000 私の価値
「あ、アンリエッタ、まだ……いたのか」
屋敷のダイニングに入った私を見るなり、夫は慌てたように椅子から立ち上がる。
その拍子に椅子が後ろに倒れ、ガタンという大きな音が響き渡った
怯えた彼の緑がかった瞳がこちらを凝視する。
さきほどの夫の言葉、いたのかの前に『生きて』が付いていたことくらい、声に出されなくとも分かる。
部屋の中でさえ深くフードを被っている私を、夫は引きつった笑顔を浮かべなら見ていた。
結婚三年目。
私は金のためにあてがわれた妻であり、白い結婚だ。
それでもこの三年間、私たちは朝の食事の時間だけは共に過ごしてきた。
そう、私がこの病にかかるまでは。
「もうここには来てはいけませんでしたか?」
私の問いに、夫は怯えた表情を浮かべた。
そしてよほど不安なのか、何度も癖のある茶色い髪に触れている。
彼が私の病のことを嫌っているのは知っている。
もっとも、おそらく誰だってそうだろう。
治療法があるとはいえ、この病は感染性で人から人に感染るのだから。
「いや、そういう意味ではなくてだな……。その様子では、治療はまだなのだろう? 僕や母上にソレが感染りでもしたら、大変じゃないか」
「ではダミアン様、ずいぶん前にお願いしておいた私の治療費の工面はどうなったのですか?」
確かにこれは感染すれば大変な病だか、つい最近治療法が見つかったのだ。
その薬さえ飲めば、まだ助かる。
そう、致死性があるこの病から逃げられるのだ。
だけど……。
「この男爵家が困窮しているのは君が一番よく知っているだろう。到底、治療費なんて用意出来るわけがない。そういうのは君の父上に頼むといいじゃないか」
「そうよ。元々平民のくせに、この由緒ある男爵家に金で嫁いで来たんですもの。お金を頼るなら、実家にしなさい」
夫にとてもよく似た義母は、名案だとばかりに怯えながらも、大きく頷く。
「ですが父は……」
「嫁のくせに、口答えなどしてもいいと思っているの⁉」
嫁というものは、家族ではなかったのかしら。仮にもこの家に嫁いできた身なのに。
でも、そうね。
いつだって私の言葉をこの人たちが聞いてくれたことなどなかった。
私は床に視線を落とし、ただ一人ため息をつく。
「そんなに興奮したら体に障るよ、母上」
「でもダミアン!」
「分かってる。分かってるから。アンリエッタだって、ちゃんと分かっているから大丈夫さ」
そう言いながら夫は義母に微笑む。
そうやっていつものように何も言わず圧力だけかけるってことね。
分かってなくたって、分かれよということなのでしょう。
夫といい義母といい。
この人たちはいつだって自分たちに使うお金で手一杯で、私を気にすることなどない。
分かってはいたことだけど。
でも私が死ぬかもしれないと分かっていても、これなのね。
この三年間は本当になんだったのかしら。
白い結婚とはいえ、私は私なりにずっと頑張ってきたというのに。
それも全部、彼らにとっては勝手に私がやったことだとでも思っているんでしょうね。
実家を頼れ、か。
それに私をここへ嫁がせるためにたくさんのお金を使った父が、今更私にお金などかけてくれるかしら。
「わかりました……」
分かりたくなくとも、もうそれ以上の答えなどない。
「それこそしばらく実家でゆっくり療養するといい。その方がよすぐよくなるだろう」
どこまでも笑顔の夫に怒りを覚えても、私は結局何も言うことは出来なかった。
「……はい。そうさせていただきます」
体のいい追い出しってことね。
夫の顔には、もう戻って来なくてもいいと書いてあるようだった。
だけど他に手がない以上、父を頼るしかない。
私は深々と頭を下げ屋敷を後にすると、病で気だるい体を引きずるように、実家へと向かった。




