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金貨に願いを  作者: まみ
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記念日

「おはよ。あれ、今日はレモンパイ頼まないんだ」


 水野さんが声をかけてくる。私は少しはにかみながら、


「今日は身体測定ですから。体重落とそうって、直前の悪あがきです」


 と、答える。


 水野さんは、私と同じように毎朝「喫茶レモンパイ」で朝食をとる、常連さんだ。歳は、きちんと尋ねたことはないけれど、多分40歳くらい。私のお父さんと同じくらいだ。少し加齢臭が強い。この喫茶店は席が少なくて、それに朝はがらんとしているから、2年くらい前から来ていた私と1年くらい前から来ている水野さんは、すっかり顔見知りになっていた。


 水野さんは独身。ずっと前に離婚してから、ずっと一人暮らしらしい。「一人っていうのは寂しいよ」って、いつも愚痴をこぼしている。


 一度だけ、喫茶店以外で会おうと水野さんに誘われたことがある。夜、一緒に食事をしないかって。そのとき私はあの人をちらちら見ながら、小声で、行きません、と返事した。あの人に気が多い女だと思われるのは嫌だった。「私はまだ高校生だし、夜に出かけると親が心配するから。ごめんなさい」って断ったら、一瞬寂しそうな顔をした水野さんは、いいよいいよ、急に誘ったりしてごめんねって、顔をくしゃくしゃにして笑ってた。


 水野さんはとても親切。ここの喫茶店の看板メニューのレモンパイを時々おごってくれるし、いつも楽しい話をしてくれる。中学生のときに学校でいじめられていた私は、高校生になって新しい学校に行っても、やっぱり友達は多くない。だから、この喫茶店が私に唯一のやすらぎをくれる場所。それに、ここにはあの人がいるから。


 あの人とは、まだ一度も話したことはない。お勘定はマスターがやってるし、あの人はコーヒーをいれたり、レモンパイを切ったりしているから、声もかけられない。


 けれど、水野さんはあの人ととても仲良し。水野さんが「今日のレモンパイ、おいしかったよ」ってあの人に声をかけると、あの人は「いつもありがとうございます」って、透き通った声でかえす。あの人が何か一言言う度に、私は密かに目を閉じる。あの人の声を心に録音するためだ。


 「じゃあ、絵里香ちゃん、僕は仕事に行くから。また明日の朝ね」


 水野さんが喫茶店から出て行くと、お店の中は急に静かになった。そしてマスターが店の奥に入っていくと、完全に私とあの人だけの空間ができあがった。


 私の心臓は今、故障してしまうんじゃないかってくらいドキドキしている。どうしよう、神様が下さったこのチャンス、どうしよう!話しかけてみるべきかな、無視されたらどうしよう、お仕事中だから迷惑かな・・・そんなことをごちゃごちゃ考えていたから、私はすぐ近くにあの人が来ていることに全然気づかなかった。


「あの、毎朝来てくださってますよね。ありがとうございます」


 あの人が私に話しかけて来た。どうしよう、なにか返事しないと。頭の中が真っ白になって、気絶してしまいそうになった。


「あ・・・はい、いつもレモンパイ、ありがとうございます。おいしいです」

「そっか、良かった。高校生ですか?2年くらい前から来てくださってますよね。ひいきにしてくれて、ありがとうございます。僕、3年くらい前からここでバイトしている佐江島っていいます。今年大学卒業したんで、4月からここで正式に働くことになりました。これからもよろしくお願いします」

「そ、そうなんですか、こちらこそお願いします」


 あの人はにっこりほほえむと、またカウンターの方に歩いて行った。


 初めてだった。2年間で、初めて。初めて、あの人と話した。それに、それに、あの人は、ここでこれからも働き続けるみたいだ。神様は、私に味方してくれている。ああ、神様ありがとうございます!!


 あの人の名前、佐江島良太さん。歳は24。有名な大学に通っていて頭もすごく良いみたい。さわやかで笑顔が素敵な男性だ。住所は、私の家の近くの駅から2つほど行った先の駅の近く。自転車で30分くらいのところで、一人暮らしをしている。彼女はいない。これは、私があの人について調べたことの中で特に入念に調べた項目だから、間違いないはず。あの人は、彼女がもう5年くらいいない。もしかしたら、好きな人がいるのかもしれない。でもそれは考えないようにした。


 私は、あの人に夢中になってからの2年間、あの人についてたくさん調べた。家だって、あの人にばれないようにこっそりついて行って覚えた。私は学校にも塾にも家にも居場所なんてないけど、あの人のことを考えているときだけは幸せを感じられた。いつもは恨んでいる神様に感謝でいっぱいになる。



 あの人が初めて私に話しかけてくれた日、いつものように高校に行って、帰りたくもない家に帰ると、お兄ちゃんが玄関に立っていた。お兄ちゃんが自分の部屋じゃないところにいるのを見るのは、5年ぶりだと思う。何をしているのかわからなかったけど、お兄ちゃんは帰ってきた私を見てにやっと笑い、そのまままた部屋に閉じこもってしまった。


 お兄ちゃんはすごく太っている。引きこもったまま全然部屋から出てこないから、私はお兄ちゃんに夕飯を運ぶようにお母さんに言われるとき以外会わない。お兄ちゃんの部屋には、ネットで買いためた女の子のフィギュアや、アニメのDVD、漫画やゲームがたくさん散乱している。それに、長い間そうじしていないから、お兄ちゃんの汗や精液の臭いで充満している。私はお兄ちゃんの部屋の前を通るときは絶対に息をとめる。お兄ちゃんの臭いを嗅ぐと、私が腐ってしまいそうだから。あの人に毎朝会うのに、腐ってたら会えない。



 お兄ちゃんが私を見てにやっとした理由は、私が自分の部屋に行ったときすぐにわかった。私の部屋に、私のお気に入りの下着が投げ捨てられていて、その下着にはお兄ちゃんの精液がたくさんかけられていた。先週買いに行った、ピンクの下着。ショーツとブラで、おそろいの下着。バイトして貯めたお金で、自分へのごほうびに買ったものだった。あの人と初めて話したときに、記念として履こうと思って、大事にとっておいたのに。


 おそるおそる下着を手に取ると、お兄ちゃんの腐った臭いがした。私まで腐った気がした。今日、あの人と初めて話したから、やっと身につけられるはずだったのに。下着は半透明の液体にまみれて、腐った魚介類のような臭いを発していた。

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