第百十八話 月夜の真実と、父の覚悟
その夜、仲間たちの、賑やかで、どこか、安心するようないびきだけが、リリスの古い家に、響き渡っていた。
ガガルは、床で、幸せそうに、寝言でラップを刻み、アイは、大量のぬいぐるみに埋もれて、満足げに、眠っている。アリアは、祈りのポーズのまま、穏やかな寝息を立てていた。
ユウマは、眠れなかった。
彼は、そっと、ベッドを抜け出すと、家の、小さな、屋根裏部屋の窓から、外を眺めた。
魔界銀座商店街は、夜は、静かだった。赤提灯の、赤い光だけが、まるで、鬼火のように、ぼんやりと、道を照らしている。
腕の中では、チビすけが、すうすうと、穏やかな、虹色の光を、明滅させていた。
ユウマは、その、小さな、温かい光を、見つめる。
(…こいつが、いるから…)
逃げるだけでは、ダメなんだ。
守らなければ、いけない。
その、漠然とした、しかし、確かな、父としての、感情が、彼の胸を、満たしていた。
「…感傷に、浸ってるのかしら?」
静かな、声。
気づくと、リリスが、いつの間にか、彼の、隣に立っていた。その手には、どこからか、持ち出してきた、年代物の、ワインのボトルと、グラスが二つ。
「眠れないの?」
「…まあね」
ユウマは、気まずそうに、答えた。
リリスは、ユウマに、グラスを一つ、差し出すと、なみなみと、ワインを注いだ。
「…いい夜よ。昔話を、するには、ちょうどいい」
彼女は、ユウマの、視線の先、混沌とした、魔界の空を、見つめた。
「あんたが、気になっていること…。教えてあげるわ。…この、魔界の、本当の、情勢について」
ユウマは、息を呑んだ。
リリスの、表情には、いつもの、からかうような、色は、なかった。
「あんたも、薄々、気づいてるでしょうけど」と、リリスは、続けた。
「今の、魔界は、壊れてるの。…玉座に、王が、いないから」
「魔王は…?」
「さあね」と、リリスは、肩をすくめた。「百年以上前に、ふらっと、玉座を、空けて、どこかへ、消えちゃったわ。それ以来、この世界は、ずっと、内戦状態。…玉座を、狙う、七人の、有力な、魔族、『七大公』が、互いに、牽制し合い、水面下で、潰し合ってる。…あんたたちを、襲ってきた、ベルゼビュートや、ザラキエルも、その、七大公の、一人とその、配下よ」
リリスは、ワインを、一口、含んだ。
「彼らは、喉から、手が出るほど、欲しいのよ。…次期魔王となるための、『正統性』がね」
彼女は、そこで、言葉を切ると、ユウマの、腕の中の、チビすけと、胸元の、冥王の宝珠を、見比べた。
「『生命』、そして、この子が、飲み込んだ、『知』。さらに、あんたの胸にある、『魂』。七つの、創世の宝玉の、内、三つを、その身に、宿す、存在。…それが、どういう意味か、分かる?」
ユウマは、首を横に振った。
リリスは、静かに、告げた。
「あんたは、この、魔界の、後継者争いを、終わらせる、最高の、切り札なのよ。あんたを、手に入れた者が、次の、魔王に、なると言っても、過言じゃない。…だから、彼らは、あんたを、狙う。どんな、手を使ってもね」
壮大な、世界の、裏側。
自分が、その、混沌の、中心にいるという、事実。
ユウマは、ゴクリと、喉を鳴らした。
「…俺は、どうすれば…」
「さあ?」
リリスは、意地悪く、笑った。
「誰か、一人を、選んで、魔王にしてあげる? それとも、全員、まとめて、叩き潰す? …あるいは、あんた自身が、魔王に、なっちゃうとか?」
その、あまりにも、無責任な、言葉。
しかし、ユウマは、もはや、絶望しなかった。
彼は、腕の中の、チビすけを、ぎゅっと、抱きしめた。
この子の、穏やかな、眠りを、守りたい。
ただ、それだけだった。
「…俺は」
ユウマは、静かに、しかし、はっきりと、言った。
「俺は、魔王に、なる気も、誰かを、選ぶ気も、ない。…ただ、こいつが、安心して、眠れる、場所が、欲しいだけだ」
「もし、そいつらが、それを、邪魔するって言うなら…」
ユウマは、顔を上げた。
その、瞳には、もはや、怯えの色は、なかった。
ただ、守るべきものを、見つけた、父親の、静かで、しかし、揺るぎない、決意の、光が、宿っていた。
「…俺は、そいつらと、戦う」
その、言葉を聞いて。
リリスは、初めて、心の底から、楽しそうに、そして、どこか、嬉そうに、微笑んだ。
「…ふふ。ようやく、腹を、括ったみたいね」
彼女は、グラスを、ユウマの、グラスに、こつん、と当てた。
「―――いいじゃない。その、馬鹿げた、覚悟。この私が、最後まで、見届けてあげるわ」
魔界の、片隅の、古い家の、屋根裏で。
一人の、元コンビニ店員は、世界の、運命ではなく、ただ、腕の中の、我が子の、寝顔のために、戦うことを、誓った。
その、あまりにも、ささやかで、あまりにも、人間的な、決意こそが、やて、七つの世界を、揺るがす、巨大な、物語の、本当の、始まりになるということを、まだ、誰も、知らなかった。




