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一章 9



ただいまの時刻は九時十分。朝礼から始まった本日の業務は未だ十分しか経過していない。

にも関わらず私の集中力は散漫状態を極めていた。


理由は二つ。

一つは朝早くに起きすぎて眠気が今頃にピークを迎えているため。

もう一つは遠からず来る来訪者に心奪われているため。

などと迂遠な言い回しをしてしまったが、結局全てはただ一人に因果が収束する。


高階由良。

女性向け恋愛シミュレーションコンシューマーゲーム『紅が繁ぐ運命』の主人公である彼女に。


私は先週の宣言通り、彼女に会う機会を逃すまいとして始発の電車に乗ってローレルに出勤した。

当然のようにその門扉は閉ざされており、七時頃になって現れた当直と思われる守衛さんに「そんな若くから働き詰めすぎたらいかんぞ……」と言われた。仰る通りだ。

そして今朝の朝礼、水瀬燈真からの伝達事項の中にも彼女の名前は登場した。彼女の訪問は九時半ごろだと、彼は確かにそう言った。


私は先ほどからしきりに腕時計を確認している。早く九時半にならないかと待ち侘びているのだ。

しかしこういう時に限って時計は速く進んでくれない。クロノスタシスなんて言葉も浮かんできた。そのくらい時計は普段より遅々として進まないように思えたのだ。

いや、実際は私の気持ちが逸るばかりで時計はなんの異常も来していないのだと思うけど。


「あれ、三保さんラボですか?呼んで来た方が良いですよね」

「いや、三保さんは京都行ってるからいないよ」

「ああ、そういや出張でしたね。三保さんかわいそー。今頃悔しがってるだろうなあ」

「先週からずっと悔しがってたよ。最近愚痴のメールばっかりだ」


間島レイヤと水瀬燈真が職務中にも関わらず雑談に勤しんでいた。

まったく、駄目じゃないかそんなことしちゃ。仕事中にお喋りなんて。ちゃんと仕事に集中しないと。

……まぁ彼らも私にだけは言われたくないだろうけど。


事実として第八特務課の空気は浮ついている。私だけでなくて全体的に。理由は勿論高階由良の来訪によって。

さっきの二人は言うまでもなく、神楽・エヴァンズもそこはかとなく落ち着きがない。

唯一高坂流亥だけが普段通りと思いきや、その高坂流亥でさえコーヒーを注ぎに行く頻度が高すぎる。十分そこそこで三杯目はカフェイン中毒まっしぐらだよ。


そんないつも通りからはかけ離れた雰囲気の第八特務課に突如としてノックの音が響き渡った。

鈍さと鋭さの共存したそれが、弛緩した空気を切り裂くように鳴り渡る。


「失礼します」


ドアノブが回って扉が開く。

それと同時に小鳥の囀るような可憐な声が私の耳朶を揺らした。鈴を転がすような声と形容することになんの抵抗も感じさせない、そんな声。


控えめに開けられた扉の奥から天女にも見紛う麗しの女性が現れた。

扉から覗いた半身は折れそうなほどにほっそりとしていて庇護欲がそそられる。緩く巻かれた栗色の髪も、ヘーゼルの滑らかな瞳も、どこか日本人離れした雰囲気があった。

可愛い。ビスクドールのような愛らしさだ。


これが、高階由良。私は息を呑む。


「すみません、予定より少し早いのですが……」

「構わない。入ってくれ」


高階由良は腰を折って一礼し、第八特務課内に足を踏み入れた。

少しつついただけで壊れてしまいそうな儚さが、彼女にはあった。透き通るような白磁の肌はその儚さを助長させていて今にも消えてしまいそうなのに、誰の目も惹きつけて離さない存在感もある。


