第5章:帝都を蝕む影
書斎に差し込む午後の光が、埃をきらきらと照らし出していた。
真由は、夫である博人の邪魔にならぬよう、息を潜めて書棚のガラスを磨いている。偽りの夫婦とはいえ、妻としての務めを果たそうとするのは、彼女の生来の健気さゆえか、あるいはほんの少し芽生えた彼への思慕の念からか、真由自身にもまだ判然としなかった。
重厚な執務机に向かう博人は、書類の山に没頭している。静寂を支配するのは、彼が万年筆を走らせる音と、真由が布でガラスを拭うかすかな音だけ。触れれば記憶が流れ込んでくる異能を持つ真由にとって、物言わぬ品々に囲まれたこの静かな掃除の時間は、奇妙な安らぎを与えてくれていた。
その穏やかな静寂を、けたたましい電話の呼び出し音が無遠慮に引き裂いた。
びくりと肩を揺らした真由とは対照的に、博人は顔色一つ変えずにペンを置くと、受話器を取り上げた。
「一条だ」
凛とした声が室内に響く。真由は手を止め、固唾を飲んで彼の背中を見つめた。
電話の相手が誰なのか、何を話しているのか、真由には聞き取れない。しかし、彼の言葉が次第に熱を失っていくのが、空気の震えで分かった。
「……何時だ」
「……症状は」
「……そうか」
相槌は短く、感情を削ぎ落とした無機質な響きを帯びていく。やがて、わずかな沈黙の後、博人は「分かった」とだけ告げて、乱暴に受話器を置いた。ガチャン、という音がやけに大きく響く。
書斎に、先ほどまでとは質の違う、張り詰めた沈黙が落ちる。博人は椅子に座ったまま、窓の外に広がる帝都の空を、凍てつくような眼差しで見つめていた。その横顔に浮かぶのは、いつもの冷徹さとは違う、硬質な怒りの色だった。
「……博人さま?」
恐る恐る声をかけると、彼はゆっくりと真由に視線を向けた。その瞳の奥に宿る暗い光に、真由は息を呑む。
「五島伯爵が倒れた」
それは、先日、一条家に茶会で訪れていた温厚な老貴族の名だった。
「帝都を騒がせている、異能者連続衰弱事件の新たな犠牲者だ」
新聞で見ただけの、遠い世界の出来事だと思っていた噂が、鋭い楔となって二人の間に突き刺さった。書斎の窓から見える帝都の街並みが、にわかに不穏な影に覆われたように、真由の目には映っていた。
~~~
博人は立ち上がると、書斎の内線電話を取り、従僕に短く告げた。
「軍服を用意しろ。――ああ、すぐにだ」
その声には、いかなる躊躇も、他者の介入を許さないという鋼のような意志が宿っていた。
有無を言わせぬ響きに、真由はただ息を詰めて彼を見つめる。警察や憲兵隊に任せるのではない。彼自ら、この得体の知れない事件の渦中へ飛び込もうとしているのだ。
博人は真由を一瞥すると、何も言わずに書斎を出て行った。迷いのない足音が、長い廊下に吸い込まれていく。
残された書斎で、真由はしばらく動けずにいた。彼の身が案じられてならなかったが、自分に何ができるというのか。呼び止める言葉さえ、持っていなかった。
(行かなければ)
衝動的に、真由は書斎を飛び出した。せめて、無事を祈る一言だけでも伝えたかった。博人の私室へと続く廊下を早足で進むと、ちょうど部屋から出てきた彼と鉢合わせになった。
「――っ」
真由は息を呑んだ。
そこにいたのは、いつも真由が見ている洋装の公爵家嫡男ではなかった。
黒を基調とした、隙のない仕立ての軍服。金のモールが彼の広い肩を飾り、胸には彼の戦功と序列を示すであろう色とりどりの略綬が並んでいる。その姿は、彼の異能が「あらゆるものを焼き尽くす」と噂されるにふさわしい、圧倒的な威圧感と、すべてを寄せ付けない冷たい光を放っていた。
磨き上げられた黒の長靴。腰に下げたサーベルの柄。そのどれもが、彼がただの貴族ではなく、帝都の秩序をその力で守護する存在であることを物語っている。
「帝都最強の異能者」
噂でしか知らなかった彼のもう一つの顔が、今、目の前にあった。切れ長の涼やかな瞳の奥に、まるで灼熱の炎が揺らめいているかのような錯覚さえ覚える。
「何か用か」
地を這うような低い声に、真由の体は竦んだ。
「……お、お気をつけ、ください」
ようやく絞り出したのは、ありきたりな言葉だった。彼の世界に踏み込むことなど、到底できそうになかった。
博人はかすかに目を伏せると、真由の横を通り過ぎながら、吐き捨てるように言った。
「お前は、屋敷から出るな」
それは命令だった。けれど、その響きの奥に、ほんのかすかな案じる色を感じ取ったのは、真由の願望だっただろうか。
振り向くこともできず、真由はその場に立ち尽くす。玄関ホールへと向かう博人の背中は、あまりにも大きく、そしてひどく孤独に見えた。
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博人が捜査に乗り出してから、既に数日の夜が過ぎていた。
一条家の書斎は、今や事件の捜査本部さながらの様相を呈している。帝都の広大な地図が壁に貼られ、被害者の屋敷があった場所に赤い印が付けられているが、その位置関係に法則性はない。机には現場写真や調書、異能の専門家による見解書といった書類が山と積まれ、部屋には冷えた茶と、微かなタバコの匂いが澱んでいた。
真由は夜食を乗せた盆を手に、そっと書斎の扉を開けた。
電気スタンドの光の中に浮かび上がる博人の横顔は、数日前よりも明らかに険しさを増している。いつもは完璧に整えられている髪には乱れが見え、顎にはうっすらと髭が伸びていた。彼の纏う空気が、苛立ちでピリピリとささくれ立っているのが痛いほど伝わってくる。
「……くそっ」
低く吐き捨てられた悪態に、真由の肩が小さく震えた。博人は地図を睨みつけたまま、指で強くこめかみを押さえている。
「被害者間の繋がりも、犯行の手口も、まるで掴めん。現場には異能の残留思念すら残っていない。これでは、まるで相手は幽霊だ」
それは独り言だったのか、あるいは真由の存在に気づいての発言か。その声には、普段の彼からは想像もつかない、焦りの色が濃く滲んでいた。「帝都最強」と謳われる男が、見えない敵を前に、為す術もなく立ち尽くしている。その事実が、彼の自尊心を少しずつ削っているのかもしれない。
真由は音を立てないように机の隅に盆を置いた。温かい吸い物の湯気が、張り詰めた空気にささやかな潤いをもたらす。
その気配に、博人はようやく我に返ったように顔を上げた。書類の海の中で、一瞬だけ二人の視線が交差する。彼の切れ長の瞳に映るのは、疲労と、そして行き場のない焦燥。
「……下がっていろ」
絞り出すような声に、真由は黙って頷くことしかできなかった。彼の苦悩を前に、自分の存在はあまりに無力だった。
書斎の扉を静かに閉めながら、真由は強く拳を握りしめる。あの冷たい仮面の裏に隠された彼の苦しみを、自分はもう知っている。ただ案じるだけではない、何か、自分にできることはないのだろうか。その思いが、彼女の胸の中で熱を持ち始めていた。