健太郎は、静かに、立ち上がった。
「…基礎は、できた」
彼は、ユウマに、告げた。
「これ以上は、座学では、学べん。…あとは、実践の中で、君自身の、『理』を、見つけ出すしかない」
健太郎は、ユウマの肩に、そっと、手を置いた。
「忘れるな。戦う相手は、敵ではない。…君自身の、心だ」
修行は、終わりを告げた。
ユウマは、深く、息を吸い込み、立ち上がった。
まだ、自信はない。
しかし、以前のような、絶望感は、なかった。
ただ、「やるしかない」という、静かな、覚悟だけが、そこにあった。
ユウマが、書庫の扉を開けると、そこには、心配そうに、待っていた、仲間たちの姿があった。
「ユウマ様! ご修行、お疲れ様でございます!」
「主サマ、どーだった!?」
ガガルたちは、相変わらず、的外れな、期待に、目を輝かせている。
しかし、ユウマは、もう、それに、振り回されることはなかった。
「…ああ。行こうか」
彼は、静かに、頷いた。
「トーナメントへ」
ユウマの、新たなる、戦いが、始まろうとしていた。
それは、魔王の座を、賭けた、戦いではない。
彼自身の、心を、賭けた、戦いだった。




