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一章 7



高階由良が第八特務課を訪れる日まであと三日!

つまり今日は花の金曜日!二重の意味で心躍る日だ。


まだまだ高坂流亥に怒られることも多いが、仕事にも慣れてきたし。前途洋々、そう言って差し支えないのでは?


私は鼻歌まじりに__というのは勿論比喩だけれど、帰宅の準備を始める。

間島レイヤはまだパソコンに向かい合っているが、もう定時はすぎているので私が勝手に帰っても問題なかろう。


「あれ、常盤さんもう帰る?」

「はい。あ、私何かお手伝いした方が良いですか?」

「いや大丈夫大丈夫。お疲れ様、気をつけて帰ってね」

「ありがとうございます!」


三保瑛人は出張の準備だとか、水瀬燈真は本部からの呼び出しだとかで特務課にはいなかった。高坂流亥はその年齢を気遣われて毎日定時で帰らされているのでもういない。神楽・エヴァンズは知らん。いつの間にかいなくなっていた。

私も軽く礼をしてオフィスを出る。


折角の金曜日だしどこかに寄ってから帰ろうかな~。なんなら外食しちゃう?そんなに高いお店には行けないけど、いつものお店でちょっと良いものを食べるくらいなら許されるでしょ、きっと。

前世を思い出してこの方、心安まる機会がなさすぎたしね。うん、うん、そうしよう!


私はローレルと外界を繋ぐ門扉を通り過ぎ、最寄りの駅まで車道沿いを下って行く。

夜の帳が降り始めるこの時間帯ともなれば流石の東京でも車通りが増える。


黒光りするレクサスが脇を通り過ぎる時、私の目は何らかの違和感を捉えた。

……違和感?いや確かに今、私は何か変なものを見たのだ。違和感としか形容のしようのない何かを。

でもそれはすぐに見えなくなった。何故?

理由は多分、それがレクサスに映ったものだったから。

黒塗りの車体は眩いまでの西日を受けて周囲の風景を反射した。しかし、それは明らかに法定速度を超した速さで過ぎ去っていったのだ。まあ早く帰りたいよね、分かるよ。今日金曜日だもんねー。

じゃない。なんだったんだろう、さっきの違和感は。


その後に次々と車道を走り去る車は明度が高いものばかりで、先程のレクサスのようにはっきりとは違和感を映し出してくれなかった。

気にならないことはないけど、余り気に病みすぎても体に毒だ。疲れからくる空目だと思って事なきを得ることにしよう。


そんなことより。

何食べようかな~。和洋中でいったら和の気分だな~。お寿司?お寿司にしちゃう?揚げ物がっつりも良いね~。うどんとか蕎麦とかも良いよね。そうしたら天ぷらも一緒に食べれるし!


