第10話:英雄の逃走
広場を支配していたのは、死者のような静寂だった。
先ほどまでの熱狂は幻だったかのように消え去り、村人たちは恐怖に引きつった顔で、まるで未知の獣から距離を取るようにじりじりと後ずさる。彼らの視線は一点、聖なる宝玉を手にした少年――ユウマに突き刺さっていた。その瞳に宿るのは、もはや尊敬や感謝ではない。いつ牙を剥くか分からない災害を見つめる、純粋な畏怖そのものだった。
(終わった……完全に終わった……!)
ユウマの脳内で、思考がショートする。
村の長を公衆の面前で攻撃したのだ。問答無用で捕縛され、薄暗い石牢に放り込まれ、無実の罪をなすりつけられ、やがて処刑台の露と消える。前世で読み漁った物語の最悪な展開が、彼の脳裏を駆け巡っていた。
(謝罪? 無理だ。言い訳? 通じるはずがない。こうなったら、俺に残された道はただ一つ!)
パニックの果てに彼が導き出した結論は、あまりにも英雄らしからぬ、原始的な自己防衛本能の発露だった。
「うわあああああああああっ!!」
魂の底から絞り出したような情けない悲鳴と共に、ユウマは踵を返した。仲間たちの存在など綺麗さっぱり忘れ去り、村の出口を目指して一目散に逃走を開始する。火事場の馬鹿力か、その疾走は常の彼からは想像もつかぬ速さだった。
だが、その瞬間、ユウマの単純極まる逃避行は、吟遊詩人が千年語り継ぐ壮大な伝説の一幕へと捻じ曲げられる。
ユウマの**『逃走という概念』が、村人と仲間たちの『絶対者への畏怖と崇拝』**をトリガーとし、『概念誘導』を発動。彼の必死の逃走は、凡人には到底理解の及ばない、神速の秘儀へと昇華されてしまったのだ。
【ユウマの『全力逃走』が『神速移動』と誤認・反転 → 『次なる目的地へ向かうための神聖なる旅立ち』として周囲に認識される】
一瞬、主君の奇行に呆然としていた仲間たちだったが、彼らの規格外な勘違い回路は即座にフルスロットルで稼働を始める。
「なんと! 我々の認識すら置き去りにする神速! ユウマ様は、この地での役目を終えたと判断され、すでにはるか先の未来を見据え、次なる目的地へとお発ちになったのだ! 遅れを取るな、続け!」
ガガルは主君の深遠な意図を(完全に誤解して)看破し、大地を蹴って猛然とその後を追った。
「ああ、賢者様…! 愚かなる民をお救いになった後も、一瞬の休息すらご自身にお許しにならないのですね! 次なる救いを求める人々の元へ、ただひたすらに急がれるとは! お待ちくださいませ!」
アリアは目に聖なる涙を浮かべ、祈りと共に、光のような速さでその跡を追う。
「あらあら、せっかちな人。…でも、面白い。ただ闇雲に走っているわけじゃないわ。体内の魔力を循環させ、身体能力を限界以上に引き上げている。まるで一筋の流星ね。いいわ、どこまでも付き合ってあげる」
リリスだけは、ユウマの情けない本質に気づきながらも、その結果として生まれる超常現象を心から楽しみ、優雅な足取りで、しかし信じがたい速度で一行に続いた。
後に残された村人たちは、瞬く間に点となり、やがて視界から消えていく四つの影を、ただ呆然と見送るしかなかった。
「み、見ろ……まるで疾風のごとくだ…」
「我々のような者に構う時間すら惜しいと、そうおっしゃるのか…」
「風のように現れて災いを払い、嵐のように去っていく…。あれこそが、本物の英雄譚にうたわれるお姿なのだ…」
吹き飛ばされた腰の痛みも忘れ、村長はユウマが消えていった空の彼方を仰ぎ見ながら、涙ながらに絶叫した。
「ありがとうございましたァァァッ! 英雄様ァァァッ!」
その声に合わせ、村人たちはその場に膝から崩れ落ち、伝説が走り去った道に向かって、深々と頭を垂れ続けるのだった。
当の本人が、ただ捕まりたくない一心で泣きながら逃げているだけだとは、もはや神々以外、誰も知る由もなかった。




