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第6章:悪意(二)

 博人が軍の関係者らしき壮年の男性に声をかけられ、真由から少し離れた、その時だった。壁の花となって息を潜めていた真由の前に、ひときわ華やかな人垣から一人の女性が歩み出てきた。


 夜空の色のドレスを纏い、流行の夜会巻きに結い上げた艶やかな黒髪。自信に満ちた眼差しで、まるで女王のように君臨するその女性を、真由は知っていた。伯爵家令嬢、三宮惠理香。博人の元婚約者と噂される、社交界の華だ。


「まあ、こちらにいらしたのは一条家の新しい奥様ではありませんか」


 取り巻きの令嬢たちを従え、惠理香は扇で口元を隠しながらも、その声色には隠しきれない侮蔑が滲んでいた。真由は咄嗟に身を固くする。


「九重のご出身でしたかしら? あのような寂れた子爵家から公爵家に嫁がれるなんて、さぞ素晴らしい異能をお持ちなのでしょうね。……あら、けれどお噂では、触れた物の記憶が少し見えるだけの『出来損ない』だと伺いましたけれど」


 聞こえよがしに放たれる言葉は、かつて実家で母や姉から浴びせられた罵声と重なり、真由の胸を鋭く抉った。反論も、否定もできない。ただ「申し訳ありません」と消え入りそうな声で謝罪するのが精一杯だった。その姿は、長年虐げられてきた彼女の体に染み付いた、悲しい自己防衛の本能だった。


 真由の怯えた反応を見て、惠理香は愉悦に唇の端を歪める。彼女の目に、一瞬、怜悧な光が宿った。


 次の瞬間、真由の足元、磨き上げられた大理石の床に、不自然な黒い染みがじわりと広がった。それはまるで雨上がりの道にできた泥水たまりのようで、あまりに精巧なため、誰もそれが幻だとは気づかない。惠理香の異能幻燈(げんとう)。その幻は、真由の瑠璃色のドレスの裾を汚し、彼女を衆目の前で転ばせるために、周到に仕組まれた罠だった。


「あら、大変。お足元が汚れてしまいますわ」


 惠理香の猫なで声とは裏腹に、その瞳は真由が罠にかかり、無様に転んで恥をかく瞬間を今か今かと待ち構えていた。何も知らない真由は、慌てて一歩下がり、その幻の泥濘へと足を踏み出そうとしてしまう。


 真由の爪先が、幻の泥濘に触れる、まさにその寸前だった。


 突如、力強い腕が伸びてきて、彼女の腕をぐいと掴んだ。驚きに息を呑む間もなく、ふわりと体が引き寄せられる。ぶつかったのは、硬質で、けれど微かに温かい胸板だった。嗅ぎ慣れない上質な香料と、彼自身の匂い。それが一条博人のものであると気づくのに、数秒を要した。


「……!」


 言葉を失う真由の耳元で、小さく舌打ちが聞こえた気がした。博人は真由を背に庇うように立ち、その冷徹な視線を惠理香へと真っ直ぐに向ける。その視線は、彼の異能である灼炎(しゃくえん)を思わせるほどに鋭く、触れるもの全てを焼き尽くさんばかりの威圧感を放っていた。


 惠理香の顔から、余裕の笑みがすっと消える。彼女の集中が乱れたことで、真由の足元にあった精巧な泥水たまりの幻は、陽炎のように揺らぎ、跡形もなく掻き消えた。


 ホールに満ちていた喧騒が、嘘のように静まり返る。誰もが息を呑み、公爵家の若き当主代理と、社交界の華との間に走る見えない火花に釘付けになっていた。


「下らない真似はよせ、三宮嬢」


 博人の声は低く、静かだった。だが、その一言は氷の刃のように研ぎ澄まされ、惠理香のプライドを容赦なく切り裂いた。それは、事件捜査の焦燥からくる苛立ちか、あるいは彼の心の奥底で無意識に芽生え始めていた、名もなき感情の表れか。整えられた書斎で見せるあの健気な気配りが、彼の内面の何かを動かしていたのかもしれない。


 惠理香の頬が、屈辱にさっと赤く染まった。衆目の前で、そして何より想いを寄せていた博人本人から受けた痛烈な拒絶に、彼女の夜空色の瞳が憎悪に揺れる。


 博人はそんな惠理香にもはや一瞥もくれず、掴んだままだった真由の腕を引いて、その場を静かに離れた。何が起きたのか、まだ真由には理解が追いつかなかった。ただ、腕を掴む彼の指の力強さと、背中から感じる確かな体温だけが、現実感を伴って彼女の心をかき乱していた。

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