弾ませた歩みを私は一旦交差点で止める。歩車分離式の信号だったので青になるまでにはそれなりの時間がかかりそうだった。

ぶうんと唸り声をあげるエンジンを載せた多種多様な車が交差点を右から左に、或いは左から右に流れていく。


その時、私の目の前をトヨタカローラが走り去っていった。カラスのような、漆黒のカローラ。

夏の始まりを感じさせる夕暮れ時の突き刺すような光が、私の背後をぼんやりと車体に反射させる。

その中には聳え立つ巨漢が、しかも私を見守るようにしてそこにいた。

それは決して見間違いなんかじゃない。

確かに私のことを見つめていたのだ。


私はばっと後ろを振り返る。しかしそこには誰もいない。

道にはガードレールの直線的な影だけが静かに落ちていた。


私の背筋にぞっとした寒気が走る。

え……もしかしてストーカー?こんな職場の近くで?ということはつまり職業がバレているってこと?そんな……いつから?家は?家の住所まで把握されているのだろうか。

純粋な恐怖が私を支配する。


かん高い機械的な鳥の鳴き声が信号機から発せられた。歩行者信号が青に変わったのだ。

私は殆ど反射的に駆け出す。

さっき映った人影が本当に私のことを見ていたかなんて、そんなのは問題にならなかった。

そんなことより逃げなければと、ただ只管にそう思った。

駅の構内に入ってしまえば取り敢えず安心だと思ったから、東京メトロの青い標式が見えた時には涙目にすらなっていた。


しかし、焦った私は普段の運動不足も相まって足元が覚束ないでいた。

地下鉄までの階段を駆け降りようとして、私のヒールはぐにゃりと曲がる。

体の重心が前のめって、その勢いはもう止めようがない。

落ちる、とそう思ったその時だった。


「危ない!」


私の身体は信じられないほどの力で引き上げられて、重力の向きとは反対方向に倒れこんだ。

しかし倒れた反動の衝撃は全くと言って良いほど訪れず、身体を痛めることもない。

私は誰かに抱きとめられていた。


「大丈夫……か?」


水面が静かに揺れるような、謐然としたバリトンボイスが私の耳に囁かれた。

私を抱きとめる腕は木の幹のように太くて逞しい。広くて少しゴツゴツした胸板は私一人の体重なんかじゃ、そりゃあびくともしないだろう。


私はこの人物に心当たりがあった。


「あ、ありがとうございます。……神楽、さん」


そう、私を窮地から救ってくれたのは何を隠そう『紅が繋ぐ運命』の攻略対象キャラクター、神楽・エヴァンズその人なのであった。


階段から落ちずに済んだこともそうだけど、今一人でないという安心感。

全身から一気に力が抜けて、その場に垂直に落ちてへたり込みそうになる。

しかしそれも神楽・エヴァンズによって阻止された。


「大丈夫か?どこか怪我をしたのか」

「い、いえ。そうじゃないんです。そうじゃなくて……うう……うわーん!」


私は神楽・エヴァンズに泣きついた。

もうはしたないとか、全然喋ったことないとか、大の大人としてどうなのとか関係なかった。

だって怖かったんだもの!めっちゃ!怖かったんだよ!真面目に襲われるかと思った!


「どっ、え、ど、どうしたんだ……?」

「ううう……すみません突然……。ちょっと……いやめちゃくちゃ安心して……」


神楽・エヴァンズが目を白黒させている。当然だ。本当になんの説明にもなっていないから。

でもあと十秒待って欲しい。こっちにも気持ちの整理というものがある。


ということでたっぷり十秒ほど泣き喚いた後、私は神楽・エヴァンズから身を離した。


「すみませんでした、いきなり……あの、助けていただいてありがとうございます。本当に、本当にありがとうございます!」


いやもう、本当に感謝してもしきれない。

世界中のあらゆる言語を駆使したって私の今の気持ちを表現し切ることは不可能だ、絶対。絶対なんてあり得ないと言われても、絶対なのだ。


「それは構わない……だが、なんで急には……いや、こんな所で躓きかけたんだ?」

「それがですね、私さっき変な人を見かけて……」

「変な……人?」

「そうなんです!なんか後ろに私を見張ってる人がいたんですよ!車に反射してるのを見ただけなんですけど、あれは絶対私のこと見てました!見られてるかどうかってなんとなくわかるじゃないですか。だから、その人私のストーカーなんじゃって思って」

「ああなるほど、それで……」

「……神楽さん?」


私の話を聞いた神楽・エヴァンズは苦々しい表情をした。

それは……同情の表れで良いんだよね?なんかそれにしては……。


「常盤さん、すまない」

「え?なんで神楽さんが……」

「それは俺だ」


私は無言で神楽・エヴァンズから距離をとった。


「……神楽さん、ストーカーなんですか……?」

「違う。誤解だ」


いやいやいやいや、この状況のどこに誤解をする余地があろうか。

態々跡をつけるような真似をする必要が、果たしてどんな時に発生して果たしてどんな時にそれならしょうがないで許されるのか。


「神楽さん、こういう時は素直に認めた方が良いですよ。私も今なら裁判沙汰には……」

「だから、誤解だ。俺はただ落とし物を渡そうとしていただけだ」

「落とし物?」


そう言うと神楽・エヴァンズは一枚の布切れを私に差し出した。

白黒で音楽記号の散りばめられた模様のそれは、確かに今日私が持ってきたハンカチだ。

私は慌てて肩に掛けた鞄の中を漁る。

本当だ、いつの間にかハンカチがなくなっている。


「あ、それはどうもありがとうございます……」

「礼には及ばない。誤解が解けさえすれば俺はそれで……」

「いや、いやいや。それとこれとは話が別です」

「な、何故だ。俺は本当にただ……」

「ハンカチを拾っていただいたのはありがたいですが、色々と不可解な点が多すぎませんか?本当にストーカーでないと言うなら何故すぐに声を掛けなかったんですか。私交差点で一回振り返りましたけど、その時神楽さん隠れましたよね?姿が見えませんでしたから。なんでそんなことしたんですか?疚しいことがないなら態々隠れませんよね?」

