第百十九話 父の目覚めと、初めての言葉
魔界の、偽物の月が、西の空に傾き、リリスの家の、埃っぽい窓から、朝の、薄暗い光が、差し込んできた。
ユウマは、久しぶりに、深く、そして、穏やかに、眠っていた。
昨夜、リリスと語り合い、腹を括ったことで、彼の心から、迷いが、消え去っていたからだ。
(…守るんだ。俺が、こいつを…)
そんな、新たな決意を、夢うつつに、反芻していた、その時。
彼の、胸の上で、枕代わりにされていた、チビすけの宝玉が、きゅるる、と、身じろぎするように、光を放ち始めた。
(ああ、朝か…。ミルクの時間だな)
ユウマは、まだ、覚醒しきらない頭で、そう思った。
もはや、彼にとって、チビすけに、生命力を分け与えることは、すっかり、日常の一部となっていた。
彼が、ゆっくりと、目を開け、宝玉に、手を伸ばそうとした、その、瞬間。
『―――パパー』
「…え?」
彼の、脳内に、直接、鈴を転がすような、幼い、子供の声が、響き渡った。
あまりにも、クリアで、あまりにも、場違いな、その声に、ユウマは、一瞬で、覚醒した。
(…幻聴か…? 疲れてるのかな、俺…)
彼は、寝ぼけた頭を、ぶんぶんと振った。
しかし、その声は、もう一度、今度は、もっと、はっきりと、響いた。
それは、彼の胸の上で、宝玉が、ちか、ちかと、光を放つのと、完全に、同調していた。
『パパー、お腹、空いたー』
「…………………」
ユウマの、思考が、完全に、フリーズした。
彼は、恐る恐る、自分の、胸の上にある、光る石ころを、見つめた。
宝玉の中の、五枚の葉を持つ、小さな芽が、まるで、「ねえ、聞いてる?」とでも言うかのように、ぴょこぴょこと、揺れている。
「(…しゃ、喋った…!?)」
その、あまりにも、衝撃的な、事実に、ユウマが、声も出せずに、固まっていると、ソファで、寝ていたはずの、リリスが、くぁ、と大きなあくびをしながら、身を起こした。
「…あら、起きたの。…どうしたのよ、鳩が豆鉄砲食ったみたいな顔して」
彼女は、ユウマの、視線の先に、気づくと、ああ、と、全てを、納得したように、頷いた。
「なるほどね。『知の宝玉』の、力ってわけか」
リリスは、楽しそうに、解説を始めた。
「あの、赤ん坊、宝玉に、蓄積されてた、膨大な、知識を、吸収しただけじゃなく、その、中核にあった、『言語』っていう、概念そのものを、解析して、自分のものに、しちゃったのよ。…つまり、言語能力を手に入れたってこと。おめでとう、あんたの子供、天才よ」
「て、天才って…!」
ユウマが、狼狽えているうちに、その、ただならぬ、雰囲気で、他の仲間たちも、次々と、目を覚ました。
「え、マジで!? チビすけが、喋ったん!?」
アイが、目を輝かせて、ベッドに、駆け寄ってくる。
「ちょ、もう一回、なんか、喋ってみてよ!」
その、期待に応えるかのように、チビすけは、再び、ユウマの、脳内に、直接、語りかけてきた。今度は、少し、不満げだ。
『パパー? おーなーかー、すーいーたー! ごーはーん!』
「おお…!」
その、言葉にならない、しかし、確かに、伝わってくる、意志の強さに、ガガルが、感動の声を上げた。
「なんと、力強い、お言葉! さすがは、ユウマ様の、お子! 腹が減っては、戦はできぬと、すでに、ご理解されているとは! なんという、王の器!」
「まあ…! 聖なる御子が、ついに、お言葉を…!」
アリアは、すでに、ハンカチで、目頭を押さえている。
「そして、その、最初の、お言葉が、父君を、お呼びになる、声だなんて…! なんという、美しい、親子の、絆でしょう…!」
仲間たちが、いつものように、好き勝手な、解釈で、盛り上がる中。
ユウマは、ただ、腕の中の、チビすけを、見つめていた。
(…パパ…か)
その、たった、二文字の、響きが。
昨夜、固めたはずの、覚悟よりも、ずっと、深く、そして、温かく、彼の、心の、一番、柔らかい場所を、満たしていった。
ユウマは、思わず、笑っていた。
それは、諦めでも、苦笑でもない。
心の底から、込み上げてきた、どうしようもなく、愛おしいという、感情だった。
「…はいはい。今、ごはんに、するからな」
彼は、そう言うと、そっと、宝玉を、胸に抱きしめ、温かい、生命力を、注ぎ始めた。
その、姿は、もはや、勘違いされた、賢者ではない。
ただの、寝起きの、不器用な、一人の、父親の、顔だった。
彼の、本当の、戦いは、ここから、始まる。
この、小さな、おしゃべりを始めた、我が子を、守るために。




