第百話 忘却の荒野と、記憶の灯火
ユウマが、冥界の法廷から、一歩、足を踏み出した瞬間。
世界の、全てが、変わった。
そこは、音も、風も、光の、揺らぎすらない、完全な、虚無の空間だった。
どこまでも続く、灰色の、大地。
地平線の、遥か、彼方に、巨大な、川が、よどむように、流れているのが、見える。あれが、『忘却の川』に、違いない。
(…行かなきゃ)
ユウマは、走り出した。
ただ、ひたすらに。
友の魂が、あの川に、たどり着く前に。
しかし、この、灰色の荒野は、ただ、広いだけではなかった。
走り続けるうちに、ユウマは、奇妙な、感覚に、襲われ始めた。
身体が、重い。
思考が、鈍る。
そして、何よりも。
(…俺は、なんで、走ってるんだっけ…?)
大切な、何かを、思い出そうとしているのに、その、輪郭が、霧のように、霞んでいく。
頭の中に、濃い、灰色の、靄が、かかっていくようだった。
この世界は、存在した、全ての記憶を、ゆっくりと、削り取っていく、忘却の、大地なのだ。
(…ガガルさん…そうだ、ガガルさんを、助けるんだ…)
彼は、必死に、その名を、心の中で、繰り返す。
しかし、その、顔が、声が、思い出せなくなっていく。
緑色の、大きな、男。
いつも、うるさくて。
いつも、自分のことを、「ユウマ様」と、呼んでいた。
でも、それだけだ。
なぜ、彼を、助けなければ、ならないのか。その、理由が、思い出せない。
やがて、ユウマの足が、もつれ、その場に、ばたり、と倒れ込んだ。
もう、いいか。
疲れた。
ここで、少し、眠ろう。
全てが、どうでもよくなっていた。
彼の、決意の炎は、忘却の風に、吹き消されようとしていた。
その、時だった。
きゅるん。
彼の、胸元で、温かい、翠色の光が、灯った。
チビすけだった。
この、生命の存在しない、灰色の世界で、唯一、色を持つ、存在。
宝玉は、まるで、「しっかりして、パパ」とでも、言うかのように、ユウマの、冷え切った心に、その、温もりを、注ぎ込んできた。
そして、その光と共に、ユウマの、霞んでいく、意識の中に、断片的な、しかし、鮮明な、光景が、流れ込んできた。
―――『幻獣界生まれ 魔界の育ち! 悪いやつらはだいたい友達!』
宴会で、壊滅的に、センスのないラップを披露し、得意げな顔をしている、ガガルの姿。
―――『さあ、ユウマ様! どうぞ、我が腕を!』
自分の、腕を、切り落としてまで、空腹の、自分に、差し出そうとする、狂信的な、ガガルの姿。
―――『ユウマ様ッ!!』
そして、魔将軍の、絶対的な、一撃の前に、迷いなく、立ちはだかった、大きな、大きな、背中。
(…ああ、そうだ…)
ユウマの、瞳から、一筋の、涙が、こぼれ落ちた。
(…あいつは、馬鹿で…)
(…暑苦しくて…)
(…いつも、勘違いばかりで…)
(…だけど、俺の、たった一人の、友達じゃないか…!)
忘却の、靄が、晴れていく。
代わりに、彼の、魂の、奥底から、これまで、感じたことのない、熱い、力が、湧き上がってきた。
それは、悲しみではない。
それは、怒りでもない。
ただ、純粋な、『友情』という、感情だった。
ユウマの**『友情という、絶対的な、記憶』**。
それが、この、忘却の世界の、理に、抗う、唯一の、光となった。
「うおおおおおおおおっ!!」
ユウマは、再び、立ち上がった。
その足は、もう、重くない。
その心に、迷いは、ない。
彼は、再び、走り出した。
遥か、彼方に見える、忘却の川。
その、岸辺には、長い、長い、魂の、行列が、できていた。
皆、生前の、記憶を、失い、ただ、無感情に、川へと、向かって、歩いている。
(…どこだ…!? ガガルさんは、どこだ!?)
ユウ-マは、必死に、その列の中に、見覚えのある、姿を、探す。
そして、見つけた。
ひときわ、大きな、緑色の、魂。
ガガルだった。
彼の魂は、他の、魂たちと、同じように、虚ろな目で、ゆっくりと、川へと、向かって、歩いていた。
その、足が、水面に、触れるまで、あと、数歩。
(間に合ええええええええっ!!)
ユウマは、最後の力を、振り絞り、叫んだ。
その、魂の、奥底から。
友の、名を。
「ガガルーーーーーーーーーーーッ!!」
その声が、灰色の、世界に、響き渡った、瞬間。
川に、足を踏み入れようとしていた、ガガルの魂が、ぴくり、と、その動きを、止めた。