「いや……そ、それは……」


神楽・エヴァンズは困ったような顔をしてその眦を歪めた。


そんな顔をしたって私は騙されない。無実と決めつけるにしては彼の行動は怪しすぎる。


「確かに俺はあの時隠れたが……それは疚しいことがあったからじゃなくて……」

「じゃあなんだって言うんですか」


神楽・エヴァンズは一層困ったように眉根を寄せた。

その表情はある種途方に暮れているようにも見える。


「……その、笑わないで欲しいんだが……」

「え、はあ。わかりました。笑わないです」

「……話掛ける勇気が……出なくて……」


私は絶句してしばらく口がきけなかった。

それを信じろと言うのか、とそんな思いも確かにあった。神楽・エヴァンズの言い分はひどい……信ずるに値しないものだ。

もし私に前世の記憶なんてものがなければ。


「借じてもらえないかもしれないが……」


まあ、そうですね。それを信じろというのはかなり無理がある。言い訳や方便にしか聞こえないもの。


でも、心のどこかで妙に納得している部分があるのも確かだ。

確かに『紅が繋ぐ運命』内での神楽・エヴァンズもコミュニケーション能力の欠如が垣間見られるシーンがそれなりの数あったと記憶している。人見知りの気もあるし、話したら話したで口下手さが顔を覗かせる。

だからこそ彼の一言一言にはしっかり意味があったし、口にした言葉には重みがあった。


……ということは、やっぱり神楽・エヴァンズの言っていることは本当?本当にただ私の落とし物を拾って届けようとしたけど、怖気付いただけ?

いやいや、ゲームに惑わされてはいけない。だってまだ怪しい部分は残っている。


「もう一つ、聞きたいことがあります。神楽さんは私より早く帰宅されていましたよね?それなのになんで私の落とし物なんて持っていたんですか?」

「ああ、それは……そもそも俺は帰った訳じゃなくて企画課に行っていたんだ。その帰りに常盤さんが落とし物をしたのを見て、それで……」


私は神楽・エヴァンズの瞳をじっと見つめながら考える。

特に矛盾はない……か?いや状況はこの上なく怪しいけど、それはそれとして取り敢えずのところ一応神楽・エヴァンズの話に食い違いは見られない。……と思う、多分。


正直私の中に先入観が出来上がってしまっていて、これが正しい判断なのかよくわからないのだ。ゲームの中の神楽・エヴァンズは本当に全く嘘を吐かない人だったし、ストーカーみたいな人の嫌がることをする人間では絶対になかった。

だけれども、それを今目の前で起こっていることに対して適用してしまって良いものか。

高階由良が第八特務課に存在していないこの世界は、確かにゲームの世界ではあるけれど、最早既に私の知っている『紅が繁ぐ運命』の世界ではないのだ。


「……神楽さんは今日偶々私の落とし物を拾って追いかけてきた。本当にそれだけなんですね?」

「ああ」

「本当に、嘘偽りなくそうなんですね?」

「……ああ」

「神に誓ってもですか」

「……俺は君に危害を加えるようなことはしない。神に誓って絶対に、だ」


神楽・エヴァンズは真っ直ぐに濁りのない瞳で私を見据えてそう言う。

もう……まともな証拠なんて出てこない余りにも曖味な、論理的でなくて生産性のない会話だった。

それでもというか、だからこそというか、結局のところ私の身の振り方は決まっているも同然なのだ。


「わかりました。取り敢えず、今のところは、一応、神楽さんのことを信じます。信じるにも疑うにも根拠が全く足りませんから、それだったら人を疑い続けるのは疲れるので」


私がそう言うと神楽・エヴァンズは明らさまにほっとしたような顔をした。

その表情が示すのは彼の潔白か、それとも罪か。そんなもの、私にわかるわけがない。

私は確かにこの世界をゲームの中の世界だと認識しているちょっと特殊な人間かもしれないけど、結局それ以上でもそれ以下でもない。ゲームの登場人物だからといって彼らの行動を十割理解するなんてことは不可能だ。

だから、今はもう自分の心に素直に従っておくことにする。

なんとなく、本当になんとなくだけど、神楽・エヴァンズが私をストーキングなんていうのは有り得ない、とそう思うのだ。


「ハンカチと、それから落ちそうになったのを助けていただいてありがとうございます。それじゃあ、私もう帰りますので……」

「……ちょっと待ってくれないか」

「なにかありました?」

「これから俺と……夜ご飯でも食べに行かないか」

「この流れで!?」


いやこの人正気か?なんで自分から疑われにいくんだ。この流れでディナーに誘ったら怪しすぎるでしょ。


「あのですね、この流れで私が行きますなんて言う訳がないでしょう。怪しすぎですよ」

「それは……承知の上だ。そこをなんとか……」

「なんとかなりません」

「金は全て俺が出す」

「……そ、そんなことで私が揺らぐとでも……本当に奢ってくれるんですか?」

「ああ、いくらでも」

「本当ですね?言質取りましたからね?」

「ああ」

「じゃあ行きましょう!」

「……俺が言うのもなんだが、それで良いのか……?」



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