001 金貨一枚すらの
春だというのに外はうすら寒く、薄いフードしか身に着けていない体に風がこたえる。
街の中は皆、温かな格好で足早に歩いている。
しかしやっと訪れた春に、どこか浮きたつような雰囲気があった。
むしろこんなに足が重く、歩けないのは私ぐらいだろう。
それでも歩くしかない。
私のために出す馬車もないのだから。
本当にこれで男爵家の妻だというのだから、笑え……ないか。
私は実家の商会につくなり、執務室にいた父に頭を下げた。
「お父様、どうかお願いです。私にバラ病の治療薬を買うお金を貸してください。今ならまだ間に合うかもしれ……」
「はっ。何を馬鹿なことを言ってるんだアンリエッタ。なぜそんなくだらないもののために、うちの金を使わねばならん」
くだらない、くだらないって……。
それがなければ、私は死んでしまうのに。
でもそれでも私は必死にお願いするしかない。
「お願いです、お父様」
「断る!」
「断るって……」
床にひざまずき頭を床にこすりつける私に、父は冷たく言い放つ。
呆然と見上げれば、私と同じ薄紫の瞳と銀色の髪の父と目が合った。
顎ひげに手を置いた父は、さもうんざりだという顔をしながら、執務室の椅子に深く腰かけ、動こうとはしない。
この人は、自分の言った言葉の意味を理解しているのだろうか。
ううん。
理解しているからこそ、きっとそう言ったのでしょうね。
昔からそういう人だから。
だけど……。
「お金なら必ずお返します。たとえどれだけここで働いたとしても」
「どの口が言うんだ。だいたいあの薬がいくらするのか知っているのか、アンリエッタ」
「それは……」
「金貨一枚だぞ、金貨一枚」
金貨一枚は確かに大金だ。
田舎だったら、大人一人が質素でも一年暮らせるだけの額だもの。
だけど実家であるこのダントレット家は、この国一と言われるほど大きな商会を経営している。
それこそ湯水のごとくお金を稼ぎ出してきているのだ。
だからたった金貨一枚を、用意出来ないなんてことはありえない。
むしろ一日もかからず稼ぎ出してくるだろう。
しかも私は、きちんとそのお金を自分で働いて返すとまで言っているのに。
それでも貸さないと言うなんて。
「今のお前には、金貨一枚すら返すあてもないからここに来たのだろう?」
「そうかもしれませんが、働けば、なんとでもなります」
「無理だな。そんな病に冒された体でどうするというのだ」
「ですから薬で完治したあとに、またここで働いて……」
必死に訴えても、父はただ私の言葉を鼻で笑った。
私は下唇をかみしめる。
やはりね。
完治するかどうかなんて、この人にはどうでもいいんだわ。
「お父様は、私にはもう金貨一枚ほどの価値すらないとおっしゃるのですか?」
「あははははは。よく分かっているではないか、アンリエッタ。まさに、そうだ。お前にはもう、金貨一枚の価値すらない。せっかく一番良い就職先を見つけてやったというのに」
金貨一枚すらの価値もない。
自分の実の娘が苦しんでいるというのに。
父は呆然とする私を、ただ笑っていた。
娘が死ぬというのに、それでもこの人は笑うのね。
私は何に希望を求めていたのかしら。
だけど不思議と涙は出なかった。
ただ心に重しのような何かが乗ってきたような、そんな感覚だった。