「神楽、おはよう」

「……おはようございます」

「や、久し振り。元気だった?」

「間島くん、久し振り。特に変わりなく元気でやってるかな」

「それなら良かった」

「た、高階さん、久し振り」

「ああ、流亥くん。久し振り。ふふっ、友達できた?」

「いや、まだ一ヶ月しか経ってないし……」

「やっぱりできてないんだ。私の予想通りじゃない」

「も、もう少しでできそうなんだ!勝手に決めつけないでくれる?」

「はいはい」

「由良ちゃん由良ちゃん、実は三保さん出張でいないんだよ~。寂しい?」

「いや特に寂しくはないけど。それに三保さんとは連絡取ってるから今日出張なのも聞いた」

「あ、そうなの。でも三保さんは寂しがってると思うよ~?」

「そう?子供じゃあるまいし、そんなことないでしょ」

「うわ、三保さん脈ないなー」


高階由良と第八特務課の面々との間でぽんぽんと弾むような会話が展開される。

仲良さそうだなぁ、と思った。物凄くちゃんと仲が良さそうだ。私が入り込む余地なんてないくらい。

高階由良が辞職した、という字面だけを見て何か第八特務課内で不和でも生じたのかと勘繰ったこともあったのだけど、この様子を見ているとそんなことはなさそうだった。

寧ろ関係は良好で、恋愛には発展しないまでも同僚としてはごく親しい間柄に思えるのだが彼女は何故ローレルを辞めてしまったのだろう。


「高階さん、少し良いかな」


談笑する高階由良に水瀬燈真が声を掛けた。

高階由良もその声に彼を振り返る。


「はい」

「……久し振り」

「ええ、お久し振りです。何かご用ですか?」

「ああ……そうだな。大切な用事だ」

「そうなのですか。どういったご用件でしょう」

「高階さん、君は何故ローレルを辞めたんだ?」


その水瀬燈真の一言に高階由良は底冷えするような冷たい笑顔を作った。


え、というかみんな高階由良の辞職理由を把握していなかったの?私はそれこそが驚きだ。勿論高階由良があんなに冷たい笑顔を見せるんだと言うことも衝撃だけど。


「一身上の都合と、以前お答えしたはずですが」

「それで納得できるほど上も柔軟な思考をしているわけじゃない。……それは君もわかっているだろう」

「上、ですか。まあそうでしょうね。では両親の介護のためとでもお伝えください」

「……わかった。伝えておこう」

「ありがとうございます。では……」

「もう一つ、尋ねておきたいことがある」

「……はい。なんでしょうか」

「君は今どこにいる?そして、そこで何をしているんだ」

「……実家で両親の介護をしていますが、それが何か?」

「本部も君の消息を掴むのには苦労しているらしい。だが、ここまで情報が出てこないとなると逆に目星もつけやすいものだ。君は……」

「水瀬さん、私は実家で両親の介護をしているんです。それが質問の答えです」

「……そうか。わかった、ありがとう。僕からの用事は以上だ」


そう言うと水瀬燈真は溜息を吐きつつ椅子に腰を落ち着けた。


……な、何今の一触即発の雰囲気は。

ピリピリとひりつくような緊迫感が肌を焼く。これは乙女ゲームの主人公と攻略対象キャラクターの間で発生して良い雰囲気じゃない。どっちかと言うとこれは……。


「ああ、高階さんの荷物は元の場所から動かしていないから」

「わかりました。ありがとうございます」


高階由良は水瀬燈真からさっさと視線を外す。よほど会話をしたくないのだろう。

どうしてこうもギスギスという他ない空気が流れているのだろうか。二人は曲がりなりにも元同僚であるというのに。


「あ、そうそう。由良ちゃんに紹介しなきゃいけない人がいるんだ」

「紹介?」


間島レイヤが会話の終了を見計らって高階由良に声をかける。

先ほどの空気から一転、明るさが戻ってきた。

良かった、と私は思った。だってあんな雰囲気が続いては私のノミの心臓が潰れてしまいかねない。私は繊細なんだからね。


などと私がほっと一息ついていると、なんと高階由良がこちらに近付いて来るではないか。

いや、よく考えたら間島レイヤの『紹介』って発言は私のことを高階由良に紹介するという意味に相違ないだろう。

え、ちょっと待って心の準備が。髪変じゃない?鏡見てる暇もないんだけど!


私の内心の狼狽えなど露知らず、間島レイヤに手を引かれた高階由良は一歩ずつ着実に私の元へと歩みを寄せる。

思わず私はガタリと席を立ち上がった。


「こちら、一週間くらい前にここに異動してきた常盤めぐりさんです」

「は、初めまして!!!常盤めぐりと申します!!!」


私は十分大音声と言える声量で挨拶をする。

私のとんでも声量で驚かせてしまったのか、高階由良はただでさえぱっちり大きいその瞳を更に零れ落ちんばかりに見開いていた。


うわあ、近くで見ると更に可愛いなあ。綺麗でもあり、可愛くもある。

でもきっと、そんな言葉では彼女を形容するのに十分ではない。彼女には世の全てを見晴るかす天上の女神のような壮大な美しさと、風に揺られる野百合の蕾に宿る未だ秘められた繊細な美しさとが共存した稀有な魅力が備わっていた。


「……初めまして。高階由良と申します。よろしくね」


そう言って高階由良は微かな笑みを浮かべる。

そのあえかな笑みは飴細工のように緻密で美しく、私には光の粒子を纏っているようにさえ思われた。


「よろしく、お願いします……」

「私、ずっと常盤さんに謝りたいと思ってたの」

「えっ?」


あ、謝る?なんで?

私は高階由良に何かをされたことなんてない。だって今初めて会ったのだから。

それなのに謝るなんて、どういうことだろう。


「常盤さんの転属は私のせいというのが大きいと思うんです。私がいきなりここを辞めてしまったから……だから、ごめんなさい」


そう言うと高階由良は腰を折って謝罪しようとする。

でも、私からしてみれば高階由良の謝罪を受け取る理由なんてない。確かに私の異動の引き金の一つに彼女の行動があったのかもしれないけど、高階由良にだって事情があるしそもそも異動の結論は彼女の預かり知らぬところで下されているわけで。


私は反射的に高階由良のしなやかな手を取ってその下がる頭を止めた。


「あ、あの、そんな。それは高階さんが謝ることではないと思います。それに第八特務課は良いところですから、異動も悪いことばかりではなかったというか……」


上手く言葉が紡がれてくれない。緊張のせいか、はたまた高階由良の美しさに私が呑まれているせいか。


「常盤さんはお優しいんですね。色々と苦労もあったと聞いていたのですが……。お気遣いありがとうございます」


高階由良は嬉しさに頬を上気させて私の瞳を覗き込む。私は依然彼女の手を軽く掴んだままだったので、自然と距離は近くなった。


ふんわりと、嫌味にならない程度の甘い香りが私の鼻腔をくすぐる。花開いた直後のような香しいまでの瑞々しい香りが肺に満たされて、私は少しくらっとした。

高階由良を掴んでいた手が熱くなったような錯覚を覚えて私は手を離そうとする。しかし何故か逆にやんわりと掴み返されてしまった。吸い付くような白魚の指が私の肌を這う。


感覚の全てが高階由良で埋め尽くされていた。

私の今感じるもの全てが高階由良だけで構成されていて、強制的に彼女のことを意識させられていた。高階由良の親指が私の手のひらをゆっくりと滑る。甘美な戦慄が私の背筋を駆けた。


いけない、と思った。よくわからないけど、このままではいけないと思った。

私は一歩後ろに足を引く。繋がっていた手も少し強引に振り払って、なんとか高階由良の感覚を身体から引き剥がした。


なんだったんだ、今の。脳は危機を感知しているのに、身体は彼女に全てを委ねてしまいたいと訴えているのがわかる。高階由良から距離を取った今でもその残滓は確実に残っていた。


私はちらりと高階由良の顔を見る。あまり長く見つめすぎると先ほどの二の舞になりそうだったから。

そうして私の網膜に映った高階由良は蠱惑的な笑みを浮かべている。またぞくりとした感覚が蘇りそうになって私は慌てて視線を逸らした。


「ん?どうしたの?」


数秒にも満たない沈黙があって、間島レイヤが不思議そうな顔をする。


「ううん、なんでも」


高階由良はそう返答をして私のデスクの脇で一瞬屈む動作をした。

再度立ち上がった時にはその手に大きいとも小さいとも言えない段ボール箱が収まっていた。

それが取りに来た荷物とやらなのだろう。


「……常盤さん」

「っ……!あ、はい。なんでしょう……」


高階由良が私の名を呼ぶ。

もう勘弁して欲しかった。彼女を五感で感じることは夢見心地にも近い感覚だったけど、その夢は確実に悪夢の要素が強かった。


「これは一つの提案だと思って聞いてほしいのですけど、」


高階由良は手近なステンレスの棚に持ち上げていた段ボールを下ろす。なんとなく、その中身はそう重いものではないのだろうと思われた。


トントンと軽やかな足取りで、高階由良は再度私に近付く。

彼女の歩いた跡は天使の梯子のように煌めいているような気がした。そのくらい、彼女の存在は現実味がなくて美しい。


「私と一緒に来ませんか?」

「え?」


言っている意味がわからなかった。なんの脈絡もなければ説明もないので当たり前だ。

でも一緒にって、高階由良とってことでしょう?行くってどこへ?


「あの、仰っている意味がよく……」

「別に意味なんて分からなくて良いのよ。ただ私と一緒に行きたいと言ってさえくれれば、それで」


意味がわからない。

そんなこと、言うわけがないだろう。何を……何を言っているんだこの人は。そもそもなんで私を……。


「今すぐ返事を求めてるわけじゃないから、そんなに混乱しなくて大丈夫。でも、私が今言ったこと絶対忘れないでね」


高階由良は私を見つめながら退いて、段ボール箱を手に取った。


「じゃあ、私もう行くので。失礼しました」

「えっ、もう行っちゃうの?」

「うん。私も忙しいからね」

「えー……じゃあね。また」

「うん。じゃあね」


高坂流亥は名残惜しそうにオフィスを出ていく高階由良を見送った。


私はふ、と短く息を吐く。わけがわからない。状況に脳の処理が追いついていなかった。

私は十数分前まで、確かに高階由良との邂逅を切望していた。

しかしこんな形での出会いを望んでいたわけじゃないのだ。もっと……いや、私は彼女に何を望んでいたのか。


「由良ちゃん相変わらずですねー。猪突猛進?」

「まあ確かに、相変わらず生き急いでる感じはするかな」

「ていうか、常盤さんはなんであんなに高階さんに気に入られてるんですか?ずるい……じゃなくて、おかしいですよ」


急に高坂流亥から名前を呼ばれて、私は肩を跳ねさせた。


「あ、あれは気に入られていたんですか……?」


とてもそうは……いや、確かに気に入っていなければあんなことは言わないか。でもそんなの、なんで気に入られているかなんて私が聞きたい。


「確かに珍しいよね~。由良ちゃん、基本的に超塩対応だからなあ」

「本当ですよ!僕なんて半年以上友達とすら思ってもらえてなかったのに……」


それは単に高坂流亥が嫌われていただけなのでは……と思ったが流石に口には出さないでおく。

それにしたって高階由良は何故あんな……。


私は彼女にこの世界の正解を求めていた。

正解ってなんだ、と言われると私もよく分からないのだけど、高階由良はそんなよく分からないものでさえも私に齎してくれるんじゃないかと期待していた。

他力本願甚だしい考えだが、彼女は主人公なのだからそのくらいは容易いだろうと思っていたのだ。

私が転生した理由も、この世界の仕組みも、私のこれからの行動も全部、彼女が居ればきっと多少の困難はあってもどうにか正解に辿り着けるだろうと思っていたのだ。

私は……


「あれ、これって由良ちゃんのやつじゃない?」


そう言って間島レイヤは床からペンケースを拾い上げた。


「ああ、本当だ。そのシャチのキーホルダーは高階さんのやつだ。届けてあげないと」


水瀬燈真の言う通り、シックな色合いのペンケースには白黒のシャチのキーホルダーが着けられていた。

外見通りの可愛い趣味だと思うと同時に一つ、私の中である欲望が湧いて出た。


このペンケースを届ければ、きっともう一度高階由良と会える。

私は、もう一度会えば何かが変わると、この期に及んで期待しているのだろうか。きっとしているんだろう。

それに、さっきは高階由良の雰囲気に呑まれ過ぎていた。今度こそ、私から働きかければ何かが分かるんじゃないかと、何かが変わるんじゃないかと、そう思った。


「あの、それ私が届けてきても良いですか?」


オフィス内の視線が一気に私に集まる。

その後に水瀬燈真と間島レイヤが顔を見合わせた。


「そうだね。常盤さんに任せようか」


水瀬燈真が諾うように頷く。


良かった、と思った。

私はまだ、高階由良のことを知らなさすぎた。知らなければわからないのも当然だ。だから、私は高階由良をもっと知りたい。


「いや、僕が行きますよ。常盤さんは仕事が……」

「流亥は空気を読めるようになろうなー?水瀬さんが常盤さんに任せるって言ったんだから、余計なこと言わない」


ありがたいことに間島レイヤが高坂流亥を止めてくれていた。

私は彼からペンケースを受け取る。


「気をつけてね」

「はい!ありがとうございます!」



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